2017年7月30日日曜日

20170730 7月で最も多く読まれた記事から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】谷川健一著「魔の系譜」より

7月も終わりに近づき、おそらく今月中に書かれた記事の閲覧者数も大きく変動することはないと思われることから、今月内で最も多く読まれた記事を取り上げます。

それは7月13日投稿分の「結社の地域性 自由民権運動および玄洋社から思ったこと」でありその閲覧者数(95)は次点の7月3日投稿分の「昨今の都議選から思ったこと・・『抑圧移譲』」閲覧者数(62)の1.5倍程度を示していました。

しかし、相変わらずのことながら、この7月13日投稿記事の閲覧者数が際立って伸びた理由とはよく分かっておりません・・(苦笑)。

また、この記事を投稿したことによって特に変な出来事が生じることもないことから、まあ、そこまできわどい、キケンな考えは書かれていないのではないかと思われます・・。

くわえて、その書かれている内容とは、思ったところを率直に述べつつも、かつてお世話になった九州に対して礼を失するといったものではないとも思われますので、あるいは、こうしたことが多くの閲覧者数に結び付いた要因であったのかもしれません・・(ちなみに昨日の投稿記事『地域特性≒在地土着女性の性質・・?【巫女】』もまた投稿翌日にしては比較的多くの方々(27)に読んで頂けました。)

何れにしましても、これらを興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、ここまで書いていて、不図思い起こされた書籍の記述がありましたので、以下に抜粋引用します。

講談社刊 谷川健一著 『魔の系譜』pp.185-186より抜粋引用ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

『わたしがここでいいたいことは、ただ一つである。
それは地方には地方を主体とした信仰と伝承の歴史とがあって、それは郷土史家や郷党のせまい視野や独善をはなれてみるとき、いわば地霊の叫びとして私たちに訴えてくるということである。
それは今にはじまったものではない。たとえば九州には磐井の反乱があった。
磐井という大豪族は蝦夷がそうであったように、九州中北部の民衆の代表者であったのだろう。
もとより支配者としての性格はもっていたが、それにとどまらなかった。
原田大六氏が述べているように、官軍が磐井の墓にある石人石馬をさんざんうちこわしたそのたたりとして、「古老伝えていう『上妻(かみつやめ)(上八女)の県に多く篤き疾(やまい)あるは、けだしこれによるか』」という『筑後国風土記』の文章は、この「篤き疾」を「深い恨み」「深い悲しみ」という意味をこめて考える必要があるのであったろう。
「地元側の報告を集めた風土記も所詮官選の記録であるから、逆賊あつかいにしてきた磐井の真実を語ることも載せることもできなかったろう。
しかし民間では真実の悲劇英雄物語が語りつがれていったのであろう。
八女郡地方の住民に岩戸山古墳を媒介として語りつがれた真実は、磐井への同情ではあっても、逆賊としてではなかったろう。」(原田大六『磐井の反乱』)
沖縄の八重山のオヤケ赤蜂は、首里王朝の遠征軍のためにやぶれ殺された。
その碑はいま石垣島の公園に立っている。その碑文を書いたのは同島の喜舎場永珣氏であるが、それによると、オヤケ赤蜂は自由のためにたたかった民権の士となっている。
私はそこに辺境に住む人びとのいつわらぬ心情をみる気がした。
歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていくことを否定する地霊の叫びを聞いた気がしたのである。』

私見ではありますが、こうした記述の意味をより深くから理解するためには、おそらくその地にしばらくの間(数年以上)住んでみる必要があるのではないかと考えます・・。

くわえて、抜粋引用部の『地霊の叫び』を理解していく過程とは、各々微妙に異なるのでしょうが、いずれにしても、数日間の旅行程度では到底理解することが出来るようなものではないと思われるのです・・。

しかしその一方で、我々の生とは有限であり、且つ何所かに定住し生きて行かねばなりませんので『畢竟、そうしたものは一種の道楽のようなものである』と断じることから、中央・地方間の相互理解・意思疎通が上手く行かないのではないかと思われます(これはなかなか奥が深い問題ではないかと思われます・・。)。

さらには、こうした事情とは国内に限らず国際関係においても同様ではあるまいかとも思われますが・・。

また、そうした不可避とも云える事情を視野に置き、思うことは、これまでに何度かブログ記事に書いていることでもありますが、日本近代史上最大の悲劇英雄である西郷隆盛をテレビドラマ化することは、さきの抜粋引用部末尾に書かれていた『歴史が中央と頂点の権力によって偽造されていく』ではあるまいかと危惧されることです・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害など大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早い復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。









20170729 地域特性≒在地土着女性の性質・・?【巫女】

昨日の記事投稿によって1000記事到達までの残りの記事数が299となりました。

また、同時に全体(1000記事)の7割以上に至ったということになりますが、相変わらず実感や達成感らしきものはありません・・(笑)。

おそらく記事作成がほぼ惰性といっても良いほどに習慣化、日常化していることから、そのように感じられる(ない)のではないかと思われますが、これは果たして良いものか、そうでないのかとはイマイチよく分かりません(苦笑)。

くわえて、先日の投稿記事に『700記事到達後しばらく記事作成を休止する』と書いたにもかかわらず、今現在こうして文章を作成していることもまた、同様にイマイチよく分かりません(笑)。

さて、昨日分の投稿記事も投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました。

これは投稿記事と関連付けた動画が功を奏したものであるか分かりませんが、この手法とは、その選択が適切である場合は悪くないのかもしれません・・。

また、この投稿記事内容と多少関連するのではないかと思われますが、これまでに何度か古の『巫女』についての記事を書き、また書籍からの抜粋引用を行ってきましたが、こうした考えとは、西日本に在住する年を重ねる毎に徐々に凝固、結晶化されていき、そして、それを時折お目にかかる主に文系知人の方々にまさに『放談』の如く下に示すような感じで市内喫茶店にて述べていた記憶があります・・(笑)。
(くわえて、この時期はおそらくD2病真っ只中であったと思われます・・(苦笑)。)

