2020年7月19日日曜日

20200719 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」pp.335‐338

「人類は前代未聞の革命に直面しており、私たちの昔ながらの物語はみな崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ一つも現れていない。このような史上空前の変化と根源的な不確実性を伴う世界に対して、私たちはどう備え、次の世代にはどんな準備をさせておけるのか?

今日生まれた赤ん坊は、2050年には30代に入っている。万事が順調にいけば、その子供は2100年にも生きていて、22世紀に入っても溌剌と暮らしてさえいるかもしれない。

2050年あるいは22世紀の世界で生き延び、活躍するのに役立ててもらうためには、その子供に何を教えるべきなのか?その子は、仕事を得たり、周りで起こってることを理解したり、人生の迷路をうまく通り抜けていったりするためには、どんな技能を必要とするのか?

あいにく、2100年は言うまでもなく、2050年の世界がどうなっているかは誰にもわからないので、このような疑問の答えを私たちは知らない。もちろん、これまでも人間は未来を正確に予測することはできなかった。だが今日、未来の予想はかつてないほど難しくなっている。なぜなら、テクノロジーのおかげでいったん体と脳と心を作り変えられるようになってしまえば、もう何一つ確かに思えるものがなくなるからで、それには、これまで不変で永遠のように見えていたものも含まれる。

 今から1000年まえの1018年には、人々は未来についてわからないことはたくさんあったが、それでも人間社会の基本的特徴が変わることはないと確信していた。もしあなたが1018年に中国に住んでいたら、1050年までに宋王朝が崩壊したり、契丹が北から侵入してきたり、疫病で何百万もの人が亡くなったりしうることは承知していた。とはいえ、1050年にもほとんどの人が依然として農民や職工として働き、支配者たちが依然として軍隊や官僚制を人間で賄い、男性が依然として女性の上に立ち、平均寿命が依然としておよそ40年で、人間の体はまったく同じままであるだろうことは明白だった。したがって、1018年には中国の貧しい親は、子供たちに田植えの仕方や絹織物の織り方を教え、豊かな親は、息子たちに儒教の古典の読み方や書道、馬に乗っての戦い方を、娘たちには慎みのある従順な家庭婦人になることを教えた。こうした技能が1050年にも必要とされることは明らかだった。

 それに対して、今日私たちは、2050年に中国や世界のその他の国々がどうなっているか、想像もつかない。人々が何をして暮らしを立てているかも、軍隊や官僚制がどのように機能するかも、ジェンダー関係がどうなっているかも、まったくわからない。今よりもはるかに長く生きる人もおそらくいるだろうし、生物工学や、脳とコンピューターを直接つなぐブレイン・コンピューター・インターフェイスのおかげで、人間の殻らそのものが空前の革命を経ているかもしれない。したがって、今日子供たちが学ぶことの多くは、2050年までに時代遅れになっている可能性が高い。

 現在、情報を詰め込むことに重点を置いている学校が多過ぎる。過去にはそれは道理に適っていた。なぜなら、情報は乏しかったし、既存の情報の緩慢で、か細い流れさえ、検閲によって繰り返し堰き止められたからだ。たとえばあなたが1800年にメキシコの田舎の小さな町に住んでいたら、広い世界について多くを知ることは難しかっただろう。ラジオもテレビも日刊紙も公共図書館もなかったからだ。仮にあなたが字を読め、個人の書庫に出入りできたとしても、小説と宗教の小冊子以外には、ほとんど読むものなかっただろう。スペイン帝国は、各地で印刷される文書はすべて厳しく検閲し、外部からは念入りに検査した出版物がわずかに持ち込まれるのを許すだけだった。あなたがロシアやインド、トルコ、中国の田舎町に暮らしていても、状況はほとんど同じだった。近代的な学校が設立され、子供たち全員に読み書きを教え、チリや歴史た生物学の基本的事実を知らせるようになったのは、途方もない進化だった。

 それに対して21世紀の今、私たちは膨大な量の情報にさらされ、検閲官たちでさえ、それを遮断しようとはしない。むしろ彼らは、せっせと偽情報を広げたり、無関係な情報で私たちの気を散らしたりしている。もしあなたがメキシコの田舎町に住んでいて、スマートフォンを持っていたら、一生かけてさえとても足りないほど、ウィキペディアを読んだり、TEDの講演を観たり、無料のオンライン講座を受講したりできる。どんな政府も、気に入らない情報すべて隠すことは望めない。その一方で、相容れない報道や、人の気を逸らす情報を世間に氾濫させるのは、驚くほど易しい。世界中の人が一回マウスをクリックするだけで、シリアのアレッポの爆撃や、北極圏の氷の融解について、最新情報を手に入れられるが、矛盾する話があまりにも多いため、何を信じていいか困ってしまう。そのうえ、たった一回クリックするだけでアクセスできるものは他にも無数にあるので、的を絞るのが難しく、政治や科学があまりにも複雑に見えるときには、愉快な猫の動画や、有名人のゴシップや、ポルノに、ついつい切り替えたくもなる。

 そのような世界では、教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない。生徒はすでに、とんでもないほどの情報を持っているからだ。人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。」
株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

