2015年11月27日金曜日

20151127

A「最近テレビを観てもどうも面白くないのだけれど、私も年なのかねえ?」

B「はあ、私はそれ以前にテレビをここ最近あまり観た記憶がありません。それでも特に観たいとも思いませんので、Aさんもいっそのこと何か他のことをされては如何でしょうか?」

A「いや、それは分かっているよ。しかし食事を摂っている時などはやはり観てしまうよ・・。そして、その時に観る番組がどうも面白くないのだよ。」

B「はあ、そういうことですか・・。
たしかに最近のテレビ番組を不図どこかで観ていますと、何かを煽ろうとしているのではないかと思わせますね。また出演している芸能人の方々も昔の様に楽しんでやっているのでなくて、何だかやらされている感が強い様に見えてしまいます・・。まあ、これは当人になってみないとよくわかりませんが。」

A「うーん、たしかに何かその番組の目的に向けて無理やりやらされている感じはしますね・・。
テレビ業界もPC、スマホなどの世界に押されて苦戦しているのかもしれませんね・・。まあ、しかしそう考えるとPC、スマホなどが普及する以前の世界は素朴で幸せであったのかもしれない・・。」

B「なるほど、そういわれますと、それら一連のPC、スマホなどは我々人類にとって禁断の果実であったのかもしれませんね()。」

A「・・・ううむ、これはちょっと上手いこといいましたね()
まあ、たしかにあの会社もそういったことを企図して社名をつけたのかもしれませんね。私は創業者がその果物が大好物であったからと聞いていましたが、実のところその様な寓意もあったのかもしれない・・。」

B「まあ、いずれにしましても、それらの機器の使用によってリアルタイムな、ある程度の情報収集が可能になったのですが、その代わりに我々はどの様な機能を退化あるいは失ってしまったのでしょうかね?
様々な分野の研究の際の文献調査などはもしかしたら図書館へ行くよりも、インターネット上の文献検索サイトでことが足りてしまうのかもしれないのが現状であるかもしれません。」

A「うん、多くの学問研究分野においてその様な状態になりつつあるのでしょう。
特にある実体を用いる、実験、分析を主とする様な理系分野においては内容が普遍的でなければならないから特にそうなのかもしれないし、その方が良いのかもしれない・・。
しかし一方、古典、古文書などを扱うある種の文系学問分野においてはなかなかそう簡単に合理化されないでしょうね()
ちなみに私は年のせいか、今となってはそういった原始的な学問、研究の方にどちらかというと親近感をおぼえてしまうな()。」

B「ええ、偶然か必然かわかりませんが、そういった学問、研究の最も根源的な部分は、科学技術の進化発展による影響も今のところ少ないようですね。
そしてこの構図は前にもブログで出ましたウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」にどこか類似していますね。
また、その構図を現代の状況に当てはめて考えてみますと、古典などのなかに現代の問題を解決するヒントが隠されているのかもしれませんね。
まあ、これは少しいいすぎかもしれませんが()。」

A「いやいや、それはあるかもしれないね。古典などの現代ではなかなか理解しにくいものを軽んずるのはよくないと思います。
しかし一方、逆にそういったものが重要であるからといってこれを盲信してしまうのもまたどうかなと思うよ。
そういうのは戦前、戦中に流行した日本浪漫派のような、何というか意味が未消化の古代っぽい言語を駆使するが、その具体的内容はよくわからないような文体が出てきて、結局そういったものにバカされるようなことになるのではないかな・・。
ああいう変に叙情性を煽るようなものはどうも私は好きになれないな。ああいうのが流行りだすと、社会はおかしな方向に行くような気がしてならない・・。」

B「ええ、そうですね。Aさんの仰る日本浪漫派に関しての御指摘は現代の我が国社会に似た様な傾向があるのかもしれませんね・・。
そしてその主要な原因というものを考えてみますと、まあ思いつきですが、それはインターネットの普及により、様々なレベル、相の言語が飛び交い、混交するような言語空間が形成されたからではないかと思います・・。
そしてそういった状況が今後どのような形で安定してゆくのか分かりませんが、私としては、英語学習の早期化などよりも、母国語の明晰化にもう少し力を注いだ方が良いのではないかと思います。
インターネットの普及が招来する混乱した言語状況の中で国語を学ぶ小中学生などは、もしかしたら私の時代などよりも過酷な状況にいるのかもしれません・・。
しかし、そう考えますと、さきほどの日本浪漫派にもまた皮肉にもそういった日本文化の興隆、明晰化の意図、目的があったと思われます。
そして、それはほぼ同時期に生じた国体明徴運動から派生したものであるのかもしれません。
そしてそれを現代の日本に置き換えますと、おもてなし、クールジャパンとか、よくわからない叙情性、ノリの重視、絶対化などがそれに類似するのではないかと思います。
そうした一連の流れの類似が歴史においてパターン化され得るものであるのならば、この先に戦争があるのかもしれませんね。まあ、それはないと思いますけれども・・()。」

