2020年1月20日月曜日

20200120 昨日の続き、久しぶりの対話形式

A「最近また歴史についてのブログ記事を書いているどうですね。」

B「ええ、ここ最近何となく記事を書いていましたら、自然とそちらの方向に行くようになりました。これは正直なところ書いている自分でも、多少不思議に思うところです(笑)。」

A「うん、何かしら書いているうちに導かれるようなことは、ごく普通にあると思いますので、それはそれで良いのではないでしょうか? また、その書かれている内容についても、そこで扱っていた、馬の冑ですか?について、私はあまり知りませんが、その背景にある云わんとすることは、概ね同感できますね。」

B「はあ、そうですか!そう仰って頂けるとありがたいです。また、さらに言わせて頂きますと、博物館あるいは、そうした歴史に属するモノについてを扱った写真集のような著作の意味合い、価値といったものは、そういったところにあるのではないかと思います・・。

A「うん、博物館で古代に作られたものなどを見ますと、私は少し放心したような状態になることがあるのですが、おそらく、この放心に近い状態において、私の精神は、現在を生きている自分と、その目の前に置かれているものとの間にある遠大な時間を超えようと、あるいはそのものと繋がろうとしているのではないかと思うのです・・。無論、こうした試みは簡単に達成出来るわけではありませんが、それでも、いくらか書籍を読んで調べたりしていますと、よく分かりませんが、何かが繋がったと感じることも時々はあるのです。そして、歴史を学ぶということは、この決して多くはない実感を得るために行っているとも云えるのかもしれません・・(苦笑)。」

B「ああ、それは私も同感です。銅鐸などを見ていますと、何故この時代の人々はこうしたデザインにカミのようなものを見出したのだろうか?などと漠然と思い。また他方で、それを作成した鋳造技術について「これが出来るまでに何回失敗したのだろうか・・?」などと、まあ少し邪な考えが湧いてくることがありますが、そうしたことを、関連する書籍なども読みつつ繰り返し行っていますと、ある時、その銅鐸のカタチや紋様から現在の我々が持つ感覚とも繋がる「何か」が不図脳裏によぎることがあるのです・・。そして、さきほどAさんが仰ったことは、おそらく、私にとっては、こうした現象が相当するのではないかと思われるのです・・。」

A「・・なるほど、それはたしかに全く違う感覚であるとは云えません・・。あるいはかなり似たような感覚であるのかもしれません・・。また、当然ではあると思いますが、それは継続的なインプット、刺激によってはじめて生じるということが、とても重要であるように思いますね・・。そしてまた、おそらく、何であっても、勉強や研究というものは、こうした背景の地均し、あるいは耕すという意味があるからこそ、重要であるのではないかと思うのですが、これは今後、人工知能が発達してきますと、一体どのようになっていくのでしょうかね・・(笑)。」


2020年1月19日日曜日

20200119 昨日の続き、歴史の理解・認識について

さて、昨日投稿分の記事にて「歴史の理解・認識」について書きました。その主旨は、歴史など手に触れたり、見ることが出来ない、所謂「抽象的」なものに対しては、それについて書かれたさまざまな著作を読み続け、油絵の重ね塗りのようにして、その様相を理解・認識していくといったものでしたが、それと同時に、その歴史と同時代に作成されたさまざまな物を通じた理解・認識もまた、重要であると云えます。

そして、それら双方による理解・認識を通して、はじめて明瞭・クリアな歴史像を得ることが出来るように思われます・・。たとえば、具体的なハナシとしては、和歌山県和歌山市の紀ノ川北岸に立地する大谷古墳から、我が国では出土が珍しい戦闘時の馬に装着する「馬冑」というものが出土しています。この「馬冑」は、古来から馬を用いる文化を持っていた北東アジアを淵源とするものであり、中国北部や朝鮮半島の古墳墓からも出土、さらに墳墓内壁画での描写、副葬品陶俑での表現などが見受けられます。

