2016年9月14日水曜日

20160914 羽根、鋳バリ、銅鐸の鰭飾り・・

本日の首都圏もまた天候が不安定であり、小雨が降ったり止んだりといった状態でした・・。

また、よく読まれているブログ記事を見てみますと、よく読んで頂いているようであり、本当に感心し恐縮すらしてしまいます・・(苦笑)。

これら一連の記事を読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

さて、これまで投稿したブログ記事も400からいくらか過ぎ、このまま順調に記事の投稿が為されたならば500記事もそこまで遠い先ではないことのように思えてきました・・。

自分で記すのも、おかしなハナシではありますが、よくもまあ、ここまで書き続けることが出来たと思います・・。

とはいえ、こうしたことをさらに長い間されている方々も特に珍しいわけでもありませんので、あくまでもこれは主観的な思いではありますが・・。

また、本日に関しても、ここに至るまで記す題材も特に定めているワケではありません・・(苦笑)。

そういえば、本日町中にて鯛焼きの美味しそうな匂いに誘われて、少し気を付けて見てみますと、そこに「羽根付き鯛焼き」と記されており「何故鯛焼きに羽根がついているのだろう?」と思い、しばし観察してみますと、どうやらこの羽根とは、鯛焼き作成時の周りの生地によるバリのことを指すようであり、これは同様に「羽根付き」と称される餃子と同じパターンのネーミングであることが分かりました・・(笑)。

しかし「何故このバリともいえる羽根があることがブランドになるのだろうか?」と考えてみますと、残念ながら、その適当な答えは思い浮かびませんでした・・。

その一方、同じく液状の物質を型に流し込み所望の外形、外観を得る技術として鋳造が挙げられますが、鋳造においてはこうしたバリとは絶対に避けるべきものとして考えられています。

そして、その鋳造時に生じるバリの主要な原因として、
埋没材の急加熱、鋳型への衝撃、埋没材の膨張差、埋没材の亀裂などが挙げられます。

これらは総じて何らかの原因(主に埋没材の急加熱、衝撃)による鋳型内部(パターン空洞部との接続部)の亀裂によって生じるものであるといえます・・。

こうした鋳造時に生じる鋳バリとは、我が国古代(弥生時代)における銅鐸においても、見出すことが出来、また、この鋳バリを起源として装飾へと転化、進化させたものが、縁に鰭のような装飾が為された大型(後期)の近畿式銅鐸であると言われており、私はこの説が妥当であると考えております。

また、そのような製作者あるいは使用者の心のメカニズムが同様にさきに述べた鯛焼きあるいは餃子における羽根のブランド化?にも転用、応用することが出来るのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・(笑)?

また、それに関連して、さきに述べた近畿式銅鐸の鰭状の装飾部(円型、渦巻き文様)のみがペンダント状に再加工され後代(古墳時代)の静岡県沼津市の遺跡から発掘、出土していることは、なかなか興味深く、これは住民の移住(近畿から静岡へ)を示唆しているのかもしれません・・。

そしてまた同様にそれは、以前当ブログにて抜粋引用しました谷川健一著の文章を裏付ける一つの要素となり得るのもしれません・・。


さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

金属製品とは一般的に鍛造、圧延、切削などの方法により加工・製作されるが、その本質である優れた機械的強度により、かなり多くの労力が費やされると云える。

とりわけ複雑な形状の製品を製作する場合は困難であると云える。

そして、それを解決するための方法が鋳造であると云える。

鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、スズ、アルミニウムなどを単独あるいはそれらを合金化して用いる。

鋳造に用いる合金、金属としては青銅あるいは銅がもっとも古いとされている。

以前の記事においても述べたが古代メソポタミア(両河地方)においては紀元前3500年頃すでにその合金が存在し鋳造に用いられていた。
 
また古代エジプトにおいては紀元前2000年頃より為され、古代中国においては殷・周の時代すなわち紀元前1500年以降が青銅器時代とされている。

わが国においては弥生時代にそれらが大陸、朝鮮半島からもたらされ、またそれは鉄器伝来とほぼ同時代であったことから明確に青銅器時代として区分される時代はなかったと云える。

昨今は弥生時代の鋳造遺跡が多く発見され、その最古のものは現在のところ和歌山県御坊市の堅田遺跡(紀元前200年頃)であるとされているが、おそらくほぼ同時期の西日本、特に北部九州地域などにおいては、鋳造技術とは特に稀なものではなかったと考えられている。

弥生時代における我が国の青銅器とは当初、渡来元の朝鮮半島にて製作されたが、後代に至り製作技術が流入・定着し当時の我が国の(地域ごとの)嗜好、文化にあわせた独自の青銅器の製作が為されるようになった。

その際、我が国にて製作されたのは銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸、銅鏡などであり、それら青銅器およびその鋳型とは、これまで主に西日本各地にて出土している。

また、こうした祭器の製造とは軌を異にするものであるか未だ不明であるが、統一国家の成立に至ると鋳造技術とは、貨幣の製造(造幣)と密接な関係を持つようになる。
これはある程度普遍的な歴史発展の図式、様相ではないかと考える。

世界最古の鋳造貨幣とされるものは紀元前700年頃、リディア(現在の小アジア・トルコ共和国西側)にて製造されたエレクトロン貨幣であり、これは自然に産出された金銀合金を材料として用いている。

また中国では紀元前200年代の秦の始皇帝の時代に貨幣鋳造が国家事業として為された。

我が国においては7世紀末天武天皇の御代に製造された富本銭、707年の和銅年間に製造された銅貨の和同開珎が古いものとして有名であり、その後、天平宝字年間(700年代中頃・淳仁天皇の御代)に我が国初の鋳造金貨である開基勝宝が製造された。

鋳造を行う職人をわが国では一般的に鋳物師と呼び、古くは大宝律令において大蔵省の典鋳司(いもののつかさ)の下におかれた雑工部に十名程度の職工官が勤務していた。

後代の鎌倉時代においては各地の村々にてさまざまな農工具を鋳込んだり、寺社などの招きにより梵鐘、仏像を鋳造するフリーランスとも云える職人も存在していた(このあたりを欧州における石工と比較して考察してみるのも面白いのかもしれない・・)。

さて、具体的な鋳造技術の種類としては平板の鋳型に溶湯を鋳込む方法、上下の型を合わせ、その中に生じる空隙に溶湯を鋳込む方法、そして実物を砂で埋めその実物を抜き取った後に溶湯を流し込む方法といったものが挙げられるが、歯科鋳造とは精密さが要求されることから、その用いる材料の選択にはじまり鋳造に至るまで細心の注意が払われる。