A『地域文化とは云いますけれども、その主要な部分を形成そして保持しているのは、我が国の場合、おそらく大体の地域において在地土着の女性たちではないかと思いますね・・。
私は関東の出身ですが、その異郷人から見て、そうした特徴、違いといったものはやはり地域毎にあるのではないかと思います。
その点、個人的な意見ですが九州、鹿児島の地域性即ち、それを維持している女性達とは、特徴的であり、何と云いますか古来よりあまり変わらないある種の『性質』を持っているのではないかと思われますね・・。
そして、その『性質』とは事態、出来事の本質を的確に突いたり、予言的なことを述べ、この地に多い隼人とも称される血気盛んな男どもを従わせるようなものであり、おそらくそれは女王卑弥呼の時代から連綿と続いているのではないかと考えさせられるのです・・。
(倭国大乱末期の卑弥呼の擁立もそうした事情に基づくとされている。)
この地(鹿児島)は、邪馬台国があったとされる西日本あるいは九州島共に、その辺縁に位置することから、そうした地域特性(女性の性質)といったものが生きたままの状態で存続し易かったものと考えます。
一概には云えませんが、古くからの文化伝統とは意識して維持されるものよりも、こうした事情によって残存することが多いのではないかと思われます。
まあ、それはさておきハナシを個別的なことに移してみますと、こうした地域女性の巫女的な性質とは、その土地から離れるにしたがい徐々に弱くなっていくといった性質があるのではないかと思われるのです・・。
まあ、これは半分想像で云っているのですがね・・(笑)。
(この時、ハナシを聞いていた女性の一人が何故であるかわからないが電気ショックを受けたように一瞬ビクッとした。)
(その反応に少し驚きつつ)・・いや、しかしまあ、その意味で男女共にさまざまな地域の人々が集まっている東京、首都圏などは、どうもそうした女性特有の巫女的な力を感じ取ることが難しい地域ではないかと思うのです。
そして、その代替あるいは悪く云えばまやかしとして、さまざなな流行の文化もしくはそれを生む唯物論的な価値観といったものが代わる代わる消費されているのではないかとも思うことがありますね・・。
いや、しかし、それは世界各地の大都市もまた概ねそういったものであるのかもしれないですが・・。」

・・まだ続きがありますが、ひとまずここで終えます。
ともあれ、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また
昨年から現今に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害の大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧ならびにその後の早期の復興を祈念しています。』











2017年7月29日土曜日

20170728 読んだ著作から想起されること【書籍からの抜粋引用あり『貴族の階段』より】

昨日700記事に到達はしましたが、習慣とはなかなか怖いもので、本日もまた習慣のように記事作成を開始しております・・(笑)。

さて、小説などを読んでいますと、時折大分古い記憶が甦ってくることがあります。

直近のそうした出来事とは、ブログ記事にも書いた、つい先日読了に至った武田泰淳著『貴族の階段』内に以下のような描写があったことに起因します。
【pp.216-217より抜粋引用】

『雪の多い、寒い冬がやって来た。
大みそかにも、朝から雪がちらついた。
中庭の浅い池には厚い氷がはって、盛り上がっていた。白い亀裂を走らせた氷板の下で、鯉たちは苦しげに見えた。
魚の空気孔をつくるため、氷塊をとりのけても、そのあとにすぐ薄氷がはりつめた。
家の者は、煤はらいで忙しい、朱塗り、黒塗りの椀を重ねて、蔵からはこび出す。
金蒔絵の漆器は、雪空のうす明かりの下では、とくに美しい。
「義人さまは、今日、おかえりになりますでしょうか」
冷えきった長廊下で、すれちがいざまに、松がそうたずねた。
「さあ、どうでしょう」
西の丸の家では、毎年大みそかには「若殿様の胴あげ」のしきたりがあった。公家華族の遺風ではなくて、母が九州小藩から持ちこんだならわしである。大広間でもみにもんだあげく、長い廊下を歓声でどよもして、男一匹かつぎ歩く。下ばたらきから奥女中まで、一年に一回、うちの女衆が勢いをつける日であった。鉢まきも勇ましい、大山のおかみさんが、蕃声をはりあげる。木刀で、気合をかける。たすきがけの松たちが、腕まくりして力足をふむ。眦をつりあげ、咬みつきそうな口つきで、武骨になるほどよろしいとされる。

集団になると、いつもは屈従している女たちの殺気も、そうとうなもので、すさまじい楽しみになる。
兄が帰宅してくれないと、せっかくの楽しみを、すっぽかされることになるのだ。「狼藉者ですぞ、おであい下さい」
昔ながらの行灯やぼんぼり、高張提灯に火をともす。天井も柱も、壁も板の間も、異様な照明でゆらめいて、人の影は乱入した敵の黒装束のように、思いもかけぬ大きさにひろがる。定めの刻限に兄が姿を見せると、待ちかまえていた女たちは、生きかえったようによろこぶ。』

この記述を読み思い起こされたのは、大分前(20年以上)に読んだ司馬遼太郎著の江藤新平を主人公とした『歳月』という小説であり、おそらく、この著作のなかに、当時の肥前・鍋島藩での風習、ならわしを描いた箇所があり、それがさきの『貴族の階段』からの抜粋引用部と酷似していると思われるのです。

残念ながらこの著作『歳月』は現在手元になく、また本日は書店にて確かめる時間もありませんでしたので、今のところ(確たる)証拠はありませんが、それでも、まあ『当たらずとも遠からじ』ではなかろうかと思われます・・(笑)。

また、そうしますと、さきの抜粋引用部内の『九州小藩』とは、肥前・鍋島あるいは肥前周辺の何処かの藩での風習、ならわしを念頭に置き書かれているのではないかと考えられるのです。

そして、さらにまた、このことを考えてみますと、こうした風習、ならわしのさらに基層にある生活文化とは、あるいは肥前を含む九州北西部のみならず、南九州および南西諸島においても存在し、その一つの顕現の仕方が以前ブログ記事にて抜粋引用した往時の戦の先頭に立つ巫女ではなかろうか?とも考えさせられます・・。

加えて『肥前国風土記』内の値嘉島の記述にて、その住人(白水郎)【漁労民の一つ】容姿が南九州の隼人に似ていることが報告されておりますので、このことも何らかの関連性を示しているのではないかとも思われます・・。

最後にこ、うした生活文化、風習、しきたりもしくはその痕跡らしきものは、東日本、首都圏では見受けることが出来ず、また現在の表層的には類似したように見える現象からはどうもエピゴーネンといったコトバを否応なく想起させられます・・(苦笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。

















2017年7月28日金曜日

20170727 自覚がないまま辿り着いた700記事 土器・青銅・鉄器を結ぶもの『炎』

一般的な世界史の区分において石器時代(打製・磨製)・青銅器時代に次いで鉄器時代となるわけですが、当初人類が用いたとされる金属である青銅の使用とは、紀元前3500年頃メソポタミア(両河地方)にはじまり、その後紀元前1500年頃にヒッタイト(現在のトルコあたり)にて鉄器の使用が普及し、それが経時的に世界各地に分散・伝播していきました。

さて、我が国とは、そうした伝播経路の辺縁に位置していたことから、双方金属の伝播・普及とは、発祥の地に比べるとかなり遅く、おそらく紀元前後あたりに双方同時に朝鮮半島を経由して齎されたとされています(さまざまな意見がありますが)。

また、伝来当初より我が国における双方金属の使用法とは、その用途によって異なり、祭祀などに用いる祭器(銅鐸銅矛銅戈銅剣銅鏡)である場合、青銅が多く用いられ、武器・農具などの実用的な道具に関しては鉄が多く用いられました。

とはいえ、当時の金属、特に鉄とは、かなり貴重なものであり、当初それらは魏志倭人伝にも記されている通り朝鮮半島南部にて求められ、国内において各種道具に加工されていました。

