2017年7月25日火曜日

20170725 角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版 pp.69-74より抜粋引用

角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版
pp.69-74より抜粋引用
ASIN: B000J9OAC6
『もう一つ、古い日本のことを述べる。
たとえば、日本の失ったものという場合だが、最初は深刻な例と、それからあとはごく卑近な例をあげよう。私は今度の戦争に行ったとき、第一線の擲弾筒兵という一兵卒だったが、マラリアにかかって、ビルマラングーンの病院へ後送された。百万坪もあるラングーン大学を接収して開設されたビルマの最根幹の大兵站病院である。そこへ連日前線からなだれを打ったように、インパール作戦その他での重傷病患者が送られてくる。無謀きわまる作戦強行で日本軍は崩壊状態に陥っていたのである。みんな幽鬼のような姿だ。
軍医さんも、看護婦さんも、衛生兵も、全然手がまわらない。そこで私たちのような軽患者ーといっても重症なのだがー使役にかり出された。私が当たったのは収容病棟の使役であった。前線からどんどんはいってくる傷病兵をいったんそこへ入れて、それから軍医さんが診断し、あるいは看護婦さんがより分けて傷病別並びに部隊別に本来の病室へ入れる。
そういう臨時の収容所である。そこの食事を運んだり、大小便の始末をしてやったり、包帯を取りかえてやったり、どんどん死んでいくものだから、死んでいく人のお墓ー穴を掘ったり、そういうことをするわけである。大学の大講堂が収容病棟に当てられていたが、そこには大理石とチーク材の床があった。天井にはシャンデリアがある。それはつかないで細々とした防空用の電灯がついている。屋根があり窓があり、床があり、三人ほど一緒に寝かせたが、とにかくベッドがある。そこへはいってきた兵隊はー私もそうだったがそんなところ、何年も見たことがないわけである。床がある、ベッドがある、屋根がある、壁がある、おまけに電灯までついているというようなところにはいった兵隊は、安心のあまり全部腰を抜かしてしまう。しかも、そこに日赤の看護婦さんがいたのだ。彼女らが、そのときは神さまみたいに見えた。婦長さんは四十五・六の人だったが、これはみごとな婦長さんだった。日常では、もう声が出なくなっている。私らに命令するときは、かすれはて判別できないような声しか出ないのだが、患者を迎え慰めるときは声が出るのである。はいってくる兵隊は、ちょうど私たちがいたときは、インパールで負けた関東の弓部隊など現役兵の兵団の兵たちが、顔じゅうぐしゃぐしゃになったといった重傷で入って来る。水虫患者というのが入院してきたので水虫で重症患者とは一体どんなのかと思ったら、直径一〇センチもある穴が二十幾つあいていて、そこへうじ虫がいっぱいたまっているという、そんなのがはいってくる。彼らは気もすさびはてているが、そういう患者の一人一人に「兵隊さん、ご苦労さんでした。もうここまで来たんだから、安心してゆっくり養生して早くよくなってちょうだいね。すぐよくなりますよ。皆元気を出して」ということを言って回られた。そんな天国で、現役兵の年齢からすればちょうど母のような女性からそういう声をかけられるものだから、みんな、涙をぼろぼろこぼす。兵隊は皆子供のように声をあげて泣いた。安堵のあまりその翌日死んでしまう兵士も多い。お母さんのもとへ帰ってやれやれ安心というようなその童心に帰った死顔の目を閉じてやりながら私は無性に悲しかった。その婦長さんは、私らが退院してしばらくたって原隊へもどって来た「追及者」から聞いた話によると、そうやって声をかけているうちにふっと声がとぎれて、へなへなとすわられたと思ったら、それでもう最後だったそうだ。まさに立往生である。平均二時間ぐらいしか寝られないで、一五〇日ぐらい頑張ったとか。そんなことをしておられたから、精も根も尽き果てたのだろうと思う。この婦長さんに接したとき、どんなに荒れすさんだ重症の兵隊も、涙を流した。担架に天幕やドンゴロスをかけたりして運んでいる重症患者でも、もぞもぞとその天幕の下が動く。全員、手がしぜんに前に行き、合わさっているのである。「婦長さんに後光がさして見えた」とあとで皆そう言った。日本の昔の女性というのは、家庭だったら、ともかく全身全霊をあげて、よいにしろ悪いにしろ、封建的道徳であるにしろ、夫のため、子のために生きたのである。母というものはそういうものかもしれぬ。フランスでも昔ではそうだったのであろう。フランスのある若死にした詩人が「お母さん」という題で「私のお母さん、私の幼いときに死んでしまったけれども、そのお母さんのまぼろしが私の前に浮かぶ。