20200718 株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」pp.11‐14

「私は日本の歴史に触れて、しだいに一つの考えを抱くようになった。死者が生者を支配するーといった現象が、日本の歴史において、あまりにも多いように思うのだ。死者が生者を支配するーというのは、周知のようにオーギュスト・コントの有名な言葉だが、それは死者と生者の連帯を意味するのであろう。ヨーロッパでじゃ、伝統とは死者と生者の連帯というほかにない。

しかし日本では先祖とのつながりはあるにしても、普遍的な死者と生者の連帯はない。あるのは対立だ。しかも死者が生者を支配するのだ。
 いったいこういう歴史がほかのどの国にあるのか、寡聞にして私はそれを知らない。死者が生者をうごかす。生者は死者のそうした力を信じ、おそれ、それをとりなすためのあらゆる努力を傾ける。こういえば、悪霊をしずめる未開社会の心理を連想するだろうが、日本のばあいは未開社会とちがう発展の歴史をもっている。
 しかも日本ほどたやすく死者の復活を信じている国民はすくないだろう。わずかこの一世紀ばかりの、あるいは戦後20年ばかりの歴史を尺度にして私はいっているのではない。何千年もの伝統をふまえて、そういっているのである。
 普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。この死者の魔は、老ゲーテの信じた肯定的デーモン(地霊)とはちがって、否定的な魔である。
 それは表側の歴史にたいしては挑戦し、妨害し、畏怖させ、支配することをあえて辞さない。死者は、生者が考えるほどに忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに、自己の存在を生者に思い出させようとするかのようだ。
 この魔の伝承の歴史ーを抜きにして、私は日本の歴史は語れないと思うのだ。
 しかも、このばあい、死者は敗者であり、生者は勝者なのだ。弱者が強者を、夜が昼を支配することがあっていいものか。弱肉強食が鉄則になっているヨーロッパの社会などでは考えられないことだが、敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、わが国の歴史では、れんめんとつづいている。この奇妙な倒錯をみとめないものは、日本の歴史の底流を理解することはできない。
 死者の否定的な魔が歴史をうごかすーそれは史観と呼んでも差し支えないであろうが、私はそこまでいうつもりはない。ただ私は、日本人が忘れっぽくない民族であることを証明したいだけである。
 戦後の日本人のそれぞれが体験した労苦は生やさしいものではない。この時期に日本人は敗者としての意識をいやというほどに味わった。しかも敗者が敗者のままでとどまるかぎり、それは所詮どうにもならぬことであることも痛切に体験した。
 敗者として同情されることを日本人は嫌悪した。敗者の地位に立たされた日本人が、全力を尽くして考え抜いたことは、いかにして被害者が加害者になりうるかということであった。その証拠には残酷という言葉が、一時期を風靡したことでもわかる。
 こうした情念は、日本人が占領者アメリカにたいして、あるいは政党の被除名者がその政党にたいして抱く感情の代表的なものである。私が戦後の日本人の心情をもち出したのはほかでもない。挫折者または敗者の心情体験をとおして、死者の生者にたいする関係が、あらかじめ理解できるとおもうからだ。
 戦後の日本人が生きのびたという、それだけの理由のために勝利者づらするのを許さない死者たちがいる。彼らは、被害者から加害者への道おひらくことにおのれを賭けて、生者をゆさぶり、ひっぱたき、生者たちを眠りこませないようにしている。
 もとよりそうした死者は戦死者だけではない。政治的事件や反乱に参加して処刑された死者たちも含まれるのである。彼らの企ては挫折し、彼らは敗者としての死を強制された。勝者にたいして一言の抗弁もゆるされないときに、彼らができることといえば何か。
「夜に入り陰雨猛雨交々として来る。雷電激して閃光気味悪し、遠く近く雷鳴続く、鬼哭啾啾タリ 村兄は読経をす 余は 寺内、石本等不臣の徒に復讐す可くノロヒの祈りをなす、ノロヒなり、ノロヒなり。」
 これは二・二六事件の首謀者として死刑を宣告された磯部浅一が、処刑に先立って書いた獄中日記の一部である。一切の希望が絶たれたときに可能なことは、自分を理不尽な運命につき落とした神と生きた敵とをのろうほかにない。磯部は神々を叱咤し、罵倒し、それでなお神々がうごかないとみると
「余は祈りが日々に激しくなりつつある。余の祈りは成仏しない祈りだ。悪鬼になれるように祈っているのだ。優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ。必ず志をつらぬいて見せる。余の所信は一分も一厘もまげないぞ。」
という境地にまで達する。生きながら死者の列にかぞえられている人間の再生するすがたがここにみられる。
「地獄堂通夜物語」によると、佐倉惣五郎(木内宗吾)は処刑のさいに眼をかっと見開いて「極楽往生に望みなし、念仏供養も頼み致さず」といいきった。このとき一天にわかにかき曇り、篠をたばねたような大雨がふりかかって、雷が鳴りわたり、処刑に立ち会った連中は、いっせいに逃げ去ったという。
成仏ーつまり死者の安らかな眠りを断乎として拒否し、悪鬼として復活をねがう瞬間に、私たちは立ち会っているのだ。二・二六事件の被告にかぎらず、怨恨と呪詛が、ついに「魔」の誕生を必然化させる過程をここにみることができる。」
株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611