我が国における「馬冑」の出土は、さきの和歌山県、その他は福岡県、埼玉県の古墳からの3例のみであり、また、それらの時代はいずれも5世紀代とされています。また同時に、この時代は、記紀が伝えるように朝鮮半島内部での国々の争いに、ヤマト朝廷が派兵していた時期でもあり、そこから、おそらく上記3古墳の埋葬者は、この朝鮮半島への派兵に強く関与していたと考えるのが妥当と云えます。

つまり彼等は、ヤマト朝廷の朝鮮半島派兵に従って渡海し、現地にて「馬冑」を入手したのではないかということです。とりわけ、さきの大谷古墳に関しては、5世紀後半期に在地豪族である紀氏に属する紀小弓また、その子である紀大磐が朝鮮半島での軍事活動に従事したという記録があることから、その信憑性は高いと云え、あるいは大谷古墳に前記二者(紀小弓・大磐)のいずれかが埋葬されていなくとも、同時期に朝鮮半島派兵に従った紀氏に連なる誰かが埋葬されているとも考え得ることから、さきの「馬冑」の出土と、その背景にある記録されている歴史像は、整合性を持ち結節することが出来ると云えます。

そして、そのようにして抽象的な歴史像と同時代における作成物を重ね合わせますと、そこには、単に抽象的とは云いきれない、具体的なイメージを伴った歴史像が形成され得るのではないでしょうか。また、こうしたことは、歴史を扱ったマンガ・映画などにおいてはその評価をも左右する極めて重要な要素であると云えます。とはいえ、欧米で製作された歴史を題材とした映画と、我が国のそれを比較しますと、我が国の場合、製作された時代が現在に近づくにつれ、その描写が「必ずしも妥当とは云えない」といった作品が多くなっているという印象を受けます。あるいは端的に、我が国の歴史を題材とした映画作品は、全体的に過去と比べ、背景となる歴史への考証が必ずしも適切に為されていないといった感じを受けます。

この意見には、おそらく異論を持たれる方々も少なからずいらっしゃるとは思いますが、それでも、いくらか、そうした作品を読み、観てきた私からしますと、どうしても、そのような印象を受けるのです・・。さて、皆様、こうしたことについて、どのようにお考えになるでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。



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20200118 最近書店に行き思ったこと、歴史の理解・認識について

所用のため、今年に入り既に何度か首都圏を訪問していますが、その度に時間を見つけ大型書店に足を運んでいます。こうした書店に行き、多くの書籍が並んでいる書棚を徘徊し、背表紙や表紙を眺めていますと、さまざまな記憶が惹起され、そしてまた同時に「自分はこれら書籍に書かれている殆どのことを知らない・・。」といった挫折感あるいは圧迫感のようなものをも感じさせます。「書店に行くとお腹が痛くなる」といった割合よく聞く現象は、あるいはこうしたところにも原因があるように思われます・・(笑)。

さて、とはいうものの、書店に行く度に、こうした挫折感・圧迫感を軽減するため、興味を持った書籍を購入していますと、さまざまな面で大変になりますので、昨今は自分なりに選んで購入しているつもりではありますが、それでもやはり徐々に増える一方であることから今後、近いうちに機会を見つけて書籍の断捨離・整理をした方が良いのかもしれません・・(苦笑)。

また、先日来から読み進めている岡議武著「転換期の大正」はさらに頁が進み、300頁少し手前まで読み進みました。ここに記されている時代は、1918年に第一次世界大戦が休戦にて終わり、パリ講和会議ワシントン海軍軍縮会議の開催となり、国内では第一次世界大戦の極東地域における事象と云えるシベリア出兵米騒動寺内正毅内閣の総辞職、尼港事件、(立憲)政友会の原敬を首班とする内閣の成立そして、その暗殺、他方で、元老・藩閥など維新エスタブリッシュメント等による影響力の低下と、時代潮流が大きく変化し、また、その意味においてこの大正期は、表題の通り、明治以降、近現代日本の転換期あったと云えます・・。