A「歴史の流れのパターン化ですか・・。たしかにそういった見方も出来ますね。
それで私も不図思いついたのだけれど、君は「とりかへばや物語」を知っていますか?
これは平安時代末期つまり源平合戦の頃に書かれたものなのだけれど、この物語のあらすじは男が女として、女が男として育てられ出世していくというものなのだけれど、この時代、つまり京都の宮廷文化を中心とする社会に外敵、つまりここでは東夷、坂東武者の侵入が懸念される様な時代状況になると、女性は男性化、男性は女性化したがる様な傾向があるのかもしれません・・。
まあ、これもあくまでも思いつきだけれど、最近の社会状況だとかニュースなどを見聞きしていると不図そんなことを考えてしまった。」

B「・・なるほどです。私はこれまで「とりかへばや物語」を知りませんでしたが、平安末期は時代の転換期であり、そういった時期になんといいますか性転換の願望が顕在化しやすいというのは、大変興味深い御意見です。
そして、そこから私が思い出すのは幕末期の「ええじゃないか」です。
これは東海地方から発生したものなのですが、その中で女性が男装をして、男性が女装をしていたことも描かれていますから、そういった時代の転換期においては潜在的な欲望を隠しておく何かが弱くなり、そのような現象が多く見られるようになるのかもしれません。
また、そういいますと、先日のハロウィンの渋谷での仮装行列ももしかすると、それと類似したものであるとも見ることができます・・。」

A「ううむ、そう見ることもできますねえ・・。
しかし歴史などに関する研究は、概ね帰納法的に一つ一つの要素を積み重ねてゆき、そして最終的には理系分野の研究における普遍的、再現可能な確証までは至ることが大変困難、いや多分無理なのだけれど、ただ、その確証の根拠に近いものを興味を持ち、それを聞いてくれた、読んでくれた人々に提示するというのが限界であるから、たとえ仮に実際それらの間に何かしらの関係があったとしても、なかなかそれを証明することは難しいと思います。
しかしそれでも今のはなかなか面白かったですよ(笑)。」

B「はあ、そうですか。どうもありがとうございます。では、この話も個人特定の要素を削除してまたブログに投稿しようと思います()。」

2015年11月24日火曜日

20151124 求職活動について

A7月から書き始めたブログのネタ帳ノートがもうすぐ終わりそうになりました。
これは無印のリングノートなのですが、じきに新しいノートを買わなくてはいけません。
しかし思った以上に早くノートが最後まで来た感じがしますね。

B「はあ、そうですか。
Aさんのブログももうすぐ半年近くになりますし、最近は自身の対話形式の文章が増えてきましたからね。
いいことだと思いますよ。
それで求職活動の方は順調に進んでいますか?」

A「いえ、生憎そちらの方は順調に進んでいません(苦笑)
しかし同時に登録している求職サイトにて企業からプライベート・オファーを時折いただくようになりました。
これは現在続けているブログによる影響なのでしょうかね・・?」

B「うーん、それはどうでしょうか?
私は割合多く君のブログを読んでいると思うけれども毎回決して面白いというわけではないと思うけれどねえ・・。
それでもなかなか面白い投稿もありますよ。
ただ、これはあくまでも私の意見ですからね。
私の意見はどちらかというと変っている方だと思うから・・
あまり信用してもらっては困るよ(笑)。
とにかく企業の方が君のブログを読んでいるのではないかというのは、ちょっと自意識過剰のような気がしますけれどねえ()。」

