2015年6月27日土曜日

銅鐸について 1  日本における銅鐸の起源などについて

我が国における銅鐸の直接的起源とされるものは、朝鮮式銅鐸といわれる装飾性のない約一〇~二〇センチ程度の小型のものである。

これらは現在(2005)までに朝鮮半島中西部の忠清道より四個、朝鮮半島北西部の平壌より六個、そして朝鮮半島南東部の慶尚道より四個出土している。
また朝鮮半島対岸の北部九州地域にて幾つか出土した銅鐸、その鋳型は朝鮮式銅鐸と同様、何れも約二〇~五〇センチ程度と比較的小型であり装飾性が低い特徴を持つ。これら銅鐸はその本来の機能である鳴らして聞くことに重点を置いたものと考えられることから一般的に「聞く銅鐸」と分類される。

北部九州地域における銅鐸祭祀は紀元後一世紀末頃までに終焉を迎え、その後、銅鐸に代わり銅矛などを祭器に用いる祭祀形態に移行したものと考えられている。

以上のことから銅鐸が朝鮮半島から最も早く伝来した北部九州地域においてはその後伝播した近畿圏等における様な独特の発達(大型、装飾化)を遂げる以前に他の祭器を用いる祭祀形態に移行したといえる。これは現在の地域性を考える上において興味深いことである。

その一方、一世紀末頃から近畿圏を主として大型化、装飾化という独特の発達を遂げた新式の銅鐸は、その本来の機能から離れ見ることに重点を置いたものと考えられることから「見る銅鐸」と分類される。

それはさらにその意匠(デザイン)、作製地により、近畿式、三遠式と分類される。近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作製され、三遠式は濃尾平野にて作製されたと考えられている。

これらの出土分布は近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、山陰地域において見られる。
三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において見られる。

静岡県沼津市にて近畿式銅鐸の鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘されたが、これは大変面白い事例であり、その来歴は興味深い。

その後、近畿式、三遠式双方の銅鐸は三世紀に入ると突如作製されなくなり、それに伴う祭祀も終焉を迎える。
終焉に際し銅鐸は意図的に丘陵地頂上付近に埋納されることが多い。

これは紀伊半島西部地域の出土銅鐸においても同様の傾向を示し、特に現在確認し得る日高川以南より出土した銅鐸は概ね前述立地より出土している。

そして銅鐸祭祀の終焉のしばらく後の三世紀中葉、古墳時代開始の指標とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)が造営される。このことは大変示唆的である。