これまで当著作を読むことにより、また少し我が国の近現代史についての理解・認識が深まったように思われ、また、同時にそれは、これまでに読んだ北杜夫著「楡家の人びと」前半部、そして石光真清著・石光真人編「石光真清の手記・誰のために」とも時代が被ることから、今後、これら著作再読の際は、以前よりもいくらか深く読むことが出来るのではないかと思われました。

そして、通常、目に見えるカタチでの表現を採らない歴史への理解・認識といったものは、おそらく、こうした比較的長い期間をかけた反復的な活動を通じ、油絵の重ね塗りのようにして、自分なりの、その時代に対する理解・認識のカタチといったものが形成され、そして、深化していくのではないかと思われます。

しかし、その一方で、歴史認識においては、さきに述べた方法と同程度に重要であり、そしてまた、その方法との補完関係にあると云える方法が、歴史上に登場するさまざまな具体的存在のカタチ・機能そしてその背景にある意味を理解することであると考えます。

おそらく、前者のいわゆる文字によって著された歴史と、後者の具体的な存在によって表される歴史の双方が関連し合い、まさしく適切に配されることにより、ピントが合い、明瞭な歴史像に対しての視野を得ることが出来るのではないかと思われます・・。

そういえば、先日立ち読みした、ユヴァル・ノア・ハラリの新著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」はかなり興味深く感じられ、現在読み進めている著作を読了しましましたら、次はこれを読んでみようと考えています・・(笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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2020年1月12日日曜日

20200112 書かれた文章の位相について思ったこと

かれこれ約4年半にわたってブログ記事の作成を行っています。その間、毎日1記事の投稿を行いますと、1643記事ほどになりますが、現在までの自身の投稿記事数は1229であり、そこから大体10日のうち7日程度の割合で記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、思いのほか多く作成・投稿してきたとも思われますが、今後、6月に迎える5年目までには、もう少しその率を上げていきたいとも考えています。

そして、つい先ほどまで、しばらくの間、これまで作成してきたブログ記事を眺めていましたが、自身のブログは、読んだ書籍・観た映画などについて扱った記事が相対的に多く、それに対して日常生活について扱った記事は少ないと感じられました。さらに、ここからは私見になりますが、自身の場合、読書・映画などを主たる題材としてきたからこそ、これまでの間、記事作成を継続することが出来たのではないかとも思われるのです。

これは多少不思議にも思われることであるかもしれません。何故ならば、日常生活を題材とした方が、より、抽象的もしくは観念的と云える書籍・映画などを題材とした記事作成よりも容易に行うことが出来ると(普通は)考えられるからです。

このことは、ブログ記事作成当初、自分なりに悩んだところであり、現在、考えてみますと、初期に多く作成した対話形式の記事は、いわば、その悩みや迷いが結晶化したものであるとも云えるのです・・(苦笑)。また、これは今もって言語にて精確に表現することに対しての困難さを覚えますが、則物的・具体的な文体にて日常の出来事を述べることと、そうした即物的な世界観からいくらか離れ、接した書籍・映画などを題材とした抽象的・観念的とも評し得る内容を述べることの間には、それぞれで著された文章全体の位相が異なるように思われるのです・・。そして、過去の自身は「とりあえず抽象的・観念的なことを自分なりに精確に言語化してみることが自身にとっては重要ではなかろうか・・。」と考え、現在なおも右往左往している状態と云えます・・(苦笑)。

そして、この即物的・具体的そして抽象的・観念的な文章、いや、その文章のさらに基層にある認識・想念の明瞭化そして活性化こそ、極めて重要であり、また、これはおそらく我々の身体感覚と強く関連しているのではないかと思われるのです・・。

しかし他方で、上記に述べたような内容を、当ブログ開設以前の時期に、自身が文章として述べることが可能であったかと考えてみますと、おそらく、それは困難であったと云えます。当時の方が体力は明らかに優れていたはずであるのに・・。

そのように考えてみますと、身体感覚と体力とは、必ずしも随伴、あるいは同一視されるものではなく、あるいは、旺盛な体力は、一面においてセンサーとしての身体感覚をいくらか鈍麻させるような性質をも持っているのかもしれません・・。

