2019年1月14日月曜日

20190113 井筒俊彦著 慶應義塾大学出版会刊『読むと書く・井筒俊彦エッセイ集』pp.419‐421

『何が起こりつつあるのだろう。何が、一体、日常茶飯的なヨミ・カキを、こんな重大な学的主題に変貌させてしまったのか。いろいろな原因が挙げられるであろうが、とにかく、一番決定的なのは、ソシュール以後の記号学の急速な発展に伴って、書かれるコトバ(書記言語)の位置づけが根本的に変わってきたことだと思う。

一昔まえ、私が大学で教えられ、また自分で教えたりもした近代言語学では、コトバは第一義的には話しコトバであって、書記言語はせいぜい第二義的な、派生的な位置しか与えられていなかった。話されるコトバが先ずあって、それを文字に転写したものが書記言語。文字に書かれたコトバは、人が生きたコミュニケーションの場面で話すコトバの、いわば人為的な再現であり、きわめて不完全な代替形態にすぎない。とすれば、当然、およそこと言語に関するかぎり、すべての理論は話されるコトバの考察に基づかなくてはならない。と、これがつい最近まで言語学の第一原則であり、専門家のあいだでどこでも通用する常識だった。だが、構造主義の勃興以来、事情は急速に変わった。書記言語の価値づけが一変したからである。書かれるコトバは話されるコトバの土台の上にはじめて存立する派生物ではなくて、もともと書くことと喋ることは、言語使用のまったく違う二つの次元である。ということになってきたのだ。両方とも、窮極的には、言語(ラング)という同じ一つの記号コードに依拠するがゆえに、表面的には同一次元でのことのように見えるが、それはほんの見せかけだけのことで、両者の内実は根本的に違う。話しコトバの場合は、原則として、話者と聴者という二人の人間が現実の具体的場面にて面々相対してコトバを交わす。これに反して書きコトバでは、話しコトバでの聴者に相当する相手すなわち読者は書き手の想像理にのみ存在するのであって、書き手がものを書く現実の場面には居合わさない。相手不在のいわば独り芝居のようなもの。現実に相手がいるのといないのとでは、ひとしくコトバの顕現様式ではあっても、その顕現のレベルが違う。同じ一つの平面上で、一方が先、他方が後、というわけでは決してない。

 それどころか、ポスト・構造主義的思潮の先駆的位置を占めるジャック・デリダのごとき思想家となると、話しコトバと書き言葉の常識的先後関係をひっくりかえして、「根源書記」(アルシ・エクリチュール・archi-ecriture)という新概念まで作り出し、話しコトバは書きコトバとはまったく別の、独立した言語次元と見なされなければならないという点では、大抵の論者が一致している。こんな状況の下では、「読む」と「書く」とがかつてない重大な学問性を露呈しはじめたとしても、何も不思議はないだろう。もともと、「読む」と「書く」とは書記言語の基礎形態、というより、それのすべてなのであって、書記言語にたいする見方が根本的に変わってくれば、「書く」こと、「読む」ことに対する見方も、当然、根本的に変る。常識的に理解されたヨミ・カキの概念は、こうなればもはやものの役に立たない。』

読むと書く・井筒俊彦エッセイ集
井筒俊彦
ISBN-10: 4766416635
ISBN-13: 978-4766416633