2024年3月14日木曜日

20240313 令和・歯科医院訪問記③ 院長について

 以前投稿の記事にて、かつて勤務先での営業活動のため、首都圏の医療機関をまわっていた時期があったことを述べました。その具体的な期間は2016年3月から2018年5月頃まででしたが、思い返してみますと、この時期も当ブログは継続しており、また丁度、毎日に近く記事投稿をしていた頃でもありました。しかしながら、少なからずの医療機関をまわっていたこの時期は、かえって、その活動についての具体的なことを記事にすることは(あまり)ありませんでした。

そして、この時期の記事作成の視座から、現在のそれを考えてみますと、当時は、これまでに2記事作成・投稿した「歯科医院訪問記」のようなブログ記事は作成しなかった、否、出来なかったことから、自分が当ブログ全体に対して自信のようなものを持ったようにも思われますが、他方で「何か違ったことをやらなければ・・」と考えた結果の行為であったようにも思われる次第です・・(笑)。

いや、こうした自らを信じる自信と、内面での葛藤とは、本来、両立しあうものであり、あるいは、それらが噛み合い駆動することにより、人間の精神に内発的な変化が生じてくるのではないかとも思われます。そして、それがなくなると、変化はなくなり、徐々に硬直化して、そして衰頽していくというのが、我々人間の活動に普く認められる性質であるようにも思われます。

とはいえ、そこまで掘り下げなくとも、今回の投稿記事は「歯科医院訪問記③」であり、前回の続きですと、クリニック玄関から中に入るところからになりますが、そこから書き始めてしまっては、過日、冗長気味をも是とするとした訪問記についての見解に反するとも云えることから、ここでもう少し今回の訪問先歯科クリニックの院長についてを述べます・・。

以前投稿の訪問記①にて述べたことですが、こちらの院長はご出身が山梨市であり、御実家は歯科クリニックを運営されていますが、数年前に現院長が敷地を駅前の大通りに面した場所に移転して、またそれに伴い、徐々に診療業務も代替わりをされつつあるというのが現状と云えますが、しかし他方で、こちらの院長は長らく沖縄県の大学病院口腔外科に勤務され、10年ほど前に帰郷し、拠点を山梨市に戻されたとのことですが、私としては、このあたりが大変に奮っており、また珍しいと思われるのです。そのため以前「何故、先生は沖縄での臨床研修を望み、そこからまた6年間医員として勤務されたのですか?」と訊ねたところ「ああ、高校時代の修学旅行で行ってから好きになり、その後は歯科大学時代でも毎年行っていましたので、臨床研修先の病院も沖縄にしようと思いまして**大学病院を希望しました。」とのことでしたが、そのようにして、自らの故郷ではない地域を好きになれるのは、外界に対して開かれ、能動的でないと出来ないと思われますので、私見としては、それは幸せなことであると考えます。

そしてまた、この「能動的」という言葉も当院長には似つかわしく、院長が医員として勤務されている、私が歯科治療を受けた都内東部の比較的大きな歯科医院でも活発に動かれていて、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方への指導や、自分でなければ困難と思われる歯科治療の手技の際には、どこからともなく現れて、適切な処置を若手の先生がたに見せつつ説明しながら行い、それを行うと、次の処置の確認をされて、また足早に去って行くといった感じであり、そこから、おそらく、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方が行っている歯科治療の概要と、それらに必要な処置の流れや、要する時間なども把握されているのだと思われました。そして、こうした様子を見ていますと、故郷から離れた沖縄の大学病院の口腔外科におられたことや、離島勤務の歯科医師であったことなども想起されてきます。こうした活動も、自ら動く「能動性」が必要であると思われますので・・。

そしてまたこちらの院長を特徴付ける「能動性」について、さらに私見を述べさせて頂きますと、これは当然であるのか、あるいは意外なことであるのか、ご当地山梨県の地域性にも触れるように思われましたので、それにつきましては、また次の訪問記にて述べます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年3月13日水曜日

20240312 株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」pp.159‐161より抜粋

株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」
pp.159‐161より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003319613
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003319611

