2022年3月30日水曜日

20220329 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.18-21より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.18-21より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

西アジア地域に対抗して絶えず反撥的に発展して来たヨーロッパ地域はもともと西アジア地域より分裂して発生したものである。この分離独立を完成した中心力は古代ギリシャの都市国家群であった。ヨーロッパの古代史的発展もまた、最初の国家形態として都市国家なるものを有し、しかしてこの都市国家は、その傍らに西アジア地域の先進文明を控えたる為めに、絶えずその刺激を蒙ること強く、都市国家的性格を比類なき高度にまで発揚するを得た。これギリシャ古典文明が他地域の古代に比して卓越せる所以であったのである。しかしてギリシャにおける都市国家的性格の強さは、一方においてその政治的大同団結を妨げる原因ともなった。ギリシャ都市国家群の指導者たるアテネもスパルタも遂にギリシャ民族の統一を完成してこれを大帝国に鎔鋳することが出来ず、ギリシャはその世界史的任務において、単にヨーロッパ地域を西アジア地域より分離せしめたるのみにして止まり、ヨーロッパの古代史的発展の完成は、更に西方に起りたるローマ民族の出現を待たねばならなかったのである。

 かつてギリシャの盛時、アテネの海上勢力を背景としてその指導の下に所謂デロス同盟が成立し、宛然たる海上帝国の観を呈したが、その範囲は東地中海に限られ、かつ継続すること幾くもなくして、同じギリシャ国家スパルタの反撃に遭い、脆くも雲消霧散してしまった。然るにこのギリシャ文明の余波を受けて更に西方、地中海中央に突出せるイタリア半島に勃興したのがローマ帝国である。ローマは初めフェニキア植民地カルタゴと地中海を隔てて相争い、先ず西地中海岸を平定して後、東地中海に向い、ギリシャ諸国及びエジプトを征服し、更にシリアを併合して、ここに東西地中海の大統一を完成した。ヨーロッパ地域の古代史的発展はギリシャに始まり、ローマによって達成せられた。しかしてローマはこの大統一を完成せる暁、もはや古の都市国家でもなく、人民共和国でもなく、宛として西アジアの古代ペルシャ王朝に擬する大帝国に変形していた。実年代をもってはかるならばローマ帝国の完成者ケーザルの時代は、ペルシャのダリウス大王に後れること約500年である。

 ヨーロッパ地域が大統一に向って驀進する時は、あたかも西アジア地域が既に古代史的発展を終って中世に入り、分裂的傾向の顕著に現われいたる時代である。この相異なる二つの減少の間には、何かしら必然的な相互依存関係が存在することを推察せしめる。恐らくそれは、両地域の中間に位するシリア地方の向背が鍵となっているであろうと思われる。即ちヨーロッパ地域は西アジア地域に向ってその領域を拡大し、従来は西アジア地域であった小アジア、シリア地方からエジプトまで含めて、その傘下に収め、西方に大ローマ帝国が出現すると同時に、旧西アジア地域は著しくその領域を縮小されたのである。領域の拡大はいよいよその内部における交通貿易を旺盛ならしめる反面、領域の縮小された地域では景気の下降、生産の不振が起り、それが商業の衰微とあんり、地方の分裂を招き、いよいよ景気の下降を招来するという悪循環に陥るのである。

 ヨーロッパと西アジアとは、この時にはシリアを支点としたシーソーの形となり、ヨーロッパが上がれば上がるだけ、西アジアが下降するという関係におかれていた。さりながら、両者を比較した時、文化の伝統の深さは勿論、同日にして語ることは出来ない。シリア、小アジアはもちろん、これに隣接するギリシャ、エジプトもまた古い文明の栄えて社会の発展の進みたる地域である。さればローマ帝国の内部においては、文明の潮流は東地中海より西地中海に向って動いた。しかして更に大いなる文明の動きは、西アジアの政治様式のヨーロッパ地域への輸入であった。原来はローマ共和国の市民代表者に過ぎざる歴代のケーザルは、西アジア地域と接触する間に、次第にその外貌を改め、王衣を着け玉座に上り、その実質もまた純然たる東方流の専制帝王と化した。東方の経済もまた、ローマ的古代市民社会を変質させて行った。ローマが政治力と軍事力とによって搾取した地方の金銀貨は、いったんローマに運ばれたが、それはやがて東方の物資を購入するために流出を続けた。東方における組織された大農地経営の生産物に圧倒されて、イタリアの小農、自作農は次第に没落して行ったのである。所詮、人為的な好景気は永続きしない。ヨーロッパは先進地域たる西アジアがかつて辿った運命に追従しはじめ、ローマ帝国は大ケーザルの出現以後約300年にして東西分治のことあり、漸く遠心的分裂的傾向を示し、この傾向は更に100年を経て、北方よりするゲルマン民族の侵入によって決定的なものとなった。東ローマ帝国が僅かにバルカン半島東西近傍を保って、ローマ文明の命脈を維持するを除き、帝国の領土は挙げて侵入者の占領割拠する所となり、四分五裂して、ここにヨーロッパ地域古代史の終焉を見るのである。時に西紀375年、西アジアにおける古代史の終末に遅れること約700年である。