2017年4月20日木曜日

20170420 昨日の補稿、数においては南多北寡 形式においては南新北古

A「昨日の投稿記事はあまり多くの方々に読まれることはないであろうと考えておりましたが、その予想に反し、割合多くの方々に読まれておりました。

さて、昨日投稿記事の主な主張点とは、紀伊半島における出土銅鐸の傾向とは、一つ目に全体の数においては概ね南多北寡であること、次いで、その出土銅鐸形式においては南新北古であることです。

おそらく古式の銅鐸とは、近畿中央部(奈良平野)あるいは山陰西部(出雲)にそのオリジナルがあり、更にそのオリジナルの祖型とは九州北部にあったのではないかと思われます。

つまり銅鐸という弥生時代の青銅製祭器とは、その製作手法である鋳造の伝来経路(大陸・朝鮮半島➡北部九州➡山陰・山陽➡近畿)に沿って、その祖型、古式そして新式への変遷が為されたものと考えられます。

そして、そこから紀伊半島、和歌山とは、当時の倭国(西日本)の辺縁地域であったと云えます。

また、その点において面白いのは四国であり、四国は東部では銅鐸の出土が多数認められるものの、西部におけるその出土は認められておりません。

さて、四国南部を東西に包括する高知県とは、県東部に銅鐸の出土が集中し、それらは中型~大型の新式およびそれに近いものが多く、その出土傾向とは、対岸の中、南紀での出土傾向と類似しているとも云えます。

また高知県東部に隣接する徳島県においても吉野川流域を中心に多数の銅鐸が出土しており、その形式は、高知県東部と比較した場合、全体的に古段階のものが多いと云えます。

その意味において、さきに述べた和歌山県における銅鐸の出土傾向の特に形式に関してを紀伊水道を挟んで鏡のように類似した様相、像を示しているのが徳島県、高知県東部といった四国東部ではないかと考えられます。

また、さらに北に隣接する香川県については、おそらく四国内にて比較軸となる何かしらの要素が存在するとは考えられるものの、おそらく香川県に関しては、瀬戸内海を挟んだ兵庫県、岡山県あるいは淡路島との関連性が強いのではないかと考え、今後の更なる考察対象としていきたいところです・・。

本日は記事作成を予定はしておりませんでしたが、さきに述べた通り、昨日投稿記事を読んで頂いた方々が思いのほか多かったことから、補稿のようなカタチにて書きました。

とはいえ、今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」