2017年5月20日土曜日

20170519 「具体的な事象の文章による写生」と「抽象的にして分かりやすい文章」

A「本日は若干帰宅が遅くなりました。現在【24:46】より記事作成を開始するのも、いささか面倒ではありますが、とりあえず書いていくうちに何かしらの着想も生まれるであろうと考え、記事作成に取り掛かった次第ではありますが、どうやらそこまで簡単には行かないようです・・(苦笑)。

さて、本日も五月らしい陽気でしたが、この時期ですと南紀の場合は既に海開きが為され、また更に南の鹿児島では汗ばむほどの陽気であったように記憶しております・・。

このように思い出してみますと、鹿児島では年間を通じて、汗ばむほどの陽気の時期が長く、現在に比べて盛んに発汗していたように思います。

また、定期的に温泉に浸かっておりましたので、これも良い発汗作用をもたらしていたと思われます。

そして、こうした気候風土に慣れ親しんだ後、突如、関東、首都圏に戻り、住むことになりますと、若いうちは早々に順応することが出来、そうでもないのかもしれませんが、生活環境のギャップに心身共にショックを受け、朝の通勤電車や街の雑踏などに対しうろたえてしまい、よく分からない挫折感を味わったものでした・・(苦笑)【現在の私は路面電車が走る街の方が好きです。】。

しかしながら、現在ほぼ毎日のように作成している、このブログ記事とは、そのごく初期のものを除き、そうした環境での経験のなかで作成されたものです・・。

そうしますと、この決して良いとは決して云えない環境の中で受ける刺激がブログ記事作成に対してはある程度効果的であるのかもしれません・・【しかし、果たしてこの場合の「良い」とは、どういった意味なのであろうか・・?】。

とはいえ、同時に、そこで気付かされることは、それら記事の多くとは、自身の直接的な環境についてはあまり言及していないということです。

より多くの記事とは、書籍などを通じて得た知見に対しての経験からの言及であったり、以前在住した地域に対しての書籍、経験を通じての言及であると思われます・・。

これは半ば無意識的にそのようになったと云えますが、その理由とは、自身のことながらよく分かりません・・。

ただ、これはあくまでも私見ではあり、普遍的な見解であるかは分かりませんが、自身【主体】の具体的な周囲の事象に対する文章による写生よりも、幾分か抽象度を上げた観念的ともいえることを文章によって著す方が、何と云いますか、自身【主体が】の文体を得る上においては適しているのではないかと思われるのです・・。

そして、こうした文章にてある程度、分かりやすく明晰な文章を書くことが出来るようになれば、自然と具体的な事象の文章による写生もまた、ある程度は出来るようになるのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・?

また、さらに思うことは、さきの抽象度を上げ、且つ分かりやすく明晰とも云える文章を書くことが可能になれば、それは環境の変化に対しても、ある程度の柔軟性を以って対応することが出来るのではないかとも思われるのですが、これも如何でしょうか・・?
現在これらは未だ感覚的な仮説ではありますが・・。

今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」