そして、年齢と共に体力がいくらか衰えてきますと、はじめて、それまで無意識に近い領域にて考えていた、認識していたことを文章として言語化することが可能になる素地が生成され、そこから、意識・無意識による何らかの修練(多分、文章の作成や更なる読書であるように思われます。)を経て、抽象的・観念的にして、いくらかの人々が読んで納得・理解して頂けるような文章を作成することが出来るのではないかと思われるのです。

とはいえ、無論、現在の自身がそれらが出来ているとは考えていませんが、また、畢竟それも一つのルート(理解可能な抽象的・観念的文章作成のための)ではあるのかもしれませんが、それを文章化しておくことも、また一興であるとも思われますので、ここに記しておきます・・(笑)。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
















2020年1月3日金曜日

20200103 2020年はじめての投稿・年末年始の読書から

今回が2020年に入って初めての記事投稿になります。昨年末は30日の投稿が最後となり、そこから年末年始の期間は、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そしてまた、今年2020年の6月22日まで記事作成を続けますと、5年間ブログ運営を行ってきたことになりますので、そこまでは継続してみたいと考えています。とはいえ、考えてみますと、4年以上にわたり公表する記事・文章の作成を継続出来たことは、それらの中のいくらかが、書籍からの抜粋引用であっても、以前の自身では為し得なかったことであると云えますので、年初めの現在のような時期に振り返ってみますと、多少、感慨深いものを感じさせられます。そして、大分前に読んだサン・テグジュペリによる「星の王子さま」内の、星の王子さまが自分の育てたバラについての意見が想起せられます・・(笑)。

さて、先日来から読み進めていました岡 義武著「明治政治史」下巻は、一昨日の元日に読了し、その後、続編とも云える同著者による「転換期の大正」を読み始めました。このいわば近現代日本前期の歴史については、これまで戦争・争乱などを通じての認識が主たるものでしたが、今回の読書によって多少視野が広がったように思われます。あるいは現在において問題とされている、さまざまな事象に繋がるものも少なからずあるように思われました。その意味において当著作は名著であり、また当著作を読むに至る原因となった陸奥 宗光著「蹇蹇録」もやはり優れた著作と云えるのではないかと考えます。

ともあれ、今年の読書は「明治政治史」下巻、そして「転換期の大正」からはじまった次第となりましたが、同時に少し前から気になっていましたユヴァル・ノア・ハラリの新著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」とジャレド・ダイアモンドによる「危機と人類」上下巻も読み進めていきたいと考えています・・。

他方で、ここ最近気になった著作は、以前にも読んだことがあるジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分」です。この著作では経済活動を含む我々人間の諸活動について、その起源から考察し、特に合理化された思考を持つ現代人からは忌諱されがちな「消費・蕩尽」の意味を重要視しているところに特徴があると云えます。

当著作は修士院生当時、地域にて古代から続く雨乞い祭祀の背景、あるいはその始源にある考えを理解するため、ジェームズ・フレイザー著「金枝篇」などと同時期に読んだ記憶がありますが、現在、我が国近現代史について扱った著作を読み進めているのと同時期に当著作をあらためて読んでみたいと思うところには、何らかの理由があるのだろうか・・。

また、こうした思いの惹起には、最近の読み進めている(た)著作内に、さきのジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分」ついての記述があるからではないのですが、こうした一見したところ無関係にも思われるいくつかの著作について、何らかの関係性、そして、その理由を見つけようとするところにも、我々の持つ創造性といったものが、少なからず関与しているようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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2019年12月31日火曜日

20191230 最近の読書から思ったこと「共通化」出来るものについて

直近の記事投稿から、しばらく日数が経ち、新たな記事を作成しようと、ここ数日間考えていましたが、年末の帰省などの慌ただしさから、記事の更新を行うことが出来ていませんでした・・(苦笑)。

今回の帰省は夜行バスを利用させて頂き、その車中においては、以前に購入した岩波書店刊 加藤 周一著「羊の歌」を主に読んでいました。この著作は以前、鹿児島在住時に既に読んでいましたが、今回の読書においてはまた、新たに考えさせられる記述にいくつか出会いました。