それ故、初期の古墳(4世紀頃)においては、材料としての段階である鉄板状(鉄鋌)のものが、被葬者の権威、財を示す副葬品として北部九州~畿内の古墳においてに多く出土しています。

その後、6世紀頃になると、国内においても製鉄技術が半島経由にて渡来・確立され、その道具としての使用は以前に比べ、さらに一般的なものとなっていきました。

この鉄を農具として使用することにより、これまでよりも深く、広く土を耕すことが可能となり、また武器として用いた場合、よりその殺傷能力は向上し、それを装備したクニは更なる版図の拡大を為し得たものと考えられます。

以上のことから、初期の畿内ヤマト王権が日本各地(主に西日本)における支配権の確立を企てた一つの大きな目的とは、半島から齎される材料としての鉄ルートの確保であったとも考えられています。

そのため一昨日投稿分の記事にて書いた『畿内ヤマト王権の大動脈としての瀬戸内海』とは、ある程度妥当なものと評することが出来るのです・・。

とはいえ、この時期に各地域が培った製鉄・鉄加工技術とは、その後の時代に継承され、古来より刀剣等の鉄器にて名高い西日本地域の多くとは、おそらく、その歴史的背景にこうした事情が存在しているのではないかと考えられます。

さらに、各種鉄器の加工においては高温の炎・火力が必要であり、我が国の場合、多くの場合、それは木炭を用いていた。

そうした場合、温暖湿潤にて木炭作成のための森林伐採後の再生力が高い自然環境を具備した地域の方が好適地であると云え、おそらく出雲・吉備(島根・岡山)などは、それら条件を備えた地域であったと云い得ます。

さらに、この高温の炎・火力を得る技術とは、各種金属以前の原初的なセラミックスである土器(アース・セラミックス)の作成においても、極めて重要なものであり、あるいはこうした土器の時代より続く、技術の蓄積があったからこそ、後の青銅そして製鉄・鉄器加工の段階においても、それら技術体系の受容および更なる進化発展を成し遂げることが出来たのではないかと思われます・・。

・・さて、ここまで書いており、今回の記事投稿によって総投稿記事数が700に到達することを思い出しました・・。

あまり実感のようなものはありませんが、今後ももうしばらく記事作成を継続しようと思います。

今回も、そしてこれまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

そして昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域の生活諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。』






2017年7月26日水曜日

20170726 戦車を題材にした映画が少ない理由・少女が戦うアニメが制作される理由について・・。

A「先日、以前(ほぼ2年前)に作成、投稿し『20150727 戦車について・・』を記事内容にて取り上げた米国映画『Fury』の動画と共に再投稿してみたところ、かなり閲覧者数が伸びました・・。

また、この映画とは、たしかに、私がこれまでに観た映画にて最も戦車の戦いを忠実に再現しているのではないかと思われました。

そして、この映画を観ることにより、はじめて司馬遼太郎が御自身の経験に基づいて、さまざまな著作に書いた戦車で戦うことのおぞましさ、またそれを想像することによって生じてしまう憂鬱さといったものを、ほんの少しは分かるようにも思えました・・。

とはいえ、そうした事情によるものか、我が国の太平洋戦争を題材とした数々の映画の中において、戦車を題材とした映画とは、かなり少ないのではないかと思われます・・。

その理由について考えてみますと、太平洋戦争での主たる戦場とは、戦車同士が叩き合うのに適した見通しのきく平原は少なく、また、当時の我が国における戦車の位置づけとは、発祥の地、欧州での開発当初の目的であった前進する歩兵の援護を主としたままであり、さらには軍艦、飛行機を題材とした映画のように模型を以って撮影部分をあてることが困難であったことから、華々しい戦場での活躍あるいはそこから派生する悲劇を描写するには『地味』過ぎる且つ予算が掛かりすぎる題材であったのではないかと思われます。

以上のような理由から、少なくとも我々日本人は、第二次世界大戦・太平洋戦争における戦車による戦いとは、書籍・文献を通してのみで知る他はなく、そのことから、当時の戦車同士の叩き合い、戦車を用いた戦闘をあまりリアルに想像することが出来なかったのではないかと考えられます。


その意味において冒頭に書いた映画『Fury』とは、かなりその実情・実相を伝えていると思われることから、あらためて太平洋戦争時に戦車隊に属していた司馬遼太郎が戦車を題材として書いた内容の意味を(ある程度深く)理解することが出来るのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、その一方で、昨今戦車での戦いを題材としたアニメが広く認知されているようですが、そのアニメでの戦車の戦いと、さきの『Fury』を観比べてみますと、そこからもまた日米双方の文化の違いらしきものを感じ取ることが出来るのではないかと思われます。

しかしながら、毎度不思議に思うことは、何故昨今の我が国の多くのアニメ・マンガとは、少女を主人公として武器を持って戦うといった設定を好むのでしょうか・・?

いや、それはアニメ・マンガに限らずドラマ・映画においても同様であるのかもしれません・・。

おそらく、そうした傾向とは、戦前においては現在ほど顕著ではなかったと漠然と思うのですが、それが戦後の如何なる時代精神と感応し、こうした傾向が生まれたのかとは、今後もう少し機を見て考え続けていこうと思います・・。

あるいは、仮説として、こうした傾向とは、男性側が保持する文化・伝統が大戦争により敗れ、その敗れた文化・伝統が強い側・勝った側(欧米)に不断に靡こうとする女性側の文化・伝統を必死に押し留めるための努力であるのかもしれないとも考えられますが、さて如何でしょうか・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。』















20170725 其の2 この時期になると思い出すこと 大隅半島東側の古墳から・・

A「本日分の記事投稿はさきの書籍からの抜粋引用にて充てようと考えておりましたが、現在700記事到達目前という事情もあり、本日もまた何かしら自分で書いてみようと思い立ちつい先ほど新たに記事作成を始めた次第です・・(笑)。

さて、この夏は未だどこかへ遠出するということもなく、蒸し暑い都会の雑踏を性懲りもなく動き回っている次第ですが、こうした状態が常態となりますと、私の場合、南方的とも云える横溢な植生の自然環境への憧れが強くなり、また同時に、かつてのそうした記憶がほぼ自動的に想起され易くなるようです・・(笑)。

さて、何年か前の鹿児島在住時のこの時期、大隅半島東側に古墳が多いということを書籍にて知り、一人原付にてフェリーに乗り大隅半島に渡り、志布志大崎東串良肝付周辺の古墳巡りをしたことがあります。

面白いことに鹿児島県では薩摩半島側には、あまり主だった古墳は見受けられず、それに対し大隅半島側では、国内でも名高い宮崎・日向の西都原古墳群あるいは畿内王権の大動脈とも云える瀬戸内海の延長線とも云える地域ということもあり、その東海岸沿いには大型の前方後円墳をも含む古墳群といったものが散見されるのです。

さて、実際にそうした古墳・古墳群に行ってみますと、それらは特に整備されているといった様子ではなく、概ねごく自然のままで、あるいは墳丘に社が設けられていることもあり、見方によれば、それらのうちのいくつかは、未だ地域にて祀られている存在であるとも見て取れました

