2016年10月8日土曜日

20161008 筑摩書房刊 山田風太郎著「戦中派虫けら日記」pp.153ー156より抜粋引用

昭和十八年二月十二日の日記
『機械というものはふしぎである。
およそ人間の生んだ偉大なものの極致は機械であろう。
機械によって人は火を駆使し、水を使用し、空を飛び、地を走る。
文明とは機械化のことだといってさしつかえないほどである。
しかし人は機械によって幸福を得たか。火薬は数百人の生命を奪う。
空を飛ぶのは小鳥の快を味わわんがためではなく爆弾を以て都会を粉砕するためであり、水を潜るのは魚の神秘を探らんがためではなく魚雷を以て船を沈めるためではないか。
人間は自分で機械を生み、心血をそそいでその発達をはかり、その結果機械に苦悶している。
今の世界を見るのに、どの民族も、或いは自ら進んで、或いは国家の強権によって自由を捨て、人間を殺戮する船や航空機や大砲の製造に狂気のごとく使役されている。機械というものの典型はあのギロチンであるという印象を深めざるを得ない。
それは機械の罪ではない。戦争の罪である。機械は平和的に利用すべきものであり、それによる大量生産がなければ、人類はどうして文明生活を営むことができようかという人があるかも知れない。
しかし、平和時代といえども労働者は機械の蹂躙に喘ぎ苦しむものである。
大量生産のない時代にも人類は生存し得たのである。
昔は現代より幸福であったとはいわない。
しかし、昔は現代より幸福であったということもできない。
機械は人間の生きんがための必要から生まれたものではなく、単なる脳髄の遊戯的作用によって生じたのがその初めであると自分は断言する。
人間は機械を使用せず、機械に使用されるという自分の印象は、現在自分が働いている軍需工場の日々から、理屈を超えて感得できるものである。
轟轟と回転する車輪、奔流する巨大なベルト、噴きあがり流れる重油、塵埃と煤煙の黒く渦巻く工場の底に、たがいに一語も交わさず黙々と動き続ける工員の群れ。-機械はいわゆる機械的な動きを繰り返す。
空は晴れても鳥は鳴いても、機械は傲然索然冷然としておのれの機能をつくす。
労働者はその前に首をたれて、時たま油を与え、材料たる金属を挿入し、製品を運搬するに過ぎない。-これを以て人間は機械を使用するというのか?
この人々の姿を産業戦士の崇高なものというのか?
或いはそうかもしれない。
しかし自分の、巨大な機械に対する恐怖と小さな人間に対する同情を如何せん。
人間は、自然と芸術の中に呼吸しているのが本来の姿であるとはいわない。
機械に全身の愛情を覚えている人も多いであろう。
しかし機械と人間との間の恐るべき単調な日々は、この二者がとうてい花と人間との間に見るような柔らかで平和な光景とは映らないのである。
自分に関する限り、もし自分が一生、あの人々のように機械と相対しなければならぬ運命となったら、確実に発狂せざるを得ないであろう。

〇機械の前に甘んじて生活を捧げている人々に、一種異様の不思議の念を抱く自分は、神を信じる人々に対しても、一種異様の不思議の念を抱かないわけにはいかない。
神は果たしてあるか?
ない、と高言して心底何やら不安をおぼえるのは、自分の人間としての本性のゆえか、或いは現在に至るまでの教育のせいか知らない。しかし、ほんとうに自分の心を偽らないならば、自分の心は無神論に傾くであろう。
むろん、深夜蒼茫の銀河を仰ぐとき、過去未来、永劫に流れる時間を思うとき、またいずこよりか生れて来て、いずこへか去る人間を眺めるとき、何やら神々しきものの手を感じる。
しかしこんな大きな思想は、もとより現在の胸中に絶えず蹲っているわけにはゆかない。
自分は日常生活に於いて殆ど無信仰であると告白する。
まして世間のいわゆる怪奇な「神」に於いておやである。
人間の姿に象徴された「神」に於いておやである。
自分の周囲を見ると老若男女ーとくに若い人々は、たいてい無信仰である。
しかもこの無信仰者たちが死期迫る落日の年齢に達すると、しきりにお経を唱え、鐘をたたく愚は滑稽千万である。
それもまあ一つの善行なのだからという寛容を、自分の狭量は認めることはできない。
神を信じるならば、彼らの日常はことごとく神の影の下になければならないのに、彼らの日常はほとんど嗤うべき我利我利の狂奔である。
暮色仄かに漂い来たる一瞬時に於いて、口をぬぐって神や仏に対するだけである。
人間が神を信じるのは、俗物に関するかぎり、彼ら自身も意識しないいい気な欲望の一種である。
そして人類の九分九厘までは俗物なのである。』