A「ええ、Bさんは多分そう仰ると思いました()
それでもブログを始めてから、オファーが増えたような気がしますので、この間に何かしら関係があるのかな?と思った次第です・・。
しかし、こうしていただいたオファーはどう考えても自分の能力、性質にあったものではないかと思いましたので、これまでのところ全て辞退させていただいております。
せっかくいただいたオファーなのですが、やはりこれは自分の人生ですから・・。
やはり私は大学などの職に就きたいと考えております。
以前Bさんとは別の知人の大学教員、研究者から「君はこれまでの経験を活かして大学の研究支援の職に就いたらかなりいい線いくと思うよ。」といわれたことがあります。
その方は言葉を語義通りに使うキツめな方ですので、お世辞やリップサービスではないと思います。
また、現在の大学の研究支援職の多くは任期付なのですが、今度はとりあえず任期中あまり脇目を振らずに職務に専念してみようと思います。
そして、そうすると先に繋がる何かが見つかるのではないかと思います・・。」

B「なるほど、そういうのは任期付が多いのですか・・。
それでもとりあえず就いた職務に専念しようというのは良い心がけですね・・。
そういえば先日、また伊豆に行ってきましたけれど、こっちを出るときから曇りで天気予報も「伊豆半島は後で雨になる」といっていたから「どうしようかな?」と思いましたけれど、まあ主目的が温泉だから別に構わないと思って行ったのだけれどね、向こうに着いてみたら案の定大雨でね・・。
それで仕方ないから温泉に浸かってから酒を飲みながら本を読んでいたら、これが案外面白くてね、久しぶりに充実した読書ができたよ()。」

A「はあ、それはいいですね。
それでその時どの様な本を読んでいたのですか?」

B「うん、ああいう時は自分の専門分野の書籍なんかは読みたくないからね・・読んでいたのは君も知っていると思うけれども勝海舟の「氷川清話」だとか北杜夫とか安部公房とか司馬遼太郎だったねえ・・()
それで「氷川清話」に勝海舟から見た人物評伝みたいな章があってね、それが今読んでみるとなかなか新鮮で面白かったよ・・。
現代ではこういった感じの人物評伝はなかなかないねえ・・時代がデジタルになってしまったのかねえ・・?
何だか情報が集め易くなったせいで、現代ではこういった人物評伝みたいなのはかえって面白味がなくなってしまったのではないかな?」

A「ああ「氷川清話」の人物評伝は西郷隆盛坂本龍馬の話が有名ですよね。
それにしてもたしかに最近は面白い人物評伝みたいなものが少ないように思います。新聞に連載されている「私の履歴書」などもまた少し違いますしね・・()
私の思いつきですけれど、その理由とは身体性の要素が当時にくらべ希薄になってきたからではないでしょうか?」

B「うん、身体性の要素はたしかにあると思うね。昔の人は間違いなく現代の殆どの人より身体を使っていたと思うからね。まあ、そこらへんのことは多分養老孟司あたりが書いていると思うけれども・・。
しかしその人物評伝的に考えると君は私を相手に話している時は緊張しているのかね()?」

A「・・いえ、Aさんとお話している時は緊張していないですね()
しかし、私からしますとAさんの大学教員、研究者という属性を意識する以前から存じておりますので、またAさんもそういった面をあまり前面に出さずに御相手してくださっていると思いますので、まあそうなってしまったのではないでしょうか・・()?」

B「うーん、たしかにそうだね・・(苦笑)
それで君は実際に話していて緊張するような相手に会ったことはありましたか?」

A「ええ、それはもちろん多くあります。昔でしたら小中学校の先生がそうでしたし、もう少し齢を重ねますと部活の先輩などがそうでした・・。
まあ若い頃は大体皆さんそのような感じではないでしょうか?
また同時に今でもそういった面は多少あると思いますね()
しかし会社に入りますと少し勝手が違いまして、当初は多少苦労したように思います。いや、正確にいいますと会社では緊張の質がどうも違っていたかもしれません・・。」

B「うん、たしかに社会ではあまり敬意を持ち得ない相手に対しても気を使わなくてはいけない場面が多くあるからね・・あれはストレスになるね・・。
そしてそれは緊張とはまたちょっと違うものであると思うけれども、そういったことではないかな?」

A「・・・ええ、まあその様な感じです・・。
それでも時折「これはすごい!」と思わせる様な人もいます。
そういうのを感知するのはまた、表面上の言語のやりとりをも含めた何かしらオーラですとか雰囲気みたいなもので判断しているようです。
そしてそれが先程少しいいました身体性によるものなのではないかと思います。
ですから勝海舟の人物評価の基準、核となるものは若い頃の剣術の修練の賜物であったのではないでしょうかね?」