とはいえ、こうした古墳のあり方とは、ここのみにおいて特徴的であるというわけでもなく、少なくとも、これまでに私が見た和歌山、福岡など西日本の古墳においても類似・同様と評しても良いものが複数見受けることが出来ました。

そして、そうした中においても、これら大隅半島東海岸近くの古墳・古墳群を特徴付ける要素とは、大型の古墳が草生した丘状となり、また付近に多く点在するとされる南九州東側特有の墓制にて造営された地下式横穴墓とは、地上に古墳の存在を知らせる要素がほぼ皆無であることから、事前の情報あるいは現地での標識・案内板がなければ、そこが古墳・古墳群であることすら判別が困難であったということです。

当時の私は、こうした状況に対し、いささか不満をおぼえたのではありますが、現在、冒頭に書いたような状況にある私としては『あるいはこれもまたこれで良いのではないだろうか?』とも考えるようになりました・・。

それを言い換えますと『そこに古墳の存在を知らせる要素がなくとも、実際そこに古墳があるのであれば、何かしら考えることが出来るのではないだろうか?そして、そちらの方がより想像力を働かせることが出来、そこからまた更なる考えを生むことが出来るのではないだろうか?』といった感じになります。

そして、こうしたことから貴重な史跡・遺跡の取り扱いとは、遺跡・地域毎に無作為の無意識に基づくものではあれ、さまざまな方法・様式があっても良いのではないかと考えに至るのですが、さて如何でしょうか・・?


ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』


2017年7月25日火曜日

20170725 角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版 pp.69-74より抜粋引用

角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版
pp.69-74より抜粋引用
ASIN: B000J9OAC6
『もう一つ、古い日本のことを述べる。
たとえば、日本の失ったものという場合だが、最初は深刻な例と、それからあとはごく卑近な例をあげよう。私は今度の戦争に行ったとき、第一線の擲弾筒兵という一兵卒だったが、マラリアにかかって、ビルマラングーンの病院へ後送された。百万坪もあるラングーン大学を接収して開設されたビルマの最根幹の大兵站病院である。そこへ連日前線からなだれを打ったように、インパール作戦その他での重傷病患者が送られてくる。無謀きわまる作戦強行で日本軍は崩壊状態に陥っていたのである。みんな幽鬼のような姿だ。
軍医さんも、看護婦さんも、衛生兵も、全然手がまわらない。そこで私たちのような軽患者ーといっても重症なのだがー使役にかり出された。私が当たったのは収容病棟の使役であった。前線からどんどんはいってくる傷病兵をいったんそこへ入れて、それから軍医さんが診断し、あるいは看護婦さんがより分けて傷病別並びに部隊別に本来の病室へ入れる。
そういう臨時の収容所である。そこの食事を運んだり、大小便の始末をしてやったり、包帯を取りかえてやったり、どんどん死んでいくものだから、死んでいく人のお墓ー穴を掘ったり、そういうことをするわけである。大学の大講堂が収容病棟に当てられていたが、そこには大理石とチーク材の床があった。天井にはシャンデリアがある。それはつかないで細々とした防空用の電灯がついている。屋根があり窓があり、床があり、三人ほど一緒に寝かせたが、とにかくベッドがある。そこへはいってきた兵隊はー私もそうだったがそんなところ、何年も見たことがないわけである。床がある、ベッドがある、屋根がある、壁がある、おまけに電灯までついているというようなところにはいった兵隊は、安心のあまり全部腰を抜かしてしまう。しかも、そこに日赤の看護婦さんがいたのだ。彼女らが、そのときは神さまみたいに見えた。婦長さんは四十五・六の人だったが、これはみごとな婦長さんだった。日常では、もう声が出なくなっている。私らに命令するときは、かすれはて判別できないような声しか出ないのだが、患者を迎え慰めるときは声が出るのである。はいってくる兵隊は、ちょうど私たちがいたときは、インパールで負けた関東の弓部隊など現役兵の兵団の兵たちが、顔じゅうぐしゃぐしゃになったといった重傷で入って来る。水虫患者というのが入院してきたので水虫で重症患者とは一体どんなのかと思ったら、直径一〇センチもある穴が二十幾つあいていて、そこへうじ虫がいっぱいたまっているという、そんなのがはいってくる。彼らは気もすさびはてているが、そういう患者の一人一人に「兵隊さん、ご苦労さんでした。もうここまで来たんだから、安心してゆっくり養生して早くよくなってちょうだいね。すぐよくなりますよ。皆元気を出して」ということを言って回られた。そんな天国で、現役兵の年齢からすればちょうど母のような女性からそういう声をかけられるものだから、みんな、涙をぼろぼろこぼす。兵隊は皆子供のように声をあげて泣いた。安堵のあまりその翌日死んでしまう兵士も多い。お母さんのもとへ帰ってやれやれ安心というようなその童心に帰った死顔の目を閉じてやりながら私は無性に悲しかった。その婦長さんは、私らが退院してしばらくたって原隊へもどって来た「追及者」から聞いた話によると、そうやって声をかけているうちにふっと声がとぎれて、へなへなとすわられたと思ったら、それでもう最後だったそうだ。まさに立往生である。平均二時間ぐらいしか寝られないで、一五〇日ぐらい頑張ったとか。そんなことをしておられたから、精も根も尽き果てたのだろうと思う。この婦長さんに接したとき、どんなに荒れすさんだ重症の兵隊も、涙を流した。担架に天幕やドンゴロスをかけたりして運んでいる重症患者でも、もぞもぞとその天幕の下が動く。全員、手がしぜんに前に行き、合わさっているのである。「婦長さんに後光がさして見えた」とあとで皆そう言った。日本の昔の女性というのは、家庭だったら、ともかく全身全霊をあげて、よいにしろ悪いにしろ、封建的道徳であるにしろ、夫のため、子のために生きたのである。母というものはそういうものかもしれぬ。フランスでも昔ではそうだったのであろう。フランスのある若死にした詩人が「お母さん」という題で「私のお母さん、私の幼いときに死んでしまったけれども、そのお母さんのまぼろしが私の前に浮かぶ。
それは全部白いかっぽう着をつけて木履をはいて、働いている姿だ。料理を作っている、ミシンを踏んでいる、掃除をしている、そういうお母さんだけれども、それは皆私たちにおいしい食事を、私たちに暖かい着物を、私たちに清潔な部屋をと働いている。自分のもの縫っていたことない。
寝てるお母さん見たことない。
まぼろしのその白いエプロンのお母さん。
その姿は円光につつまれている」と、こういう詩を書いていたのを私は記憶にある。
かつてそういうものだったのだろう。
兵隊たちが見たのもそういうものだった。
私も入院時この婦長さんの姿にはっきり認めた。
何か光につつまれている感じで、四十二度という熱にうなされながら手を合わせ涙がとどまらなかったのである。
私たちの中隊はあとから補充を合わせ三百数十人いた。
その中で生還できたのはニ十数人でしかなかった、ほとんどが栄養失調による病飢死である。
死期が近づくと皆手を合わせて、何かつぶやいている。
「またなんだかぶつぶつ言ってるぜ、もう駄目なんだ」。
私たちはそう言い合ったものだ。多くの兵士は農家出身だ。
満州事変以来何度も応召してきている。
昔の農家だとか小さな商店など、男手がなくなったらどんなみじめなものか、いやというほど思い知らされた。
勝っているときでもそうなのだ。しかも今度は負けらしい。
おれはもう死にそうだ。あとに残った子供はどうしていくだろうかという想いにとらわれたとき、兵隊は家族と一緒に写した写真を出して、「お母さん、頼みます」「女房、頼む、子供だけは頼む」と願うのだ。
はじめ、何をしているんだろうと何気なしに問い合わせた私に「貴様のような坊ちゃん学生兵隊におれたちの気持ちがわかるか」と激しい語調で友人が教えてくれたことである。
そのとき皆の両手は思わず前に合わされている。頼むと拝んでいるのだ。私たち兵隊は不信心な、いわゆる「悪いやつ」ばかりだったかも知れぬ。夫として平生の生活には母や妻にむくいることきわめて少なかったに違いない。
そういう夫たちの心の奥にやはり拝む心があった。
母の姿、妻の姿に後光がさして見えたのである。それは献身への全くしぜんな感応というべきものでなくてなんであろう。今の日本の妻も、日本の母親も、完全に後光を失っている。現在の夫の、子供の誰が妻に対して、母親に対して手を合わせるのだろうか。母は子供にとってもよき遊び相手だろう。姉さんにはなれるかもしれない。妻は夫の遊び相手、ときには相談相手になれるだろう。しかし、絶対に夫の手がしぜんに合わさるような存在ではない。今の日本はアメリカナイズされたのでろうが、今の三十代のお母さんが手にとって、子供から「お母さん」と言って、しぜんに手を合わせられるということはないだろう。封建制度の否定のもとに、日本の女性は、男の心の中、夫の心の中、子供の心の中にある後光を、もう永遠に失ったこれがあるかぎり人間は、最後の破滅の前にそこへすがりつけるのである。
ゲーテのいう「永遠の女性的なるもの」もそれである。しかし、アメリカにはそれがない。「ええい、LSDを飲もうか」ということになったり、妻の殺し方というのがあって、女房に毎日ガラスの粉をちょっとずつやったら、十五年たったら死ぬというような、そんな本が出るわけである。
私たち兵隊は、冗談まじりにではあるが、万一帰還できたら、もうどんなことがあっても女房には炊事、洗たく、掃除、一切させない。
床の間に上げて、毎日拝んで暮らす、おふくろともなればもちろんのことさ、などというようなことを言っていた。
もちろん実際上そんなことは続かなかったけれど、しかし冗談にしろ床の間に上げて拝んで暮らすのだとは、当時の女性にはその円光があったために出た言葉であろう。
いまやそれを失った戦後の女性は権利としてのいろいろなものを得たが、放棄したこの後光を考えるとき、ほんとうにそれが幸福といえようか。』