くわえて、先日来から読み進めている岩波書店刊 岡 義武著「明治政治史」下巻は、余すところ百頁以下となり、年内での読了は叶わないかもしれませんが、今回の帰省荷物の比較的取り出し易いところに収納・持参し、当記事の作成・投稿後、さらに読み進めていきたいと考えています。

また、こうした経緯から想像されるように、今回の帰省においても、移動途中にある大型書店に足を運び、しばし書棚を徘徊し、立ち読みをしていましたが、面白いことに、そうした中で度々、面白い著作を見つけたり、あるいは、新たな考え・発想といったものが惹起されるといったことがありました。

それらの中で、ブログ記事としていくらか面白そうであると思われたことは、①:これまでにも当ブログにて扱ったジョゼフ・コンラッド著「闇の奥」の一つテーマであると云える「居住する地域・場所の変化から生じる同一個人が持つ考え・思想の(無自覚的なそして否応のない)変化」と、②:これまた当ブログにて扱った、五世紀後半のヤマト朝廷の朝鮮半島における軍事行動に従事し、さらに一時は朝廷の派遣軍指揮官の任から逸脱し、自ら三韓の王となることをも欲したとされる紀伊国豪族である紀 大磐と、③:そして幕末・明治期に、さまざまな立場にて軍事行動・謀略等の実施にあたり、辛亥革命時には清国に渡り、当地にて客死を遂げた紀州藩を出自とする岡本 柳之助が持つ、微妙とも云える類似性です・・。

これら①~③の間に通底する「何か」があるのか、科学的に実証することは困難であるとは思われます。しかしながら、②および③については、あくまでも私見による歴史的見地となりますが、千年以上の時間的隔たりがありながらも、そこには、地域の方々が共通して持つ、何らかの「思想の基ともなる内面における(精神的)構え(ハビトゥス)」といったものがあるように思われるのです・・。

あるいはそれは、同地域に出自を持つ幕末期の志士・明治期の閣僚であった陸奥 宗光にも共通するものであるとも思われます。

とはいえ、この「何か」に対して言語化を試みることは、それだけで何と云いますか、誤解とも評し得る「安易な理解」といったものが生じる可能性もあると思われることから、あるいは差し控えた方が良いのかもしれませんが、他方で、何かしらの仮設を組立てる際の基礎となるような概念を言語化することも同時に重要であると思われることから、ここにその「何か」の言語にて表しますと、それは「越境・逸脱・反抗」といった要素に、ある程度集約出来るのではないかと思われます・・。

こうした、いくつかの要素に共通するものを集約化・抽象化することは、あまり意識して行うことはありませんが、書籍をいくらか読み、そしてしばらく期間を置きますと、それらが精神にて血肉化(インカーネーション)され、そこから、こうした発想が生ずるのではないかと思われます・・。

そして、こうした行為(血肉化(インカーネーション))こそが、実のところ極めて重要であり、さらに、そこを基点として、さらなる「越境・逸脱・反抗」を自然に、能動的に行う過程にこそ、おそらく、(現在の)人工知能では為し得ない、進化・発展の予知出来ない仕組みといったものがあるようにも思われるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


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2019年12月22日日曜日

岩波書店刊 丸山眞男著 古矢旬編「 超国家主義の論理と心理 他八篇」 pp.121‐124より

岩波書店刊
超国家主義の論理と心理 他八篇
「日本ファシズムの思想と運動」pp.121‐124より抜粋引用「日本の右翼には最も進んだナチス型から、ほとんど純封建的な。遠く玄洋社につらなる浪人型まで実に系譜が雑駁です。そこには「近代」の洗礼を受けたものが殆ど見当たらない。ファッショ的というよりも幕末浪人類型が支配的であります。

フリーダ・アトリーの「日本の粘土の足」(Japan's feet of clay)という本の中に、右翼指導者を「封建時代の浪人とシカゴのギャングのCrossである」といっているのは至言です。例えば右翼運動の大御所が頭山満というような人物であったこと、そこにも右翼運動の特質が象徴されています。ヒットラーやムッソリーニの生活様式と頭山満の生活様式を比べると、前者に見られるような生活の計画性は、頭山満には恐らくないだろうと思います。