B「うん、そうだね。それはまったく君と同意見だね。
また、それが現代社会に希薄にあるいは欠落していった要素なのではないかと思うよ。
つての人間が持ち得たそういう対人センサーとは現在のそれに比べ発達し精確、精密なものであったのではないかと思うよ・・。
しかし同時にそれは一種の文化といってもいいものであって、一度失われると後の時代に再度復興可能なものなのだろうかと最近思うのだよ・・。
時間の経過、時代の変化に伴う価値観の変化とは本当に過去からの継続に基づく変化なのであろうか?
あるいは実は断絶の後の別種の構築であるのかもしれない・・。」

A「ええ、それは大変興味深い御意見です。
時代文化の所産としての様々な文物の変遷、変化を見ていますと、それは決して一辺倒ではないような気がします。
また、そのような見方で歴史を観察してみますと、それはそれでまた大変面白いかもしれませんね。
そしてそういった見方もまた文化の一つであると思います(笑)。」

また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。


2015年11月23日月曜日

紀伊半島西部地域における雨乞い祭祀具体例を引用した雨乞い祭祀類型①~⑫に分類・列挙20151123

文献資料、採話等により得た紀伊半島西部地域における雨乞い祭祀具体例を前に引用した雨乞い祭祀類型①~⑫に分類し列挙する。

       村民が山または神社に籠って祈願する。

当地域内において①に分類される雨乞い祭祀は見出す事ができなかった。

       作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る。

1、和歌山県有田郡宮原村(現有田市)では雨乞いに若い衆が氏神の神輿を担ぎ出し、雨の降るまで有田川に漬けておいた。

       特別の面(雨乞い面)を出して祈る。

1、那賀郡貴志川町ではある年、大国主淵の竜が竜宮の入り口を塞いだ為雨が降らず、同地の橋口氏の先祖が水中に入り竜に切りつけた、為に竜は昇天し雨降る。この時淵中より三個の面を得た。その一つが今も橋口家にある。雨乞いにはこの家の主人が面を被り能を舞うと忽ち雨が降るという。

2、伊都郡九度山町河根の丹生神社に翁面あり、雨降り面とも呼び、竜神よりの献納と伝う。雨乞いに霊験のある面である。

       大勢で千回・一万回の水垢離をとる。

1、紀伊那賀郡神田村(現紀の川市)の秘文の滝は雨乞いの場所として神聖視され魚を取るのを禁ぜられていた。

2、有田郡糸川村糸川滝(現有田郡有田川町)では雨乞いに潔斎七日の者を滝壺に入れ雨を祈るに、淵中に白魚を見れば雨を得、黒魚を見れば雨降らずという。

       水神の棲むという池などをさらって水替えをする。

1、奈良県吉野郡西吉野村では、永谷の不動滝を乾かして雨を祈った。


2、同県同郡大淀町東垣内の大日堂の井戸を雨乞いにさらう。 

       水神の池や淵の水をかき回す。

  1、奈良県吉野郡野迫川村の池津川から中津川に行く川筋     に雨乞い淵がある。この水を釣竿とかヤスデでいらうと必ず雨が降るという。いらうというのは掻き回すのと同じ行為をさすものであろう。

       水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込  む、あるいは汚物を洗う。

1、田辺藩全体の取っておきの手段として、富田庄川(現西牟婁郡白浜町)の滝壺へ牛の頭を入れることをした。こうした江戸時代の雨乞いのやり方は、その多くが明治以後も引き継がれ、牛屋谷の滝へ牛の首を供する事なども、大正二年にも行われている。もっともこれは、牛屋谷に限ったことではなかったようで、古くは中芳養(現田辺市)でも行われた伝承がある。

2、日高郡の山間では雨乞いに滝壺に汚物を投ずる風があった。たとえば龍神村(現田辺市)の小又川で西ノ川の七つ釜に牛糞と酒を投ぜ込むごときがその一例である。また同郡の寒川村(現美山村)に於いては滝参りといって、万歳滝・寒川滝・串本大滝等での牛の糞等の汚物を流し雨を乞うたとある。同郡上山路村宮代の立花川の弓木滝には不動明王が祀られているが、ここに糞等の汚物を投ずると、山動き、谷ふるい、恐ろしい大雨となる。これは主の大蛇のなせる業であるという。同村の丹生川や真妻村の川又等にも同様の汚物を投ずれば大荒れになるという滝があった。