2017年7月24日月曜日

20170724 駅で見かけたポスターから思ったこと【コスプレ・カラオケ】創造とは?

首都圏にて電車の乗り降りをしておりますと、アニメのポスターがやけに多いことに気が付かされます・・。

私はアニメを鑑賞する習慣がなく、またそれらに登場するキャラクターがやけにデフォルメされていることから、それらを何らかの人格的な記号としては認識出来ますが、同時にそれらを観て魅力的であると感じることはありません・・。

もとより、元来マンガ・戯画などに登場するキャラクターとは、そういったものであったのではないかと思われます。
(それが変ってきたのは江戸時代の浮世絵あたりからでしょうか?)

しかしながら、それが、さまざまな意味での興奮を惹起させるものになり得る、そして逆に、あるいはそこからさらに進んで、生身の人間の方がアニメのキャラクターに似せよう、近づこうとする(コスプレ)ことは一体どういった心的傾向に基づくものであるのかと、不思議に思うことがあります・・。

アニメに登場するキャラクターのコスプレとは、ある特定の対象に『近づきたい』、『なりきりたい』といった願望に基づいているのでしょうが、おそらくそれ(コスプレ)は、『予め理想像が提示されている』という意味において、一般的なお洒落、衣装道楽とは『外見、見栄えに凝る』といった意味では類似していると思われるものの、本質的には異なるものであるといえます。【視覚的な即物性の背後にある思想が異なる】

ではコスプレと類似したものを求めるとすれば、それは『予め理想像が提示されている』という意味においてカラオケが挙げられるのではないかと思われます。

そして御周知のことではあると思われますが、これら(コスプレ・カラオケ)とは、我が国が発祥とされており、また現在となっては我が国が世界に誇る文化であるとされております。

私はこの意見(世界に誇る文化)に対し特に批判的な意見があるわけではありませんが、ただ、それらが『予め理想像が提示されている』という意味において、何と言いますか、我が国の特徴とされる『凝集性もしくは求心性』といったことに思い至るのです。

とはいえ、無論のこと、そうであるからといって『その文化には創造性が乏しい』といった意見に単純に結節するわけでもありませんが・・。

とはいうものの、このことをもう少し考えてみますと、その『凝集性および求心性』とは(あくまでも)原理的な創造とは異なるものであり、またそこから、時折耳にする我が国の別の傾向としての『原理から離れた部分におけるさまざまな操作が巧みである』あるいは『閉じた一つの系における数学が得意である』などに対しても親和性を見出すことが出来るのではないかとも考えられます・・。
(人に対する難癖の付け方もまた、そうした傾向があるのかもしれません・・(苦笑)。)

また、もしも、それら挙げられた傾向の基層、根源において何かしら共通するものが(実際に)あるとすれば、それは古来より現代に至るまで外来文化の受容に迫られた・明け暮れた我が国特有の歴史によって培われた性質ではないかとも思われます。

そして、それがある程度妥当なものであるとすれば、おそらく『面従腹背』といったコトバにも、あるいは積極的・肯定的な意味合いを持たせることが出来るのかもしれません・・。

もちろん、あくまでもそれは自由闊達な精神の顕現ではないのでしょうが・・(苦笑)。

しかしまた、文化とは、どの国においても、概ねそういった事情を背負って成立しているものであるとは云えるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』




















20170723 目標設定の仕方と教育について・・ブログ記事の作成から

A「昨日投稿分の記事もまた投稿翌日の割には多くの方々(32)に読んで頂けました。

読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

加えて、週末ということもあってか、昨日全体の閲覧者数もまた比較的多かったです(500以上)。

昨今における一日のブログ記事閲覧者数は200~400程度であり、以前に比べ、その数は大分少なくはなりましたが、自身の場合、あまり多くの方々に読まれていると、変に身構え、そして萎縮してしまうところがあると思われますので、この位の方々に読んで頂けるのが最適ではないかと考えます。

その一方で、これまでの通算では240000人近い方々がこのブログを閲覧されているということになり、これはなかなか(自身としては)驚くべき数値あるいは出来事であり、また、それらがどのように読まれているのかは分かりかねますが、ともかく、こうした状況の認識により、そう簡単には記事作成を止めることが困難にもなるのです・・(苦笑)。

それと多少関連することですが、今回の記事の作成・投稿によって総投稿記事数が695となり、次の区切りの良い目標である700記事まで残すところ5記事の投稿となります。

この先、特に問題なく700記事に到達することが出来ましたら数日間記事作成を休もうと考えています。

さて、無事に700記事まで到達した場合、目標とする1000記事までの道程の七割まで達したことになりますが、果たして、その先の300記事もまた、これまでと同様の投稿ペースにて書き続けることが出来るのでしょうか・・(笑)?

