2016年11月28日月曜日

20161128 色々とハナシは飛びますが・・生命力の「燃焼」の程度

先日投稿したブログ記事にて2013年9月、鹿児島からの帰郷時における原宿付近での出来事を記しました。

そして、現在ではその出来事にある行動を採ることは困難であるように思われます・・。

むしろ、現在となっては、何故、当時(2013年9月)は、そのような行動をスムーズに採ることが出来たのか?の方が不思議に思われるのです・・。

そう思い返してみますと2013年当時の私と、現在2016年の私の間には大きな相違があり、さきのブログ記事に記した状況における対応、反応に限定して云えば別人になってしまったと表してみても決して言い過ぎではないと思います・・。

また、こうしたことをわざわざ(掘り返してまで)言語化、文章化することとは、どこかしら若い頃の悪行を自嘲・自慢半分半分で語るオジサンを連想してしまい、2013年の行為、現在の(そのことを言語化、文章化する)行為、共に我がことながら、あまり感心することは出来ません・・(苦笑)。

では何故、現在私がこの過去の「愚行」を再度ブログ記事の題材としているかのかと考えてみますと、それは、過去の自身(の特に行動)が理解出来ないことは、それが夢や架空の出来事でないのであれば、かねてより当ブログ記事にて歴史(過去の実際の出来事)の重要性を力説、標榜している私としては「灯台下暗し的な盲点」として認識されることにより、もう少し、その意味を考えてみた方が良いと思われるからです・・。

それ故、ハナシは元に戻し、具体的に2013年9月と現在の私の間には如何なる「相違」が認められるのでしょうか・・?

この問いに対し即座に感覚的に思い起こされる、一連のブログ記事にて用いてきたコトバとは「D2病」です・・。

端的に云えば2013年9月の私とはD2病の真っ只中にあり、それに対し現在の私とは、少なくともそこから大分寛解しているのではないかと考えます。

そして、それが両時期の間に見られる顕著な相違であり、また現在では理解不能な程の断層を生じさせる要因であるとも思われるのです・・。

とはいえ、ここで不思議に思うことは、2013年9月の出来事も現在と同様、自身の経験・記憶でありながら、何故、前者に関しては、その行為を行わしめた背景である、当時(2013)の精神、心の現実性を感覚的に内面から理解することが出来ないのであろうか?ということです・・。

そして、そのような状況を異なる視点から考え、さらに説明可能なコトバの抽出を試みますと、そこに「憑き物」「憑依」「Obsession」といったコトバが浮かんできます・・。

また、上に示したこれらコトバも以前投稿したブログ記事にて述べたことがありますが、そうしますと2013年当時の私は何かに「憑かれていた」とも表することが出来るのではないかと思います・・。

では、何に憑かれていたのかと考えてみますと、これもまた以前のブログ記事にて述べたものではありますが「Erdgeist」つまり「地霊」のようなものではなかったのだろうかと思われるのです・・。

また、この考えから更に歩を進めてみますと、この2013年の状態が、これもまた以前ブログ記事に記しましたが、「ハレ」(ハレ・ケガレのハレ)の状態であったのではないかとも思われるのです・・。

さらに加え、それはまた「躁的状態」ともまた、大きな関連性があるのではないかとも思われます。

以上、2013年9月の自身に対し思ったことを述べましたが、この後の反動とはかなり大きなものであり、自身の生命力に少なからぬ危惧を抱く結果となりました・・(苦笑)。

もしも(一定、有限の)生命力の「燃焼」の程度に差があるとすれば、この時の私とは、相対的に見て(著しく)強く燃焼していたのではないかと思われるのです・・。

そして、再びそうした状態になった場合、今度は上手くヒット・ポイントをずらし、持続可能性を維持することが出来るのではないかと、これまでのブログ記事作成での経験を通じ何やら得たような感じがしなくもありません・・(苦笑)。

しかし、実際のところは本当にそうなのであろうか・・?

また、これも畢竟、主観的仮説の積重ねであるといえば、そうであるので・・(苦笑)
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部そして先日の福島周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」