3、和歌山県日高郡日高川町、旧早蘇村蛇屋(現川辺町)では、沖野川上流(日高川支流)の主の棲む雄淵に肥柄杓を投ずれば、たちまち大雨が降ると伝えるが、いかなる大旱の節にも、かかる行為は絶対に禁ぜられている。

       地蔵を水に漬ける。

1、伊都郡横座村(現橋本市)の善宝山地蔵を盥に載せて雨乞いする。

2、奈良県吉野郡下市町では地蔵を寺坂の上から引き摺り下して雨乞いをした。

3、和歌山県有田市では各地に八大竜王の碑というものがある。これを一旦水に漬けてから引き上げ、それを囲んで踊る。

4、和歌山県芳養村(現田辺市)ドウ本の石地蔵を雨乞いに首まで浸すということを南方熊楠が早く報告している。

5、有田郡湯浅町では別所の薬師堂の地蔵の木像を掛け声勇ましく引き出し、広川に投じ声高く雨を乞い、地蔵を拾い上げて元の堂に返す。大正三年まであり。

6、和歌山県橋本市賢堂・横座・向副の三区で善坊地蔵を紀ノ川に漬ける。

7、和歌山県日高郡みなべ町本庄では雨乞い地蔵を川に漬ける。

8、田辺市、上富田町付近各地で雨乞い地蔵と呼ばれる地蔵がある。雨乞いの際迎え来て、祈願したり水に漬けたりするのである。上富田町生馬の奥の方などでは、若い者が地蔵さんに白布を巻いて背負ってきて、一定の場所で祀り、地域の人々が雨乞い祈願をした上、雨乞い踊りを行った。これで上手く雨が降れば、地蔵さんを俄か拵えの駕籠に乗せて、一同がお供して元の場所に送ってゆき、そこで祝宴を開いたという。

       釣鐘を川や池に沈める。

1、和歌山県有田郡清水町楠本(現有田郡有田川町)では鉦を淵に入れて雨を乞うと水中の龍が雨を降らしてくれる。

       太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。

1、和歌山県西牟婁郡秋津川村(現田辺市)では雨乞いの際、同村万福寺の境内の阿弥陀堂の本尊を寺の下のガマ淵の下に持ち出し、万福寺住職が観音経を読み、村民がその周囲を輪になって踊れば雨が降るという。この雨乞いは万福寺の十世全恭の創めたものという。

2、和歌山県西牟婁郡万呂村(現田辺市)では天王池の堤で「降れたまえ蛙」と唱えて雨乞いする。

3、日高郡日高町原谷では雨師権現への雨乞い踊りがある。雨師権現は山上にあり、ここに雨穴という洞穴がある。大正十三年八月、ここの七週間の願をかけ、雨乞い踊り(小栗踊り)を奉納中、願かなって雨が降ったという記録が残っている。

4、海草郡野上町梅本・中田・東福井・奥佐々(現同郡紀美野町) 雨乞い踊り。小川八幡で踊る。

5、有田郡清水町(現有田郡有田川町) 雨乞い踊り 清水・久野原・東大谷・沼・室川・上湯川・下湯川にあり。大正二年に雨乞いの火炊きをしてその周りで踊った。

6、有田郡広川町中野 雨乞い踊り(シッパラ踊り)。八幡宮で踊る。二十四人の踊り子の他に太鼓打ち・棒振り・新棒一・神ナリ()・山伏等の役がある。新棒一(新発意)と棒振りは踊りの始めに「言立て」をする。雷役については説明がないが、他に例の少ない役である。昭和十七年に雨乞いを行ったのが最後。

7、有田郡金屋町 雨乞い踊り 天石社の氏子では上六川・黒松・五名社の氏子の中峰・本堂・沢田・生石・小原、岩倉社の川口・石垣社の宇井苔の各集落に伝承。棒振り・新発意(祈祷文を読み上げる)・太鼓・貝・笛・鉦・踊り子の諸役がある。川口では祇園社・竜王社でも踊り、そこでも新発意の言立てがある。各社を廻る途中の行列では踊り子が「雨たもれ、空曇れ。くもったらバーラバラ」と叫びながら進む。