これに関しては、おそらくこの先800記事程度までは難なく到達することが可能であろうと漠然とながら思うところです。

しかし、その先のことになりますと正直なところ、あまり想像することは出来ません・・(苦笑)。

とはいえ、
以前の私もまた、こうした思いにて、これまでの記事作成を継続してきたと云えますので、おそらく800記事に到達することが出来れば、自ずとその次の想像可能な領域が見えてくるのではないかと幾分楽観視しております・・(笑)。

また、こうしたものは、さきに投稿したブログ記事に書いた実験および読書などにおいても、概ね似たような心情によって支えられており、自身としては、当初より無理に大きな目標を掲げる方が余程無茶なことではないかと思われますが、如何でしょうか・・?

また、あくまでも私見ではありますが、このような『目標設定の仕方』とは、人の教育においてもかなり重要であり、この『目標の設定』を上手く行うことが出来る人こそが普遍的な意味での優れた教育者ではないかと思われるのです・・。

これは、無論のこと、教える内容を熟知していると同時に、人間に関する実際的な世間知といったものをも備えていないと行い得ないことから、かなり難しく、あるいは自身の経験から、我が国の場合、理系・文系を問わず、時代(戦前は別として)が下るにつれ、こうした教育を施すことが出来る教員が徐々に減少しているのではないかと考えさせられます・・。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された地域での生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』








2017年7月23日日曜日

20170722 奇妙ともいえる偶然の把握および書籍からの抜粋引用(伊波普猷著 『古琉球』より)

昨日投稿分の記事も投稿翌日にしては多くの方々(30)に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、さきほどつい先日(7/19)に投稿した『読んでいた小説から思ったこと、歴史認識の方法について・・』との関連にて昨年4月2日の投稿記事『野上彌生子著『迷路』について』を読んでおりましたら、この記事においても、さきの著作『迷路』とマンガ『はいからさんが通る』の関連性、類似性について書かれていることを見出しました。

この当時(2016年4月)の自身とは『はいからさんが通る』が2017年の11月にアニメ映画として公開されることは知らなかったと思われますので、この言及(2016年4月)とは偶然ではあるのでしょうが、同時に多少面白くも思われた次第です(笑)。

しかし、そうしたことを考えてみますと、この一連のブログ記事作成をはじめて以来、それに類するような出来事は、幾度か経験しておりますので、今回の件もまた、特に驚くべきことではなく、さきに書いたように『多少面白い』といった程度のことではないかと思われます。

とはいえ、その一方でなお、こうした出来事が発生する、あるいはそれが認識されるメカニズムに関しては少なからず興味がありますが・・。

そしてまた、そのメカニズムを把握することが出来れば、さらに理解することが出来る事象が多くなるのではないかと思われるのです。

加えて、これも未だ感覚的なことではありますが、こうした奇妙ともいえる偶然の把握とは、人によっては多少時期のズレもまたあるのかもしれませんが、年齢とも関連があるのではないかと思われ、さらにそれ(奇妙ともいえる偶然の把握)とは、何といいますか、本質的に定量化しうる要素の相対的な評価(のみ)によっては達し得ることが出来ないのではないかと思われます・・。

おそらく、そこには内発性のさらに基層にある精神と関連し、またそれは総じて創造なるものの根源にある精神とも同根ではないかとも思われるのです。

さて、ここまで書いてきた内容とは、あまり関係がないとは思われますが、先日読んでいた書籍にて面白いと思われる記述を見出しましたので、以下にそれを示します。

岩波書店刊 伊波普猷外間守善校訂 『古琉球』pp.58-59より抜粋引用

『琉球語では城のことをグスクというが、八重山では石垣で囲うた所をグスクといっている。
金沢(庄三郎)博士がかつて沖縄教育会で述べられた演説の一節に、
このグスクということばは、沖縄人が大和民族であることを証する好材料となるのであります。
朝鮮の古語では村のことをスキ村主のことをスクリ(宿禰と同意義)と申します。
この言葉は日本語にも這入って日本の位の名にもなっていたのでありますが、それと同意義の言葉が日本語では城と書いてシキと読んでおります。
大和の地名にシキという所がありますが、またシキシマ(敷島)という日本国の名にもなっています。
シキは城ということになります。シキという言葉を研究して見ると先ず二つに分けることが出来ます。
シは住むという意味で、キは囲の中という意味であります。即ち囲の中に住むという意になります。(中略)
然らば日本語でシキ朝鮮語でスキという事は一体どういう所を指してそういうたのであるかというと、高い所にあって石の壁で取囲まれている所という意味であります。(中略)
それで日本語のシキも朝鮮語のスキも琉球語のスクも皆城壁という意味であります。
是らの名詞で、正鵠を得た判断が出来るので、沖縄は敷島即ち日本の一部分であるという事は争うべからざる事実であります。
歴史がなくとも、伝説がなくとも、記録がなくとも、神話がなくとも、沖縄人の祖先は日本人のそれと同じくシキの中に住んでいた事が証明されます。

という事であったが、アマミキヨ種族は沖縄島に上陸して後もグスクを築いてその中にいたのである。(グスクのグは敬語である。)
佐敷はもと「狭いスキ」または「小さいスキ」ということで、これはその地勢から考えてもなるほどと思われる。(佐敷という地名は熊本辺にもあるのである。)
これらは皆沖縄人の祖先が北方の同胞と共同なる根源地に住していた事を証明する好材料である。』

*これは昨日投稿分記事の内容とは少しは関係があるかもしれません・・(笑)。

ともあれ今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域の生活諸インフラの早期の復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。









2017年7月21日金曜日

20170721 首都圏の日中の気温から思い出したこと・・【実験およびブログ記事作成の作成について】

ここ最近の首都圏は日中ほぼ毎日のように30℃以上を示しております。

そうしたなかを歩いておりますと、自身が加齢のために暑さに対して鈍感になったのか、あるいはかつて九州に在住した経験により暑さに強くなったものか、はたまた双方共々によるものであるかどうか分かりませんが、そこまで辛い・耐え難いと感じることはありません・・。