例えばここに「頭山満翁の真面目」という本があります。その中にいろいろ頭山さんの談話が書いてありますが、一つ例を挙げて見ると、若い頃のことでこう書いてある。
「あれは血気盛りの二十六七の頃ぢゃ。東京へ出て来て五六人の仲間と一戸を借りて居った。傘も下駄も揃って居るのは初めての中で、やがて何もなくなる。蒲団もなくなる。併し裸生活は俺れ位のもので他の連中は裸では通せんであった。弁当を取って食ふ。金は払はん。そこで弁当屋の女が催促に来る。俺れは素裸で押入れの中から出るものぢやから、女中、あっと魂消て退却ぢゃ。俺れは食はんでも何ともなかったのぢゃ」。
 借りた金を返さないし、こういう手段で撃退することになにか誇りを感じている。この手でやはり高利貸も撃退した話もしております。どう見たって「近代的人間類型」には属さない。ここには近代的合理性は一片もない。

右翼的人間は頭山だけではなく、こういった共通性が見られるのであります。又右翼団体の内部構成を見ても多分に親分子分的組織をもっている。前に申しましたようにあれほど右翼に有利な情勢に恵まれながら右翼運動の統一戦線は一度もなかった。何度も統一が唱えられるのだけれども、一旦は結びついてもすぐに分裂して、互に口ぎたなく罵り合う。親分中心の結合であるからどうしても規模が小さいし、めいめい自分の神様を押し立てて拮抗する。

同じことは終戦後に無数というほど政党が乱立した事情にも現れております。スモール・マスターを中心にして沢山のグループが出来てくる。なかにはていのよい暴力団もある。ナチスでも突撃隊などは多分に暴力的色彩がみられますが、それにはやはり組織と訓練があり、日本のように離合集散はないのでああります。こういう前近代性は右翼団体だけでなく、これと結んで重要な役割を演じた革新将校についてもいえます。

彼等の策謀の根拠地は殆どつねに待合や料理屋でした。彼らがそこで酒杯をかたむけつつ悲憤慷慨するとき、彼らの胸奥には「「酔うては伏す美人の膝、さめては握る天下の権」とうたった幕末志士の映像がひそかに懐かれていたにちがいありません。要するに日本におけるブルジョア民主主義革命の欠如が、ファシズム運動におけるこういった性格を規定しているといえるでしょう。そうして以上のことを別の面からいうならば、日本の「政党政治」時代とファシズム時代との著しい連続性として表現されます。上に云ったような右翼の指導者や組織に見られる前近代性は、程度の差こそあれ日本の既成政党にひとしく見られる特質とも云えます。

日本の政党が民主主義のチャンピオンではなくて、早くから絶対主義体制と妥協し吻合し、「外見的立憲制」に甘んずる存在であったればこそ、日本では下からのファシズム革命を要せずして、明治以来の絶対主義的=寡頭的体制がそのままファシズム体制へと移行しえたのであります。ナチスは天下をとると社会主義政党はもとより、中央党その他一切の既成議会勢力を一掃した。ところが日本では、これまでヘゲモニーをとっていた勢力が一掃されて新しい勢力が登場したのではなくて、旧来の勢力は大体ずるずるべったりに、ファシズム体制の中に吸収されていった。前に述べたように既成政党は殆ど大部分翼賛政治会の中に吸収された。これが戦争終了後大量的な追放者を既成政党や官僚などの古い政治力のなかから出すことになった原因であります。どこからファッショ時代になったかはっきりいえない。一歩一歩漸進的にファシズム体制が明治憲法の定めた国家体制の枠の内で完成して行った。日本の既成政党はファッショ化の動向と徹底的に戦う気力も意志もなく。むしろある場合には有力に、ファシズムを推進する役割を果たしていたのであります。」
ISBN-10: 4003810430
ISBN-13: 978-4003810439