8、日高郡美山村猪谷 大踊り 雨乞いの踊りは不動の滝や八幡滝で踊る。

9、伊都郡九度山町上古沢 コオドリ。雨乞いに踊ったともいう。踊りの輪は、中踊りと外踊りからなる。踊りの曲は「伊勢の湊」ほか十三曲ある。なお、踊りと踊りの間に「狂言」(にわか芝居のようなもの)があったという。

       特定の聖地から代参が水種を受けて川や田に注ぐ。

1、奈良県吉野郡上北山村池峰に、明神池という杉の大木に囲まれた周囲一キロほどの池がある。北山川の支流池郷川の源に当り、村の高所にある。傍らに池神社があるのはすなわちこの池の神を祀る社であろう。この池中に船釘を投げ込めば龍が昇天するという伝えがあって、在る者が船釘一貫分投げ入れたら、たちまち黒雲天を被い雷鳴激しく、龍が天に昇ったと伝えられる。すなわち竜神の棲む聖なる池がゆえに汚れを禁じたのである。またここは雨乞いの池であって、池の南にある和歌山県東牟婁郡の北山村下尾井では、雨乞いにこの池のお水を受けに行ったと聞く。

2、奈良県吉野郡下北山村では雨乞いはあまりしなかったようだ。それでも日照りの続いた年にはジゲ中が池峰へ上がって明神さんに参り、祠官さんに祈祷してもらって、池の水を徳利やビンなどにタバってきて、ちょっとずつ田畑にまいた。そうすると不思議に雨が近かった。昔は紀州からもよく雨乞いに来て、戻る途中でもう降ってきたといって礼状が来たとか、途中でマクレて(転んで)そこで雨を降らしてしもうたという話を聞いた。ついでながら、山火事が広がっても、池峰のお宮さんで祈祷してもらった。

⑫      山に上がって大火を焚く(千駄焚き)

1、高野山の火を受けるのは奈良県でも吉野郡等、やはり高野山に近い地が被い。十津川村では各戸から一人ずつ出て高野山に詣り、受けてきた火を松明に移し、天に向って「雨々タンモレヨ、雲ノ上ノ順達(龍辰、龍蛇がなまったものと考えられる。)ヨ」と叫ぶ。

2、高野山のお膝元である和歌山県にこの信仰の分布している事は勿論であるが、やはり御山の麓の伊都、有田、那賀から日高、東牟婁、海草等の諸郡に多い。伊都郡河根村(現九度山町)では村境にある護摩ノ壇へ上がって雨乞いの火を焚いたが、高野山からの護摩の火を貰ってくる事もあった。

3、海草郡加茂村大窪・美里町神野市場等も火種は高野山で受けたという。

4、有田郡五西月村付近ではそれはよくよく旱魃の場合に限られていたという。百八燈、千巻心経をあげての火焚き、あるいは生石山上の巨石に鉦・太鼓で詣るなど、手を尽くしても効の無いときに初めて高野山に詣る。足の達者のものが二、三人、何食かの弁当を持って御山に火を賜りに行き、それで千八燈の火を燈した。

5、有田郡金屋町では高野山の万燈籠の火を持ち帰って火を焚くという。

6、有田郡の清水町大蔵・宮川等でも徒歩で高野山まで火を受けに行き、その火種で山上で焚いたという。

7、那賀郡池田村中畑(現紀の川市)でも、どうしても降らぬ時には高野山に詣った。寺で祈祷してもらい、奥の院の火を火種につけて帰るが、途中で休むとそこに雨が降るという。

8、田辺市あたりでもこの事があった、隣の日高郡御坊市付近でも最も普通に行われる雨乞いは高野山の火を受けて来てこれを松明に移して村民達が手に持って高い山に登りそこで火を焚く方法があった。また中津川の佐井・原日浦・三十木・田尻船津・西原小釜本の諸集落、矢田村の千津、寒川村でもこの話を聞くが、中でも小釜本では昭和四十二年の高野山の火を受けに行ったそうである。

9、高野山の火を請けて来て寺で三日間祈祷して、山上で火を焚く為に、日高郡内の矢田・稲原・みなべではその為に雨乞い山というのがある。

10、みなべ町の晩稲地区における雨乞いは同地区で最も標高の高いボンノオカと呼ばれる里山において火を焚き、殆どの晩稲住民が、量の多少を問わず燃料材を持ち寄ったと云う。