あくまでも自身の感覚に基づく意見ではありますが、体感的な日中の夏の暑さに関しては、首都圏よりも九州とくに鹿児島市街地の方が数段上をゆくのではないかと思われます。

在鹿時代の私は、不足がちな運動を補うために盛夏をも含めた通年の週末、鹿児島市街地(天文館宇宿)を散歩しておりました。(概ね中央駅経由)

また、そのことを思い出してみますと『では、鹿児島在住初年の夏とは一体どうであったのだろうか?』と、さらに思い至るわけですが、そうしますと、しきりに実験室の流しにて頭部に水をかけていた記憶がありました・・(笑)。

当時、髪型は丸坊主であったことから、乾くのも早かったのではありますが、それでも、おそらくこの新たな習性を機に私は手拭いを腰ベルトに掛けるようになったのだと思われます・・。

また同時に、この当時取り組んでいた実験とは1000℃周辺の高温となった炉を用いるものであったことから、実験の合間での自身の冷却とはあるいは必要不可欠なものであったのかもしれません・・(笑)。

そしてまた、このことを思い出してみますと、当時はさきに書いた高温の炉、そして合金を溶かす高温のバーナーをそれこそ幼児の玩具のように扱い、また、そのおかげで実験への使用に適当と思われる試料の作製が出来るようになったのではないかと思われます・・(案外、こうした暗中模索の泥縄方式が良かったのかもしれません・・(笑)。)

この当時、私が取り組んだ実験とは、おそらく実験内容自体としては(そこまで)大したものではなかったと思われますが、その条件毎の試料数が相対的に多く、また同時に標準偏差が小さく、さらに、その結果における値が、当時欧米の類似実験内容の論文掲載値と近似していたことにより、ある程度の評価もしくは信頼を得るに至ったのではないかと思われます・・。

とはいえ、同時にこのことは、現在となっても時折お目に掛かる(こうした)実験を日常とするような先生方から、遠回しに疑問視されるところでもあるのですが、それでも、この時に得られた値とは、全て実際に自身が作製した試料より得られたものであることから、これといって気に病むこともなく『ああ、そういったツッコミをされる先生方もおられるのだな・・。』といった感じであり、当時と同じ設備、材料が揃えば、試料作製に再び慣れるまで少し時間は掛かるかもしれませんが、概ね同様の結果(値)を出せるものと考えます。

さて、ここまで書いており不図思ったことは『私とは、読んだ書籍の数、作製した試料の数、そして現在更新中のブログ記事数といったものにおいても、とりあえず、それらを継続するといった行為態度については、ある程度持っているのかもしれない・・。』ということであり、また、これ(さきに書いた行為態度)に関しては、それらを身近で見ていた方々もまた(おそらくは)納得して頂くことが出来るのではないかとも思われます・・。

そうしますと、案外単純ともいえる自身の特徴らしきものが看取されるわけではありますが、同時に『いや、それだけではないぞ!』と主張してみたくなるのです・・。

しかし、その具体的な内容に関しては、未だこれを認識出来ないでいると云えます・・(苦笑)。

あるいはこうしたとは、このブログ記事作成の継続を通じ、ある程度明瞭に認識し得るものとなってくるのでしょうか・・?

そういえば、去る7月19日にて学位取得後通算4年となりました。

その当時から現在に至るまで自身としてはあまり進化した自覚はありませんが、同時にそこで得たものが多少は現在に生かされているとも思われますので、今後は更に、もう少し多くそれを生かすことが出来る方向を模索してみようと思います。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域における諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。

20170720 『貴族の階段』・『迷路』・『1984』から思ったこと・・時代精神

昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、この記事にて取りあげた武田泰淳著『貴族の階段』は本日さきほど読了に至りました。

さて、この著作とは、野上彌生子著『迷路』とほぼ同時代を舞台としたものであり、且つその主人公である菅野省三とは『貴族の階段』の著者である武田泰淳と重なる経験を持っていると云えますので、この両著作の間には共通する何かしらの『感覚』があるのではないかと思われます・・。

そして、その『感覚』とは、もとより私見ではありますが武田泰淳、野上彌生子の両者が共通して経験したであろう、大々的な戦争に突入する前段階ともいえる1930年代における我が国の社会状況・様相への漠然とした不安・怖れではないかと思われます・・。

その後に勃発する大々的な戦争、太平洋戦争に至っては既にこうした状況とは過去のものとなり、またそれはそれで戦時下での経験を基に書かれた書籍・文献等に多く書かれているように苦渋に満ちたものであったのでしょうが、同時にそこでは戦時下という状況が既に所与のもの、動かし難いものであったと云えます・・。

そして、まさにその点(未だ大々的な戦争に至っていない)において冒頭に挙げた両著作に共通する感覚としての不安・怖れが一層鮮明・明確となり、現在を生きる読者たる我々に迫ってくるのではないかと思われます。

その意味において現今の我が国社会とは、果たして時宜的にこれら著作を読むに適しているのか判断は出来かねますが、それでもやはり強く訴えかける、問いかける『何か』があるのではないかと思われます・・。

そして、その『何か』とは、これまた私見ではありますがジョージ・オーウェル著『1984』読了後に強く感じる『ああ、こんな社会はイヤだなあ・・』といった心情ではないかと思われます・・。

その意味で現今の我が国社会とは、幸運なことに、そこからはまだ遠いともいえますが、しかし同時に今後、そうした方向へ社会が変化していく可能性をも(相対的に高く)秘めているのではないかとも思われます・・。

また、そのことと多少関連するのかもしれませんが、昨今『応仁の乱』という書籍が多く読まれているとのことですが、この現象とは、あるいは我が国にて特徴的ともいえる遠回し、間接的な現今の時代精神への興味の発露およびその指摘ではなかろうかとも考えさせられます。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』







2017年7月20日木曜日

20170719 読んでいた小説から思ったこと、歴史認識の方法について・・

A「昨日投稿分の記事に書きました著作は、その後かなり読み進み、おそらく本日の就寝間際の読書にて読了に至るのではないかと思われます。

その著作とは武田泰淳著『貴族の階段』であり、これは丁度2・26事件の頃(1936・昭11)の主に華族社会を舞台としたものであり、また、その書かれている世界とは、さきのブログ記事にも書いた野上彌生子著『迷路』とも類似するものであり、再読の際に、その比較を行うこともまた面白いのではないかと思われます(笑)。

ともあれ、この『貴族の階段』では、主に若い女性の登場人物たちを軸として物語が進行されるのですが、こうしたいわば『女の世界』の描写を何故、男性作家である武田泰淳が為し得ているのか、自身にはいささか不思議に思われました・・(笑)。

おそらく、これは自身の人生経験および観察力の不足によるものであると思われますが、いずれにしましても今後、自身がこうした物語を書くことはまず不可能であるように思われます・・(苦笑)。

また、2・26事件をも題材とすることから、軍隊(帝国陸軍)内の様相もまた著作内に書かれてはいるのですが、これに関しては、大西巨人著『神聖喜劇』あるいは山本七平による一連の軍隊(帝国陸軍)ものと比較しますと幾分精細に欠けるようにも思われます・・。

とはいえ、この著作とは、物語としては大変面白く、同時に、この時代の一つの様相を知る上においても有益であると思われます。

加えて、このことに多少尾鰭をつけてハナシを進めてみますと、1920・30年代(大正末~昭和初期もしくは戦間期)の概括的な歴史の流れを知るための一つの方法として、先ずマンガ『はいからさんが通る』を読み、次いでさきの『貴族の階段』に至り、そして『迷路』を読んでみるというのは、あるいはそれなりに有効ではないかとも思われますが如何でしょうか?