日本民族の文化的社会的展開の道筋

 私は、日本民俗学が対象とする基盤的生活文化を、西欧近代文明渡来までに成立した生活文化と、いちおう限定するが、種族的混成が国家の創立によって、いっそう促進され、それがどんな過程を経て、江戸時代の社会的・文化的構造を展開するまでにいたったかという、あらましの展開の道筋をここで考えてみたいと思う。

 さきに述べたように、石器時代以来、日本列島にはいくつかの種族が渡来し、それらは隣住し、多少とも独立の種族的生活を営んでいたが、しかし時の経過のうちに相互に交流し、接触し、あるものはすでに混合の過程が進んでいたであろう。最後に渡来した天皇種族は、これらの先住農耕種族や漁労種族を征服し、国家を創建し、時とともに政治的権威を強大にし、領土を拡大し、かくして国家広域社会が形成されるにいたった。先住の諸種族はその種族としての独立性を失い、国家広域社会内に組み入れられることになり、だんだん階層化して被支配層となり、あるものは農民層となり、あるものは漁民層となり、あるものは手工業者層と変貌し、またさらに支配者種族自身も種族としての独立性を喪失し、階層化して支配層となり、また貴族層となり、王朝制を確立するに至った。種族としての独立性を失った諸種族の社会的結合力は必然的に弱化し、これら種族固有のさまざまな社会的規制は徐々に弛緩し、たとえば種族内婚的通婚性は崩れ、通婚圏は拡大し、混血の過程は急速に進行した。このばあい、種族の種族としての社会的な枠組みは、まず壊れたが、しかし種族社会を構成していた核社会としての村落共同体、小社会集団、親族構造、社会制度、それにまた生活様式、とくに生産様式は、比較的に長く存続したであろう。種族としての社会的枠組すなわち内婚制は消滅し、通婚圏は広まり、経済生活圏も拡大し、異種族との通婚による混血は文化の交流・混交を促し、かくて身体形質の遺伝、文化伝承の場はその範囲を拡大した。文化の地盤であり容器であった種族の解体は必然的にまた種族文化の統体性の解体を促した。この解体がすすめばすすむほど、その文化要素は母胎社会集団から遊離し、浮動し、伝播し、異系文化要素と混合し、結合し、癒着し、さきに述べた通婚による文化の交流、混交の現象とともに、雑多な新しい形態の宗教、儀礼、社会制度、習俗を生み出すにいたった。伝播や交流は時とともに広範囲に広がり、混合分布の地方差はあっても同じような文化要素が日本列島にほとんど一般化し、ついに雑多で、しかも等質とも見られるような日本文化を生み出すにいたったのである。これはまた身体形質の混合がその度合いの相違はあっても、日本全島に一般となるにいたって、現在見られるとうな雑多なしかも同系等質らしくみえる日本人の人類学的相貌といわれるものが結果するに至ったことにも並行する現象である。しなわち混合の一般化、融合化が等質らしさを生んだのである。この等質らしさはまた事実の等質化への進行を意味する。生物学的遺伝、文化的伝承の場は時とともに拡大し、かくて共同出自の観念は一般に浸透し、言語は統一化し、信仰、儀礼、習俗などは、さまざまな結びつきあいの混合で、広く散布しているというような形で一般化し、等質化しかくて日本民族という新しい大きな単位体エトノスが徐々に形成されるにいたったわけで、しかもエトノスの可変的=過程的性格からもいえるように、この日本民族という民族単位体の一様化・等質化は現在もなお進行しているのである。

2024年3月11日月曜日

20240310 令和・歯科医院訪問記②クリニックに着くまでの経緯

「やがて私が山梨市の医院を訪問する運びとなり、その日程が昨年暮れに決まり、翌、本年の1月下旬と訪問日が決まりました。」

その続きになりますが、この訪問時のポイントはその場でメモをとり、翌日に、それらを短文にまとめておきましたが、それらを統合した訪問記事の文章の書き方については悩みました。その理由は、こうした医院や歯科医院への訪問記、取材記事といったものは、既に数多くネット上にあり、それら前轍に倣い作成することに違和感を覚えたためです。

とはいえ、当記事は、すでにサイは投げられており、書き進める必要があることから、上述の、いわば呻吟している様子をも含めて訪問記の一部として書き進めることにしました。