それは全部白いかっぽう着をつけて木履をはいて、働いている姿だ。料理を作っている、ミシンを踏んでいる、掃除をしている、そういうお母さんだけれども、それは皆私たちにおいしい食事を、私たちに暖かい着物を、私たちに清潔な部屋をと働いている。自分のもの縫っていたことない。
寝てるお母さん見たことない。
まぼろしのその白いエプロンのお母さん。
その姿は円光につつまれている」と、こういう詩を書いていたのを私は記憶にある。
かつてそういうものだったのだろう。
兵隊たちが見たのもそういうものだった。
私も入院時この婦長さんの姿にはっきり認めた。
何か光につつまれている感じで、四十二度という熱にうなされながら手を合わせ涙がとどまらなかったのである。
私たちの中隊はあとから補充を合わせ三百数十人いた。
その中で生還できたのはニ十数人でしかなかった、ほとんどが栄養失調による病飢死である。
死期が近づくと皆手を合わせて、何かつぶやいている。
「またなんだかぶつぶつ言ってるぜ、もう駄目なんだ」。
私たちはそう言い合ったものだ。多くの兵士は農家出身だ。
満州事変以来何度も応召してきている。
昔の農家だとか小さな商店など、男手がなくなったらどんなみじめなものか、いやというほど思い知らされた。
勝っているときでもそうなのだ。しかも今度は負けらしい。
おれはもう死にそうだ。あとに残った子供はどうしていくだろうかという想いにとらわれたとき、兵隊は家族と一緒に写した写真を出して、「お母さん、頼みます」「女房、頼む、子供だけは頼む」と願うのだ。
はじめ、何をしているんだろうと何気なしに問い合わせた私に「貴様のような坊ちゃん学生兵隊におれたちの気持ちがわかるか」と激しい語調で友人が教えてくれたことである。
そのとき皆の両手は思わず前に合わされている。頼むと拝んでいるのだ。私たち兵隊は不信心な、いわゆる「悪いやつ」ばかりだったかも知れぬ。夫として平生の生活には母や妻にむくいることきわめて少なかったに違いない。
そういう夫たちの心の奥にやはり拝む心があった。
母の姿、妻の姿に後光がさして見えたのである。それは献身への全くしぜんな感応というべきものでなくてなんであろう。今の日本の妻も、日本の母親も、完全に後光を失っている。現在の夫の、子供の誰が妻に対して、母親に対して手を合わせるのだろうか。母は子供にとってもよき遊び相手だろう。姉さんにはなれるかもしれない。妻は夫の遊び相手、ときには相談相手になれるだろう。しかし、絶対に夫の手がしぜんに合わさるような存在ではない。今の日本はアメリカナイズされたのでろうが、今の三十代のお母さんが手にとって、子供から「お母さん」と言って、しぜんに手を合わせられるということはないだろう。封建制度の否定のもとに、日本の女性は、男の心の中、夫の心の中、子供の心の中にある後光を、もう永遠に失ったこれがあるかぎり人間は、最後の破滅の前にそこへすがりつけるのである。
ゲーテのいう「永遠の女性的なるもの」もそれである。しかし、アメリカにはそれがない。「ええい、LSDを飲もうか」ということになったり、妻の殺し方というのがあって、女房に毎日ガラスの粉をちょっとずつやったら、十五年たったら死ぬというような、そんな本が出るわけである。
私たち兵隊は、冗談まじりにではあるが、万一帰還できたら、もうどんなことがあっても女房には炊事、洗たく、掃除、一切させない。
床の間に上げて、毎日拝んで暮らす、おふくろともなればもちろんのことさ、などというようなことを言っていた。
もちろん実際上そんなことは続かなかったけれど、しかし冗談にしろ床の間に上げて拝んで暮らすのだとは、当時の女性にはその円光があったために出た言葉であろう。
いまやそれを失った戦後の女性は権利としてのいろいろなものを得たが、放棄したこの後光を考えるとき、ほんとうにそれが幸福といえようか。』