2016年7月17日日曜日

20160717 銅鐸および師匠について・・

おかげさまで昨日も1日の閲覧者数が1000人に到達しました。
これまで興味を持って読んでくださっている皆様、どうもありがとうございます。

また、昨日記した記事は、これまでに記した記事のなかでも1日の閲覧者数が多い方でした。
昨日の記事はどちらかというと題材がマニアックであったとも思われますので、この現象には多少驚かされました(笑)。

とはいえ、こうした古代の墳墓をも含む古の建造物、製作物などは、それが当時の人々のどのような思い、思想を具現化したものであるかと考えてみると、なかなか面白く、またそれが当時の(ホンモノの)歴史を知る自然な第一歩目にもなることも(少なからず)あるのではないでしょうか?

そうしたものの中で、未だにある程度統一された見解が得られていない謎が多いものとして、弥生時代の青銅製祭器である銅鐸が挙げられます・・。

かつて修士課程在籍時、紀伊国、和歌山の地域性を考えるうえで、一つの題材、切り口として銅鐸は適当であると考え、ある程度、銅鐸について書かれた著作を読み、県内でそれが出土した場所(複数)を実地に訪ねてみました。

結果として、いくつかの傾向、特徴らしきものは見えましたが、それがその後の時代、つまり3世紀以降の古墳時代にどのように結節しているかが分からず、とりあえず、大雑把には、室町時代と江戸時代の間に戦国時代があるように、弥生時代と古墳時代の間には倭国大乱(三国志の魏志倭人伝・後漢書東夷伝、倭人の条)の時代があり、その間に、あるいはその結果、銅鐸を用いて祭祀を行っていた主に西日本在の諸集団は、敵対する集団に屈服し、その祭祀およびその象徴であった祭器(銅鐸)を遺棄あるいは自然(土)に埋納したのであろう。といった認識に至りました・・。

また、以上の経緯を示す神話が出雲の大国主による(天孫族に対する)「国譲り」であると思われます。

その意味において出雲(現・島根県雲南町・加茂岩倉遺跡)から国内最多(39口)の銅鐸が出土していることは、大変興味深いことではないでしょうか?

また、この時期に銅鐸のことを記しておりますと、昨年丁度この時期に亡くなった一人の師匠を想起します・・。
この師匠とは、師匠であると同時にごくごく近い親戚でもあり、以前当ブログにて数度記したことのある松山在住の方がそれです。

鹿児島在住時に何度か松山に行き、そして当ブログにて度々登場した大分県臼杵市に立ち寄ることになりましたのも、考えてみますと、この師匠を訪ねたことが原因でした・・。

この方は、私のそうした(一見しょうもない)歴史ネタに対して、とても関心を示してくださり、また、私の主張に対して、さまざまな疑問をぶつけてくださったことにより、その一連の会話とは、私にとってかなり有益なものになりました。

また、追記しますと、一連のブログ記事での、少なからぬ対話形式のものは、この方との対話をモデルとして作成しております・・。
さらに、私が昨年6月よりブログ記事作成をはじめた(大きな)理由の一つとして、この方に勧められたからということが挙げられます・・。

一連のブログ記事とは、この師匠にあまり顔向けできるような面白い、良い記事ばかりではないと思われますが、とりあえずは(多少は苦しみ、そして楽しんで)継続しておりますので、まあ許容範囲内であるのではないかと思います・・(苦笑)。
(はたして本当にそうなのだろうか・・?)

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。


また、さる4月の熊本を中心とする大地震による被災地の復旧、そしてそれに続く復興が速やかに為されることを祈念しております。





20160716 金峰町、金峯山・支石墓、甕棺墓から・・

唐突ですが、首都圏にて再度暮らしてから一年以上が経ってしまいました・・。

私は首都圏の生まれ、育ちではあるのですが、大きな人生の転機といったものは大概、地方在住の時にあった、受けてきたように思います・・・。

現在であるからこそ、率直に書けますが、当初、地方での生活とは刺激が少なく、かなり退屈に感じておりました・・。

しかし、そこでの生活に慣れるにしたがい、他の面での刺激を感じ取ることが出来るようになり、同時に何かに打ち込むには、地方での生活の方が都合が良いのではないかと考えるに至りました。

それ故、私の場合、特に和歌山と鹿児島の自然、風土そしてその延長ともいえる地域社会に対して、もう少し感謝、敬意の念を持つべきであるのかもしれません・・。

しかしながら、どうしたわけか再度首都圏に住むこととなり、また、それに慣れつつある私がおりますが、これは自身としては基本的に不本意なものであり、今後再び機会を見つけ、再度さきの二つの地方を含む西南日本の何処かに赴き、住むべきではないかと考えております・・。
それが何時になるか分かりませんが・・。

また、そうした自身のある程度具体的な望みとは、区切りの良い366記事目に書いてみようと思います。
こうしたことは「軽々しく書くのは如何なものであろうか?」とも思いますので・・。

さて、本日は所用があり、その帰りに神田神保町に行き、保育社刊のシリーズ「日本の古代遺跡」鹿児島編を見つけ、立ち読みしておりましたら、そこに主に北部九州、特に博多湾沿岸地域に多く見られる大陸(中国東北部)、半島由来の弥生時代の墓制である、支石墓(~前期)、甕棺墓(~末期)が鹿児島県西部、薩摩半島の中部から南部にかけての金峰町(現・南さつま市)にて発見されていることが記されており、かなりビックリしました・・(笑)。

鹿児島在住時、この付近の金峯山には何度か登ったことがあり、たしか山頂に金峰神社が祀られていると同時に、何故か羽をたたんだ鶴の銅像があったことが思い出されます・・。

私は苗字が苗字であるので、何となく面白く感じ、覚えていた次第です・・・。

しかし、そのように思い起こしますと、彼の地、鹿児島には「鶴」とつく地名、苗字などが他府県に比べ、多かったのではないかと思われます・・。

そして、それも地域性の一つであるかもしれません。
また、その理由とは、はっきりとは、わかりませんが・・。
しかし、何かしら面白いことであるとは思います。

さて、さきの金峰町にて発見された支石墓、甕棺墓のことを敷衍して考えてみますと「古事記」の天孫降臨のくだりにて登場する「この地は韓国(からくに)に向かいて、笠沙岬(かささのみさき)を真来通りて・・」の笠沙が、この近辺に存在することは、なかなか興味深いことではないかと思われました。

しかし、この現在の地名(笠沙)が当時も同地に存在していたかどうかは今もって不明なところではありますが・・。

しかし、いずれにせよ、弥生時代の大陸、半島由来の墓制(支石墓、甕棺墓)が九州西岸を下り、ここ南九州西岸付近にも浸透していたこと、そして、そこからもう少し南下した種子島の広田遺跡からの出土物が示す、ほぼ同時代の中国南部からの(道教?)文化が東シナ海を渡り、この地にもたらされていたことは、当時のこの地域一帯における多彩な文化の併存(国際色が豊か)を示すものであり、そのことから「当時のこの地の文化とは、一体どのようになっていたのだろうか?」と考えてみますと、なかなか面白いのではないでしょうか・・(笑)?

さる四月の熊本を中心とする大地震により被災された地域の速やかな諸インフラの復旧そして、それに続く復興を祈念しております。

また、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。