2016年9月5日月曜日

20160905 作家、著述家と地域性

A「1日ブログ記事投稿を休んだからといって、特に書きたいことが増えるわけでもないことがわかりました・・(苦笑)。
また、それは本日に関しても同様です。

しかしながら、ここでもう1日休んで記事の投稿を止めておくと、今度はそれがクセになってしまうのではないかという危惧により、本日は記事作成を開始した次第です・・(苦笑)。

こうした動機とは、見方によれば、あまり良いものではない(不純)のかもしれませんが、実際のところ、こうした動機により(少なくとも部分的には)これまでの継続的な記事作成は為されたといっても良いと思われます・・(苦笑)。

そのように考えてみますと、何かを為すにおいて能動性が大事であるとはいいながら、付加的なものとして、こうした外圧的な心理的効果といったものも有用でないといい切れないところが、我々の心の甚だ面白いところではないかと思われます・・(笑)。

そういえば、最近は作家の山田風太郎の著作を読んでおりますが、その文体から感じられる著者の人柄とは、もしかすると、水木しげるに類似している部分が(少なからず)あるのではないかと思われます・・。
これを読まれている方々はどのようにお考えになりますでしょうか?

そして、この意見がある程度の普遍性を持っていると認められますと、改めて地域性といった議題を提示すことが出来るのではないかと思われます・・(笑)。

そしてまた、そのように記しますと、以前のブログ記事にて「近代以降の我が国の作家で東京都(特に都心部)出身で長編を多く著した作家、著述家は少ないのではないか?」といった意味のことを記しましたが、その考えと同じ地平に立ち、先ほどの山田風太郎、水木しげるの類似性(それが認められるのであれば)を考えてみますと、同様に、その他(の(地域、地方)においても何かしらの仮説、試案などが出てくるのではないかとも思われます・・。

そして、(そうであれば)それもまた、我が国における面白い地域性の学び方の一つとなる可能性があるのではないかと思われます。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」