2021年5月29日土曜日

20210529 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.403-408より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.403-408より抜粋
ASIN : B00J861M36

予感があった。私は中央道路に出て一散に門に向って駈けた。50米あった。門のあたりは反射燈に明るく照らし出され、番兵が一人立っている。門外の暗闇から一人の米兵が何かを叫びながら、こちらに駈けてくる。彼は忽ち門に着き、番兵と肩を叩き合い、抱き合って踊った。

 第一次大戦を取材したアメリカ映画をいくつか見ていた私は、この光景が何を意味するかを知っている。訊かなくてもわかっている。

 私は止った。この間に道路左側の大体本部から大隊長イマモロと副長のオラが駈け出して来ていた。いざとなると、さすがに職業軍人は足が速い。私が止る頃には門に着き、番兵と二言・三言交わすと、さらに外の収容所事務所の方へ駈けて行った。有刺鉄線を隔てた台湾人地区から大隊長の李も門に着き、すぐ両手をあげて、何か叫びながら引き返して行った。事態はいよいよ明白であった。

 私は廻れ右をした。歩むにつれて、柵を隔てた台湾人地区の中で音が起って行った。木を叩く音、ブリキを叩く音に、歓声が混った。他の中隊の幹部が駈けて来るのに遭う。

「何だ、一体」と聞かれた。

「イマモロが事務所へ行ってますよ。戦争は終わったらしい」と答えると「え」といってそのまま摺り抜けていった。

中隊本部の前には不安な人々が群れていた。中隊長は大隊本部へ行っていた。探照燈は依然として北東の空に動き、汽笛の音が続いていた。

「大岡さん、どうしたんですか」

「さあね、どうも戦争が終わったらしいですよ。樋渡さんが戻ればわかるでしょう」

「日本負けたんやろうか・・」

「まあ、そんなところだね」と暗闇から声がする。

「誰だ、おかしなこという奴は。出て来い!」と第四小隊長の上村がいう。群は曖昧に揺れるが、犯人は出て来ない。こっちも踏み込んで引きずり出す勢いもない。

「ちぇっやけに騒ぎやがるな」

と上村は喧騒が次第に高くなって行く台湾地区を見やりながらいう。何を焚いているのであろうか、方々に火の手が上がって高い椰子の梢を照らし出している。中隊長が帰って来た。小隊長の前に立ってぶつけるようにいう。

「日本が手を挙げたんだね。ラジオでやってたんだそうだ」

どよめきが起った。上村は「え、ほんとか、けっ、イマモロによく聞いて来なくちゃ」といって駈け出して行った。

「ふっ、何度聞いたって同じことさ」と中隊長は、呟いた。本部前の人影は音もなく散った。間もなく四つの小隊小屋にどよめきが起り、中に号泣の声が響き渡った。音は次第に各中隊に拡がり、収容所全体が一つの声となって挙がって行くように思われた。

一人の若い俘虜が泣きながら飛び込んで来て、中隊長にかじりついた。「樋渡さん、ほんとですか。嘘だといって下さい。嘘だと。まだ負けたんじゃないでしょう。負けるはずないです。ねえ、樋渡さん」

「さあね。まだ詳しいことはわからねえ。とにかくそう泣いたってしょうがねえよ。」中隊長は私の方をちらと見た。

「哭き叫ぶ言葉も尽きてますらおは土に打ち伏し崩れつつ止む」と俘虜の中の歌人が歌った。誇張されているが、多くの泣く人影が小屋の内外で抱き合い、もつれたのは事実である。

 空に上がった探照燈の光はいつか数が減り、汽笛の音も止んでいたが、収容所の騒ぎはいつ果てるとも見えなかった。台湾人地区のブリキを叩く音は続き、何か歌の合唱になって行った。

 第三小隊長の広田が飛び込んで来た。彼は俘虜の中の過激派である。

「樋渡さん、どうにもならん。みんな台湾子んとこ斬り込むちゅうて、外に集まっとる。野郎うれしそうに騒ぎやがって」といって台湾人地区を睨んだ。

「集まったのか。お前さんが集めたんじゃないのか」と中隊長は怒鳴った。

「そんなことない。みんな柵を乗り越して殴り込むというとる。ありたけの蛮刀集めとる」

「蛮刀?」といって中隊長は立ち上がった。

蛮刀は凶器であるから、俘虜は保管を許されず、朝倉庫から受領して夕方返納することになっている。しかし永い間にいつとはなく、所謂「員数外」が出来て、各棟不時の用に二本ぐらいずつは隠しているのである。

「お前さんの棟はもう出したのか」

「いや、まだだ。まだある」

「そいつを持って来て貰おう」

と中隊長はいい放った。広田は何か口ごもった。中隊長は重ねて、「とにかくそれを持って来てくれ。連中は私が引き受けた。おい、小隊長集合」と小屋の後部にかたまっていた炊事飲の一人に命じておいて、台湾人地区襲撃隊の集まっているという中庭の方で出て行った。

 成程、中庭中央の暗闇に二十人ばかりの人影が動いているのが見える。中隊長の後姿が近づいて行く。私は随いて行かない。結果は明瞭だったからである。柵を越えるなんてそう簡単に出来ない上に、米兵に射たれる。台湾人が空騒ぎしたぐらいで、本気で命を賭けに行く者は、俘虜の中には一人もいないはずだ。 

 中隊長の演説している声が暫く聞えていたが、やがて笑いながら帰って来た。

「広田のおっちょこちょいには困ったもんだ。三小隊の奴等ばかりさ、やめるなら、最初からやるなんていわないもんだ」

四人の小隊長が集まった。彼等はみな眼を赤くしていた。

「木村は全く可愛い奴や、泣きながら飛びついて来やがって、ええところあるで、彼奴は」と人情家の第一小隊長の吉岡が興奮していった。木村というのは、さっき中隊長にも飛びついた若い俘虜である。彼は方々幹部に飛びついて歩いているらしい。