2023年12月15日金曜日

20231215 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 pp.87-89より抜粋

株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」
pp.87-89より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065157110
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065157114

トクヴィルの「個人主義」概念は、同時代文脈においてみても、ある独自性を持っている。十九世紀フランスにおける「個人主義」への問題意識が、抽象的・理論的に個人の独立や解放を説くものではなく、むしろそのことを前提に、そのような個人からなる社会をいかに再組織化し、個人をそこに「埋め込む」ということにあったとすれば、トクヴィルにとっての問題は、それと少しずれていた、というのも、トクヴィルによれば、平等化のダイナミズムは、けっして人々を無秩序へと導くとは限らないからである。

トクヴィルはむしろ、平等化のダイナミズムはむしろ、平等化は人々をいったんバラバラにした上で、むしろかつてないほど強固な秩序を生み出すと考えた。それも、革命を経験したフランスでは、それ以外の場所以上に、その傾向が強いとさえしている。これはどういうことなのだろうか。

 このことを考えるにあたっては、トクヴィルのいう「個人主義」のもつ二面性に着目する必要があるのだろう。トクヴィルの考える個人は、自分の内なる世界においては至上の存在である。この個人は自分が他のいかなる個人とも同等の権利を持つと考え、他の誰にも自分に優る権威を認めず、そのことに強い誇りを持っている。ところが、この個人は、いったん自分を外から見つめるやいなや、まったくの無力に陥る。というのも、他の個人と同等であるということは、逆にいえば、他の人間と同等の存在でしかないということも意味するからである。個人は他の誰にも自分を優越する権利を認めないが、このことは同時に、自分が他の人間に優越すると主張するなんらの権利も持っていないことをも意味する。自分はその他大勢に過ぎない、か弱い存在である。このアンバランスこそが、平等社会における個人の自意識の最大の特徴となるのである。

 そこで問題になるのが、すでに指摘した、権威の問題である。「デモクラシー」社会に生きる個人は、自分の周りの誰にも特別の知的権威を認めない。この個人はすべてを自分で判断したいと思う。しかしながら、トクヴィルに言わせれば、すべてを自分で一から考え直すことなど、人間には不可能である。人はすべてを疑うわけにはいかない。人は自覚的・無自覚的に、つねに一定の事柄を前提に、その権威に頼ってものを考えているからである。自らの哲学の出発点に懐疑を据えたデカルト自身は、このことを十分に承知していた。だからこそ彼は、すべてを懐疑するためにも、実社会生活においてはあえて一定の常識的事柄を懐疑の対象から除外したのである。それらの常識的事柄を確保することで、はじめてそれ以外のことについて会議することも可能になるというのが、彼の確信であった。

 しかしながら、トクヴィルのいう平等社会の個人は、それほど自覚的ではない。彼らは無意識のうちに、何らかのものを権威として仰ぐようになる。それが、すでに触れた、自分の「同等者の総体」であった。一人ひとりの人間は特別な権威を持ちえない。しかしながら、自分と同等の個人が「巨大な全体」としてイメージされたとき、人はその権威に抗うことはできない。トクヴィルは、この「多数者の意見」こそが、平等化社会における最大の知的権威であるとした。「平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用するということが決してない。だが、みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にほとんど無限の信用をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである」。トクヴィルは、このような多数者の圧倒的な知的影響力、およびそのことによる少数者への圧迫を指して「多数の暴政」と呼び、「デモクラシー」の社会における最大の問題の一つであると見なしたのである。