そして、そうした書き進め方とは、往々にして簡潔ではなく、冗長気味にもなりますが、それはそれで悪いことではなく、シベリウスとマーラーの作曲スタイルの比較にも通底するものがあるのか、ともかく「オッカムの剃刀」も使いようであると私は考えます。

さて、訪問当日は早めの朝7時頃に起床して身支度を整え、最寄のJR総武線本八幡駅に到着したのが7時30分頃でした。そこから総武線で御茶ノ水駅まで出て、中央線に乗り換え、新宿まで行き、そこで予め乗車券を購入していた8時30分新宿発の「かいじ7号」に乗車しました。

「かいじ7号」は予定時刻通り出発して、当初は見慣れない周囲の景色を眺めつつ、持参していた白水社刊 オーランドー・ファイジズ 著「クリミア戦争」上巻を読み進めていましたが、八王子あたりから眠くなり、少しウトウトとしていたところ、早くも目的とするJR山梨市駅は近くなっていました。そこで不図、以前に訪問先医院の先生が「いやあ、新宿から一寝入りする時間もありませんよ・・(笑)。」と仰っていたことが思い出されました。

山梨市駅に到着し、下車してから改札がある駅舎二階に出ると周囲の景色を臨むことが出来ました。そこで此処は山に囲まれた典型的な盆地であることが実感されて、さらにまた、新宿と比べ、明らかに気温が低いことも実感されました。そして、北口から駅前の通り沿いに徒歩2分ほどで目的のクリニックが左側に見えてきました。

こちらのクリニックはここ数年、令和に入り、ごく近隣にあった以前のクリニック敷地からこの場所に移転してきたとのことであり、現在の新クリニック2階の窓からJR線方面を眺めると、以前のクリニック建物が自然と目に入ってきました。現在、この旧クリニック建物は、倉庫や院長の休憩部屋などとして用いているとのことです。

さて、駅から歩き、左手に見えてきた新クリニックは開院してからまだ数年と日が浅いためであるのか汚れも少なく、あるいは見方によれば、周囲の他の建物と比べて、少し異質なくらい「美」を意識しているようにも感じられました。

とはいえ、無論、そうした「美意識」あるいは「審美性」といったものは、医療機関だけに変に耽美的であったり、あるいは装飾過多といったものではなく、簡素ななかに美しさを見る、何というか、北欧の各種生活雑貨や家具などからも看取される文化に近いものであり、そして、そこに何らかの独自の機能美を付加、追求したと思しき嗜好の傾向を持たれている開業医師・歯科医師の先生方も実際に少なからずおられました。それでも、こちらの歯科医院は、あまりそうしたことを強調するようでもなく、そして、そこにまた独自の嗜好の傾向があるようにも感じられました。

さて、クリニック前に矯正治療後の歯列のように整然と置かれたプランタの間を通り扉を開けて中に入ると・・・

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2024年3月10日日曜日

20240309 株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」 pp.80‐82より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」
pp.80‐82より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038951
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038952

 ウクライナと国際社会にとって最も厄介なシナリオは、ロシアによる一方的な停戦、つまりロシアのいうところの「特別軍事作戦」の一方的な終了宣言である。それは、更なる侵略のために態勢を整える時間稼ぎにすぎない可能性が高いが、それでも、ロシアが停戦を宣言し、実際に攻撃をやめることがあれば、ウクライナ側にも停戦受け入れの圧力がかかることになるだろう。ウクライナが戦闘を停止しなければ、ウクライナ側が戦争にエスカレートさせていると捉えられかねない。

 そうしたなかで事実上の停戦になった場合に、ロシアは占領した地域に居座ることになる。自発的に撤退する可能性は皆無だろう。ウクライナにとっては自国領土を奪還する機会が失われ、ロシア占領地域の国民の犠牲は続くことになってしまう。ここで問われるのも、国際世論がこうした状況をどのように捉えるかであろう。ロシアによる一方的停戦の不当さやまやかしを批判し続けるのか、それとも、ウクライナに対する停戦への同調圧力を作り出すことになるのか。この帰趨が与える影響は大きい。

