2021年8月16日月曜日

20210816 「20150722 対話形式の文章について・・」の加筆修正:後篇

 A「ああ、確かにそうした傾向はあるとは思いますが、しかしそれは、多分、近代以降であれば、どこでも同じようなことを行っているのではないでしょうか?それと、そうした認識が出来るようになった背景にはネット・インフラの発展があると思います。つまり、それにより一人が瞬時に集めることが可能な情報量が以前と比べて格段に増えたといった事情もあるのではないかと思いますね。」

B「・・ええ、それは確かにあると思います。実際にタブレットPCやスマホなどを持っていますと、とても便利で憶えることが最小限で済みますし、カーナビとしても使うことが出来ますからね。」

A「そうですね。我々の身体と外界に介在させる、そうした道具の進化は、いつのまにか、我々の考えをも変えてしまうのかもしれませんね。・・・そこで思い出したのが養老孟司氏が著作にて述べていたことですが「外界と人間の脳のインターフェイスの技術が発達してくると、今度は、人間の脳の方が退化してくる」ということです。まあ、筋肉を使わないと筋力が低下してくるのと同様の理屈であると思いますが、間違いではないように思われますね。」

B「そうしますと、インターネットが普及する前後にて創作された物語・小説などの背景にある世界観なども変わってしまったのでしょうか?」

A「うーん、最近の小説はあまりよく分かりませんが、おそらく傾向としては細部の描写などの視覚的な部分に関しては、発達しているのかもしれませんが、他方で、時折垣間見える作品全体を包括する作者の世界観のようなものなどは、変わってきているようにも思われますが、こうしたことは時代が変われば当然であるのかもしれませんが・・
それと、ポーランドに出自を持つイギリスの小説家のコンラッドの何れかの著作にある「小説とは筆者の持つ哲学、思想を咀嚼し易くしたものである。」というコトバについて、現在の我が国の小説は、そうした視覚的とも云える描写の方により重点を置き、他方の世界観などの表現については、その度合いが小さくなっているようにも思われます。つまり、小説なども観念的というよりも写実的な方向に進化していると云えるのかもしれません。」

B「ええ、それはよくいえば、角が取れて情景が想起されて読み易い小説が増えていると云えますが、より均質・同質的な社会になっていけば、自然、そのような感じになってゆくのかもしれませんね・・。」

A「ええ、しかし気になるのは、後世にそうした歴史の推移を見た時に、それを進化・退化の何れに判断するのかよくわからないということです・・。司馬遼太郎は我が国の近現代史を書くに際して明治期は概ね良かったが、その後、太平洋戦争に至るあたりまでの昭和初期の日本はどうにもならなかったと述べており、またこれは同時代人の山本七平会田雄次なども似たようなことを述べていますし、あるいは丸山真男竹山道雄などももう少し複雑ではありましたが、似たようなことを述べていました。そして、その伝で行きますと、現在の我が国はこの先、戦争にまでは至らないにしても、色々なものが「何か大きなもの」に回帰的に収斂されていくのではないかといった感じを受けます・・。そして芥川龍之介がその晩年に云った「ぼんやりとした不安」とは、そうしたものではないかとも思われるのです・・。」

B「うーん、それは考えすぎだと思いますけれども、確かに現在の日本社会はどうもおかしいと思うことがありますね・・。しかしそれも自然な時代の流れであり、仕方がないようにも思われます・・・。」

A「はあ、そのようなものでしょうか・・。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。