11、和歌山県西牟婁郡三栖村(現田辺市)では雨乞いに高野山の火を迎えて氏神に供え、村民各々松明を携え、これに火を移し、田の上を鉦・太鼓を振り歩いて祈るとあるが、これを「火送り」と呼ぶというのは、「虫送り」と比べてこの行事の意図を物語ると云えよう。

12、紀州では東牟婁郡那智勝浦町や古座町西向辺りで那智山あるいは妙法山の火を迎える事もあった。妙法山は那智山の上方にある寺である。妙法の火を迎えるとて、この火を徹夜で迎え、これによって大火を焚いたという。この寺では明治三十八年に高野山の不断の燈明を受けて来て仏前で燈し続け、大戦で油が切れるまで絶えなかった。その為この寺の火を受けると高野山の火を受ける代わりになったという。

13、奈良県南部の山間地域は修験道の本場、金峰山や大峰山の火がある。これへは摂津・河内方面からよく詣った。紀州の粉河でも大峰山麓洞川の竜泉寺の火を受けてくるというが、大峰山の火というのはおそらく他でもここの火か稲村岳の火の事を指すのだろう。奈良県吉野郡大塔村でもこの竜泉寺から若者が火を戴いて来てそれを各戸で受け松明に移してヒフリした。同郡の十津川村中越では大峰の稲村岳から火を受け、神社に納める。

以上、①~⑫の分類にしたがい主に紀伊半島西部地域内の雨乞い祭祀具体例を列挙した。次にそれらの類型、分布について検討、考察を行う。

① 村民が山または神社に籠って祈願する。この雨乞い祭祀形態は参照した資料等から地域内において見出すことができなかった。山、神社などでの祈願例は多くあるものの村民が特定の場所に籠って行う祈願とは当地域においては発達しなかったものと考えられる。

② 作り物の龍や神輿、仏像を水辺に遷して祈る。この形態の雨乞い祭祀は現有田市にて一件のみ見出す事ができた。その背景観念とは⑧、⑨に類似しており、この様な雨乞い祭祀とは国内各地にて散見するものであり特に珍しいものではない。一方神輿を水に漬ける祭祀形態は地域内において有田市における一件のみであった。

     特別の面(雨乞い面)を出して祈る。この形態の雨乞い祭祀は地域内においては紀ノ川流域のみにおいて二件見出すことができた。しかし雨乞い祭祀にて何故、面を用いるのかという背景観念を理解していないことから、これは今後の研究課題としたい。

     大勢で千回・一万回の水垢離をとる。この形態の雨乞い祭祀は、それに類似するものを二件見出すことができた。1、においては、どの様な雨乞い祭祀が為されていたかは不明であり2、においては、人身御供の名残とも考えることが可能である。

     水神の棲むという池などをさらって水替えをする。この形態の雨乞い祭祀は地域内主要部にて見出す事が出来ず、その周辺地域といえる奈良県吉野郡にて二件見出すことができた。また、この祭祀形態は前述の様に特にその方法において後述⑪、⑫と同様、汎霊説(アニミズム)的要素が強いと考えられる。

     水神の池や淵の水をかき回す。この雨乞い祭祀形態も⑤と同様地域内主要部におい見出すことが出来ず、奈良県吉野郡にて二件見出すことが出来た。この雨乞い祭祀は、その方法が比較的簡便であることから地域における雨乞い祭祀とは認識されず、ある種の日常生活における禁忌とされていたのではないかと考える。そのことを示す材料として、二〇〇二年夏に執筆者が田辺市出身の知人と県内の合川ダムに釣行の際、釣竿で水をかき回すと雨が降ると咎められたことがある。ともあれ、そういった観念の由来とは興味深く、今後の研究課題としたい。

     水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。この雨乞い祭祀については以降詳論するが、概括として日高郡から田辺市、白浜町付近の地域にて散見された。また類似の雨乞い祭祀が我が近畿圏を中心に少例ではあるものの幾つか見出すことが出来た。この雨乞い祭祀の原形はおそらく朝鮮半島にあると考える。