 ロシア・ウクライナ戦争の語られ方をめぐる攻防は、現在も続いているし、戦争が継続する限り、今後も決着することはない。これまでのウクライナ優位の継続はまったく保証されていない。ウクライナは侵略を受けた側であるにもかかわらず、ウクライナの方が戦争をエスカレートさせているとみられかねない要素は常に存在しているのである。

 とはいえ、エスカレーションの回避という課題は、ウクライナにとっても重要であるし、米国のウクライナ支援においても、大きな要素になってきた。核兵器保有国であるロシアを刺戟しすぎれば、核兵器の使用、そして第三次世界大戦という破壊的な結果を招きかねないというのである。この懸念ゆえに、常に慎重さが求められることは論を俟たない。ロシアが米国やNATOを抑止している構図である。

 しかしそのことは、ロシアによるエスカレーションの脅しのすべてを真に受けて、ウクライナやNATOを抑止していると同時に、米国を含むNATOの側の対露抑止も機能しているからである。つまり、エスカレーションに関して、ロシアがフリーハンドを有しているわけではない。

 あらためて強調すべきは、エスカレーションの懸念を惹起させ、その責任をウクライナに押し付けることこそ、今回の戦争の語られ方をめぐる攻防におけるロシアの重要な目的だということである。そして、それは抑止という根源的な問題と直結しているのである。語られ方はやはり重要だ。

【初出】「戦争とエスカレーションするのはどちらかーロシア・ウクライナ戦争における「語られ方」をめぐる攻防」コメンタリー、日本国債フォーラム(二〇二二年八月二二日)

2024年3月8日金曜日

20240307 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 村上陽一郎著「日本近代科学史」pp.64‐66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065130271
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065130278

 織田信長が国友鍛冶の技術に目をつけ、大量に発注したことから量産が始まり、いわゆる「国友鉄砲」は、希代の名声を得るようになった。とりわけ信長に継いで全国の覇者となった秀吉は、国友村を直轄領地として、専属武器工場のように扱ったと言われる。国友村のこの権力者隷属の立場は徳川幕府成立後も変わらなかった。

鉄砲伝来の背景
 
 ここで考えておかねばならないことは、鉄砲伝来の技術が、例外なく刀工、刀鍛冶の手で開発されていることで、すでに八板金兵衛の例が物語るように、わずかなコツをヒントとして与えられれば、正確に現品を模するだけの錬鉄(鉄の原料は、初期にはある程度、いわゆるシャム鉄などの輸入にたよっていたが、日ならずして山陰の砂鉄を中心に、国産で十分良質の鉄材を得ることができるようになった)、加工の技術を当時の日本の刀工、刀鍛冶たちが身につけていたことがわかる。やがてこれらの銃は、中国大陸沿岸を荒らし回った日本の海賊倭寇の手にわたり、明の人びとは、日本製の小銃を、飛鳥をも落とす「鳥銃」と呼んで恐れたが、それを模することに大きな苦心を払った明の技術水準に比較すれば、当時の日本の刀剣技術水準の優秀さが読みとれよう。
 さらに、日本における鉄砲の急速な普及に幸いとしたのは、当時の日本が戦国の世であり、単に各大名が競って威力のある武器の開発を志していたばかりではなく、各地に群雄が割拠し、戦乱の軍馬が各地方を往来し、また、その間を縫って、ようやくはっきりした形をとりはじめていた商人階級の手になる商業路網が、活発な活動の緒についていたことであった。もし強大な権力を一手に握った徳川幕藩体制の確立後に、西欧の鉄砲が伝わったとしたら、幕府の手で秘密に開発される努力は尽くされたではあろうが、けっして全国各地にあれほど激しい勢いで普及はしなかったはずだし、そうとすれば築城法その他多くの点で日本の古来の立場に、ここまでの大きな変革の影響も与えなかったであろうと想像される。