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20161007 岩波文庫刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.199ー201より抜粋引用

『維新の風雲に乗じて功を成した薩摩派の顕官を父とする後嗣の宮内官は、生みの母の前身を軽蔑して、息子らしい情愛はみじんも示さなかった。

丹羽家においては、麻の葉模様がタブウであった。
着物でも、器具でも、手拭のようなものに至るまで、麻の葉模様をつけたものは厳禁された。
正夫人に直らないまでの母が、薄紫の麻の葉絞りの半襟を好んでかけていたのが、当主の宮内官に屈辱的な思いでをとめているためである。

祖母自らの極端なお上品ぶりも、似たような細心な警戒から来ていた。そうして美しさと悧巧さで、まことに名門の出にひけを取らぬ自然な品格を拵えあげたとともに、五つで母を失った時からその手に引きとった孫娘をも、自分の教育法で訓練した。

その意味から三保子には祖母が母親であり、艶麗さもそっくり受けついだ。彼女は祖母と別邸に住まった。

吉良は勉強を見に来てくれた、同じさつまっぽうながら、祖父が十年戦争に西郷方について以来の不運が祟っている、遠縁の貧しい大学生であった。

祖母が彼に優しかったのは、本邸の冷淡にそれとも凛々しく頼もしげな青年が自分でも気に入っていたのか、両方であったに違ない。

どちらから引いたとも、引かれたともわからず。相寄る若いこころに水を注そうとしなかったのみか、夏休には、箱根の別邸に吉良を内緒で呼んでくれたりもした。

祖母の好意のみが恋人たちには頼みの綱であった。父や継母の反対はわかりきっていたが、祖母だけはきっと二人の味方になってくれるであろう。

しかし阿藤家との縁談に際して、もっとも無慈悲に振舞ったのは祖母であった。

色恋はべつとして、結婚となれば目標を変えなければならいのを、誰よりも厳しく判断したのである。

それは自分が根引きされた時からの信条であり、今日までの生涯で実証されたことであり、すべての女が、愛する男とのみ眠るものではないのを知っているからであり、それ故にこそ死にたがって泣く孫娘に対して、幼い彼女が、なにかお腹にわるい食べものでの欲しがってむずかるのを、宥めすかす調子であの説得をしたのである。

決して染めないで、毎朝、卵の白味で輝くばかりに洗い手入れされた切り下げの白髪で、かえって清麗に匂やかな祖母の顔が、その瞬間、なにか悪鬼じみた気味わるさで打ち守られた。

しかし三保子の怖ろしいのは、祖母の囁いたものが毒草のこぼれ種子のように、また刺青のように心とからだの二つながらに浸みつき、根をおろしたのに気がついたことであった、その罪の深さ、汚らしさが、はじめは彼女を身震いさせた。
どうかしてその呪文から逃げだそうとすればするほど、執拗に枕につけた耳もとに甦り、阿片患者めいた幻想に誘いこまれた。

卒業するとセレベスのゴム会社に行ったとかの噂もたしかでない吉良が、夜とともに戻って来た。

暗さはその呼吸と、体臭と、重さを感じさせ、四肢に触れさせ、愛撫を愉しませた。
三保子は彼に甘えた通りに甘えた。
愛しあったものの結婚は遂げられ、二年目には忠文が生まれた。彼が誰の子供であるかは、普通の母親がもつ特権とはまた別な秘密で彼女のみが知っていた。

同時に昼の夫なる眉目秀麗で、愚かで、金持で、それでいて絶えず小遣いの金額で会計主任と喧嘩する、ゴルフと、麻雀と、食べることのほかには考えない男に対しては、ますます従順な、優しい申分のない妻になって行った。」

迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927



野上彌生子

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。