2021年8月30日月曜日

20210830 筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」 pp.36-37より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」
pp.36-37より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073957
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073952

「15年前のNATOにとっては、アフガニスタンが全てでした」

2020年秋、筆者の所属する研究グループとのウェブ会議で、あるNATO加盟国の大使はこんな風に切り出した。

「我々はアフガニスタンのことを考えながら目覚め、アフガニスタンのことを考えながら眠りました。私がNATO本部で携わった仕事の8割が、アフガニスタンに派遣された国際治安支援部隊(ISAF)に関するものでした」

2001年に発生した米国同時多発テロは、安全保障という概念を大きく揺さぶった。冷戦期までの安全保障が国家間の戦争を抑止し、あるいはこれを勝利することを念頭に置いていたのに対し、アフガニスタンを拠点とする国際テロ組織アル・カイダは、少数のテロリストで旅客機をハイジャックし、体当たり攻撃を仕掛けるという全く新しい手段に訴えた。この戦術は見事に超大国・米国の虚を衝き、世界貿易センタービルの崩壊と、「ペンタゴン」の通称で知られる国防総省庁舎の損壊という事態に至った。いわゆる米国同時多発テロ事件である。

 こうして「対テロ戦争」の時代がやってきた。ロシアは衰退し、中国の台頭はまだこれからという時代。米国でもNATOでも、古典的な国家間戦争はひとまず脇へ追いやられ、予想もつかない手段を駆使して攻撃を仕掛けてくる非国家主体の脅威にいかにして対処するかに血道を上げるようになった。実際、米国同時多発テロ事件後に発動されたアフガニスタン戦争やイラクでの治安作戦、シリアへの軍事介入でも、敵は国家ではなくイスラム過激派勢力であった。詳しくは第2章で述べるが、「ハイブリッド戦争」という概念が米軍の中で生まれてきたのは、このような状況においてであった。

 このテロ組織は国家のように明確な実体や組織を持たない。指導者を殺害しても、ゲリラ部隊を殲滅しても、米国や西欧を中心とした国際秩序への反発がムスリムの中に燻り続ける限り「対テロ戦争」は続く。現に米国がアフガニスタンから兵力を完全に撤退させることができたのは介入の開始から実に20年を経た2021年のことであった。「アフガニスタンがNATOにとっての全て」だったという大使の言葉は、決して誇張ではなかったと言える。