戦法は一変した

 とにかく、鉄砲は初伝以来わずか五年もすれば、全国の強力な大名の手に渡り、少なくとも一五四九年には、はやくも銃戦の記録が見えはじめている。ことに織田信長が鉄砲の利用にすぐれていたことはよく知られている。一五六〇年の桶狭間の戦いですでに、織田・今川両軍とも鉄砲隊を組織しているが、鉄砲隊の使い方は、信長勢のほうが格段にまさっていたようであり、そうしった幾多の経験から、弾丸をこめ代え、次弾を斉射できるまでの時間を見計らい、一陣、二陣(場合によっては三陣まで)交替で斉射と装弾をくり返す、というよく知られた戦法や、弾丸の射程内に馬止めの障害柵を巡らし、騎兵を殲滅する戦法などを会得した織田の軍勢は、高名な長篠の戦い(一五七五年)において、武田勝頼の軍を壊滅させ、鉄砲隊の戦争における効果に決定的な評価を与えたのであった。
 このため、旧来の騎兵を中心にしたやりと刀での戦闘は意味を失い、とりわけ名乗りをあげて豪の者同士が争う一騎打ちは影をひそめ、これに代わって、足軽など身分の軽い者で組織された歩兵団をいかに巧妙に使うか、という点が、戦術の要諦として浮かび上がってきた。これは、一介の足軽でも鉄砲を使って相手の大将さえ殺すことができ、それゆえ論功にもあずかれる可能性のあることであり、下剋上の風潮に拍車をかけることになった点も見のがせない。

2024年3月7日木曜日

20240306 朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」 pp.105-108より抜粋

朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」
pp.105-108より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022952385
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022952387

 人間は「じつは・・・だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えて生きています。よく生きるためには、この書き換えをうまく使うことが大事です。それが訂正する力ということです。

 もちろん「じつは・・だった」は万能ではありません。その力を野放図に使うと、過去を都合よく書き換える場当たり的な人間になってしまいます。歴史修正主義の問題です。

とはいえ、それは人生の転機においては必要になる力です。長く続けてきた仕事を辞める、長いあいだ連れ添ってきたひとと別れる、そういうときに、多くのひとが、いままではまちがっていた、これからは新しい人生を送るんだと考えます。リセットの考えかたです。

 これども、いままでの仕事はたしかに苦しかった、いままでのひととは性格が合わなかった、でもそれは「じつは」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながっている、だから、過去と切れるのはむしろ人生を続けるためなんだ、と考えたほうが前向きになれると思います。それが訂正の考えかたです。

 いまはそんな訂正する力をネガティブな方向で使っているひとが多い。「じつはずっと騙されていた」「じつはずっと不幸だった」「じつはずっと被害者だった」という「発見」はネットに溢れています。

 しかし、同じ力はポジティブにも使えるはずです。訂正する力を人生に応用する方法については、あらためで第3章で話します。

リベラル派は新しい歴史を語るべきだ

「じつは・・・だった」の発想は共同体の物語にも応用できます。

 いま日本は危機を迎えています。急速に進む少子化、深刻な国際情勢、経済的な凋落、低迷するジェンダー指数やエネルギー問題、頭の痛いことが山積みです。

 そこでどう舵を切るか。過去はまちがっていた、昭和の日本とは手を切るというのもひとつの方法です。多くのひと、とくにリベラル派はそういうリセットを望んでいるように見えます。

 けれども、そこでも訂正の考えかたを取ったほうがいいのではないでしょうか。具体的には、今後の日本を見据えたうえで、未来とつながるようなかたちで「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくるべきだということです。

 これは歴史修正主義を推進しろということではありません。歴史とは、過去の事実を組みあわせ、物語になってはじめて成立するものです。エビデンスに反しなくても、複数の物語がありえます。

 そのような作業が必要なのは、じつはいまは保守派よりもリベラル派のほうです。保守派はもともと物語をもっている。リベラル派は独自の歴史観に乏しい。

 たとえばリベラル派には、自民党の支持母体ということもあり、神道を警戒するひとが多くいます。たしかに戦前の国家神道には大きな問題があった。しかし、神道そのものについて言えば、これは日本の土着宗教、というよりも文化習慣と不可分なものであって、その価値を否定して政治的な影響力をもつのは難しい。それならば逆に、「じつは神道にはこのような歴史がある、それは保守派が想定するよりもはるかにリベラルで、私たちの未来に続いている」ぐらいの物語をつくってみたらいいのではないか。

 日本のリベラル派は戦後80年弱の歴史しか参照できず、その点でたいへん弱い。アメリカだと、共和党も民主党も独立宣言やゲティスバーグ演説に戻る。左右問わず国家の歴史が利用可能なリソースになります。

