2023年6月1日木曜日

20230601金関丈夫著「日本民族の起源」法政大学出版局刊」pp.189-191より抜粋

法政大学出版局刊 金関丈夫著「日本民族の起源」
pp.189-191より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4588270559
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4588270550

縄文時代の人の骨は、日本全国殆ど変わりがない。永年の間、殆ど変わっていない。背が低く、頭が長く、顔が短くて、マビサシが強く出ている。顔も広く、鼻も広い。熊本県には縄文時代の骨が多数でているが、皆この特徴をもっており、また九州以外の他地方の縄文人とも差はない。

 弥生時代になると、玄海に面した地方(北九州・山口)の弥生文化に属する遺跡から出る骨は、これとちがってくる。まず背が高くなっている。

 縄文時代の男の平均身長は158㎝であるのに、弥生文化に属している北九州・山口の男の平均身長は162~163㎝に近い。頭は短く、顔は長くなり、従って鼻も長く、眼窩も高い。マビサシの発達も弱い。このように縄文人との間にはギャップがある。一方、文化はがらりと変わっていて金属を用い、米を作る農耕文化をもっている。いわば生活革命であります。その文化は大陸の方から渡って来たと考えられる。文化だけが来ることはないので、人が一緒に来たにちがいない。どこから来たかといえば、南朝鮮が先ず考えられる。南朝鮮の古代人と現代人とがあまり変わりないとすれば、現在の南朝鮮人は頭は長くなり、背は高く、顔も長い。弥生人に似ている。時代の異なるものを比較するので、無理ではあるが、弥生文化をもって来た者は、今日の南部の朝鮮半島人の祖先であっただろうと推定できる。金属器を加工し、使用する文化は、中国から朝鮮を経由して来ている。このように骨のみから比較するばかりでなく、技術史の比較でも朝鮮経由大陸伝来のものであろうということは確かであります。

 それでは、この新しい文化とその伝達者は、九州地方ではどのように拡がっていったでしょうか。九州の北の方では福岡県でも山口県の西でも大陸型の骨が出る。佐賀県の背振山の南斜面でも同様な骨が出ます。背振のは弥生中期のカメ棺の人骨ですが、体の長い北九州弥生人と呼ぶことができる骨がでている。ところが同じ九州で、最近、長崎大学の解剖学教室の内藤教授が調べたところによると、長崎半島の先端の深掘の弥生遺跡、五島列島の弥生遺跡、平戸・松浦の遺跡では同じ弥生人でありながら、骨の性質は縄文時代の人骨と変わらない。すなわち、背は低く、顔は短く、頭は長い。眉の出っぱりも強い。弥生時代人であるにかかわらずそのような点で、縄文人とちがわない。これを説明して内藤教授は、北九州では、何か環境の変化があったために長身型が出現したのであり、外から混血の要素が混入したのではないと述べている。新しい文化が、刺戟となって新しい体質を作ったかと想像するもののようであります。

 さて私はさきに北九州にはいった弥生人は背が高いと述べたが、カメ棺を作るには背が高い男でなければ作れない。(縄文時代の土器は女性が作っていた。)しかもカメ棺の作製はただの男ではだめで、よほど背が高い男でなければならない。このことについては、私は昔台湾で、台湾人が大きな壺を作るのを見ましたが、台湾人の男ではできないので、むかしから福建省の漢人を雇っている。これは確かな事実です。ところでカメ棺は従来の縄文時代の人では男であっても作りえない。北九州ではカメ棺が出る所と、背の高い骨が出る所は一致している。それより南には高い骨はでない。背の高い骨が出なかったところの弥生文化では、カメ棺も作りえなかった。深掘、五島の弥生文化では弥生文化は侵入したが、体格は変わらなかった。新しい人種は入らなかった。即ち、これらの地方までは海外からはいった人間が拡がっていないのだ。したがって、北九州で日本人を論ずる場合には、混血児が弥生時代から相当にあったと考えねばらならない。南の方を問題にする場合には、弥生時代の混血は殆どなかったと考えざるをえない。つまり、北九州人で日本人を代表すれば、日本人は混血人だということになり、熊本の山の人で代表すれば、日本人は万世一系の土着縄文人の子孫だということになる。