     地蔵を水に漬ける。この形態の雨乞い祭祀は地域内随所に見出す事ができた。その背景観念は②、⑨に類似していると考え、同時にこれは我が国内各地で散見される。また、この祭祀形態は少なくとも当地域において、少人数で行う祭祀というよりもむしろ、大勢での踊りを伴う⑩に類似したものであったようである。

     釣鐘を川や池に沈める。この形態の雨乞い祭祀と同一とされるものは見出す事が出来なかった。しかし同じ金属製の打ち鳴らす仏具としての性質を持つ鉦を用いた祭祀例を有田郡にて一件見出した。水神、龍などは金属を嫌うと考えられていたことから、この祭祀形態とは威嚇の要素が強いと考えられるが、その場合⑦の祭祀形態の背景観念においても共通する要素を見出すことが可能である。

     太鼓を打って総出で雨乞い踊りを踊る。この雨乞い祭祀形態は地域内随所において見出すことができた。同時に我が国全般においても同様の特徴を示した。

     特定の聖地から代参が水種を受けてきて川や田に注ぐ。この雨乞い祭祀形態は奈良県吉野郡および和歌山県東牟婁郡北山村といった中山間地域にて見出すことができた。そしてその祭祀背景観念は前述の様に聖性を有する水が効果をもたらすと考えられる。しかしその方法においては汎霊説(アニミズム)的要素が強く、類似したものは我が国においても散見される。以上のことからこの雨乞い祭祀形態は古来より続く方法に後日降雨の効果をもたらす聖性の要素が付加されたものではないかと考える。

     山に上がって大火を焚く(千駄焚き)この雨乞い祭祀形態は地域内にて最も多く見出すことが出来た。概ね用いる火が高野山をはじめとする寺社から受けるものであり、南紀の古座川流域における雨乞い祭祀はこれと同様のものであった。加えて、この雨乞い祭祀形態は聖性を持つ火の要素を除けば周辺諸府県のみならず世界各地において多く見出すことが出来ることから、水、火と異なるが、前述⑪の雨乞い祭祀と類似した背景観念を有するものであるといえる。つまり、この雨乞い祭祀形態も当初は降雨時に山肌から水蒸気が立ち上る光景に類似させた汎霊説(アニミズム)的要素が強いものに雨の効果をもたらす聖性を持つ火の要素が付加されたものではないかと考える。

 以上、紀伊半島西部地域における雨乞い祭祀の類型、分布を行ってきた。次にこれらの検討、考察をおこなってゆく。

 前述において、我が国の雨乞い祭祀類型に対する「金枝篇」内記述に基づいた背景観念の汎神論(パンティズム)、汎霊説(アニミズム)による検討、考察を行った。

それらは概ね祭祀背景観念の基層において類縁関係があると考えられるものの、記録されている具体的祭祀においては無関係、別種に分類されるもの、あるいは逆に基層において無関係、別種であったと考えられるものの記録されている具体的祭祀においては類似性を示すものなどが多数あると考えられ、それらの精確、明確な分類とは実質的に困難であると考える。しかしながら、具体的祭祀の表層においては汎神論(パンティズム)、汎霊説(アニミズム)何れの要素が強いかと云うことは判断できると考える。その上で具体例を含め汎神論(パンティズム)の要素が強いと考えられる雨乞い祭祀類型は①、②、③、④、⑦、⑧、⑨、そして⑩であり、汎霊説(アニミズム)の要素が強いと考えられるそれは、⑤、⑥、⑪、そして⑫である。概括的に神、神々あるいはそれを象徴するものに対する祈祷、威嚇等により降雨の招来を期待するものは汎神論(パンティズム)の要素が強く、一方、祈祷、威嚇よりも単に降雨という自然現象に類似させた行為を行い、その招来を期待するものは汎霊説(アニミズム)の要素が強いものと考える。
それらは時代の経過に伴い、同一の祭祀形態に対し、新規の解釈を加味させたり、同一解釈の祭祀に対し、祭祀形態の変形を加えたり、また、それらが複合的に為されることにより、記録されている祭祀形態およびその背景観念になったものと考える。
また、この様な祭祀を扱う場合、文献資料のみではおのずずとその検討、考察において制限が生じる。それらは実際地域に赴き、生活し、住人と会話をし、景色、地形を実見し検討、考察することが何よりも重要であるるのではないだろうか。そしてその際に得た考えとは、それがたとえ当を得ないものであったとしても、その後の修正を容易にするものであると考える。