 日本でも同じように歴史に接するべきです。左右ともに歴史を参照して、はじめてバランスが取れる。別に天照大神や神武天皇に溯れとは言いません。それでもいろいろな歴史が語れると思います。

2024年3月5日火曜日

20240305 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.66‐69より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.66‐69より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

言語だって、二十世紀になってから、ずいぶん意識的に考えられるようになったわけだろう。言語に対する、ある種の不信といってもいいかな。

 そこできみに聞きたいのだけど、どうだろうね、純粋に意味というものを媒介にして、言語を普遍化する場合、それは意味の普遍性に対する信頼だね、ちょうど数字の記号みたいに、記号に対応する内容は、一応客観的な普遍性をもっている。もう一つ、言語はさまざまなイメージを誘発する。同時に一つのイメージが、さまざまな言語を必要とする。しかし、その間の操作さえ適切であれば、その言語が、ある普遍的イメージを誘発し得るという信念がありうる。第三は、言語自体に対する信頼だ。意味やイメージは疑わしいものだが、言語そのものを、それ自体として信じる立場。言語に対する信頼にも、こんなふうに、いろんな立場や見解があるわけだな。これも結局、二十世紀になって、言語に対する総体的な信頼が失われたために、そんなふうに分析的になっちゃったわけだが、どうだろうね、われわれとしては、今後の文学上の課題として、いったいどういう立場を選ぶべきなのか・・・。

三島 文明社会のなかのセックスの映像は言語で媒介されるのだから、言語はばい菌みたいなものだからな(笑)。

安部 それはそうさ。言語を媒介しなければ、なんだって無害なものさ。

三島 有害じゃない。言語というのは非常に猥雑だからな。

安部 しかし、なにも疑わないで言語を使っている文学が、依然としてわれわれの周辺には多いのだよ。

三島 それはもうどんな時代でも、きっとあったのだろうと思うよ。いまほどではないが。

安部 でも、言葉に対して、一見いかにも厳しそうなことを言う人がいるね。日本語の美しさとかなんとか・・・。

三島 おれもよく言うのだよ(笑)。

安部 きみも言う。おれはあまりいい傾向だとは思わないけれどね(笑)。だいたい、そういうことを言う人が、本当に言葉に疑いを持ってみたことがあるのかどうか。その疑わしさを前提にしないで、厳しさだけを言ったところで、それはただ規範を外に求めるだけだろう。そういう疑わしさも持たない前時代的な文学が、無神経に文学として通用しているとことは・・・。

三島 きみのを聞いていると、つまり日本のくだらん小説を頭のどこかにおいてる・・?

安部 うん、大多数の小説の普遍的状況だな。

三島 そうか。

安部 それはおく必要ないか。

三島 おく必要はないのではないか。おれはきみの話を聞いていてね、きみが三つ出したから、その三つの類型について一人一人具体的にきみのあれを聞きたいな。その一つにはこういう作家がいる。第二にはこういう作家がいる。日本人でも西洋人でもいいけれども。

安部 類型は図式だから、それほどすっきり現実に適用するわけにはいかないな。しかし、アンチ・ロマンの出現なんかは、やはり意味とイメージと言語の関係の再検討だろうし・・。やはり言語の疑わしさというものを、これからの文学を考える場合には、考えざるをえないのではないか・・。

三島 なるほど。それでね、純粋言語という問題が出てくるけれども、いま言語から夾雑物を取り除いて、そうして言語からコンベンショナルな観念をみな取り除いて、言語が成り立つかどうかということは、シュールレアリストがやったことだよね。それから十九世紀にそういう試みはたいていされていったのだけれども、絵なら絵というものが、絵の言語を、どうしても絵だけしか通じない言語をもちたいというのが、印象主義の芸術だと思うのだよ。そういう傾向はどこから出てきたかといえば、ロマンティックが何もかもごちゃまぜにしちゃった。これではいけないというので、みながそれぞれ考え出したのが、それからあとの傾向だと思う。二十世紀にきたら、そういう純粋言語に関する実験というものは、少し古くなっていると思うのだ。