このことを書いてみますと、私はかねてより、こうした、どちらかというと帰納法的な方法にて歴史の流れを把握しようとする癖があるように思われます・・(笑)。

とはいえ、こうした方法によっても、ある程度の認識に達しますと、その分野の専門・学術書も特に無理なく読みこなすことが出来るようになり、またその継続によって、今度はいくつかの時代・地域に対しての認識に達しますと、次はより歴史を概括的に捉えた抽象的ともいえる哲学・思想関連のいくらかの著作をも特に無理なく自然に読むことが出来るようになるのです・・。

無論、こうした方法は時間も掛かり、面倒ではあるのですが、それでも自身としては、これが一つの歴史を知るうえの正当な手段ではないかと考えております。

また、ここまで書き、記事に登場する書籍・著者・マンガ等をリンクさせるため、インターネット検索をしていて不思議に思われたことは、さきに挙げたマンガ『はいからさんが通る』が今年の11月に新たなバージョンとしてアニメ映画化されることです・・(笑)。

あるいは私はこうした情報をどこかで見ており、ほぼ無意識ながら、このことを認識していたのかもしれません・・。

そして、こうしたこともまた、昨日投稿分の記事に書いた『シンクロニティ』と関連するものなのでしょうか(笑)?

さて、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』









2017年7月18日火曜日

20170718 新たに面白い著作を見つけ出した経緯から思ったこと・・シンクロニティあるいはセレンディピティ?

一昨日投稿の記事冒頭において野上彌生子著『迷路』を取り上げましたが、この著作上巻を昨日就寝前に読んでおりましたら、思いのほか面白く感じられ、なかなか寝付くことができませんでした・・(苦笑)。

その影響からか、本日仕事の合間を利用して書店に入り、文庫本コーナーを徘徊していると、さきの『迷路』と(ほぼ)同時代を舞台とした小説を見つけ、しばし立ち読みし、面白いと思われたことから、これを購入しました。

その後、帰宅時の電車等を利用し、これまでに60頁ほど読み進みましたが、やはり、その描かれている世界とは『迷路』と近接し、またその一方で、異なると思われたところは、地方社会の描写が見受けられないことです。

そうしますと、この著作が戦前期(1930年代)の東京を舞台としたことが分かると思われますが、この時代とは、世界規模でキナ臭い動き、動乱への前触れといったものが多く見出されるようになったという意味で、あるいは現在とも似ているのではないかと思われます・・。

また、別件ではありますが、ここまで書いており不図、不思議に思ったことは、昨日の就寝間際の『迷路』の読書を伏線として、本日の短い仕事の合間での時間(10分程度)にて、ほぼ無意識ながら、類似した時代背景を持つこの著作を見つけ出し、手に取ったことであり、こうした書籍を選ぶ時の感覚もまた経験と共に磨かれていくものであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、こうしたことはあまりたいしたことでもなく、あるいはさまざまな学問分野において自然に為されていることであるようにも思われます。

そして、ここまで書いて、一度休憩すべくミネラル・ウォーターを飲み、続いて無造作に床上に積み重ねられている書籍の一冊を手に取り、開いた頁に以下の記述が見受けられたこともまた、ほぼ偶然ではあるのでしょうが、さきと類似した現象であるように思われます・・(笑)。

講談社刊 加藤周一著 『日本人とは何か』pp.205-206より抜粋引用
ISBN-10: 4061580515
ISBN-13: 978-4061580510
『『近代文学』同人に典型的なように、学生時代に特高警察に追い回された経験がこの世代に共通の経験である。
それは戦時中および戦後の彼らの立場を考えるときに、重要な要素だ。明治の文学者が自然主義小説のなかに近代文学そのものをみたように、あるいはみざるをえなかったように、大正から昭和へかけての日本の知識人がマルクシズム理論のなかに社会科学そのものをみた、みざるをえなかったという事情を、想起する必要があるだろう。
しかしそれはマルクシズムとの接触を最後に経験した世代、戦時中の知識人のいちばん若い世代に、固有のことではない。
彼らがそのまえの世代から本質的にちがっていたのは、現実社会のすべての体験が、彼らにとってははじめからファッシズムの体験にほかならなかったということである。
われわれはすでに、頭で理解された外来の思想や科学的なものの考え方が、「生活」に屈服し、「日本」に屈服し、容易に天皇制国家を超えることができないという実情をみてきた。
しかしその場合の「生活」が巧妙に組織された小集団相互のつり合いの上に成り立ち、一定のコンフォルミズムが確実に一定の快適さを保証するような具合にできあがっていたこと、また「日本」が明治以来の帝国の膨張の歴史に支えられ、また中野好夫流にいえば、先進国に「追いつき追いこせ」の原理に鼓吹された国民教育によって支えられていたということを、みおとすことはできない。
そういうことのすべてが「本心からの思想などというものはない」と呟くときの「本心」を形成したといえるだろう。
戦時中に四十歳以上の世代では、思想が身についていなかったばかりでなく、身についていない思想に復讐する本心が彼らの「日本」と強く結ばれていたのだ。社会的に責任のある地位にいたということも、そのむすびつきを強めたにちがいない。またすでに享受していた便宜を失いたくないという動機をも生んだに違いない。』

さて、如何でしょうか・・?
また、現在読んでいるこの著作については、また後日取り上げるつもりです。

そして、面白いことにこうした現象とは、自身の場合、夏に何故であるか割合多く生じるように思われます。
また、こうした現象とは、単なる自身の思い込みでなく、何かしらの根拠があるものであれば、それはシンクロニティあるいはセレンディピティと称されるものなのでしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』








2017年7月17日月曜日

20170717 ブログ記事を書き続けていて徐々に変わったことについて・・

A「これまで2年以上継続的にブログ記事作成に取り組んできましたが、ここ最近はどうもやる気が湧いてきません・・(苦笑)。

しかし
、そうした状態であっても、いざ書き始めますと、どうにか、ある程度の文量は毎日書くことが出来るようにはなりましたので、ブログ記事作成の開始当初であった2年前と比較しますと、文章を書く能力の向上は(多少)為されているのではないかとも思われます・・。

また、
当ブログ開始当初の目的が『自身の文章を書けるようになりたい』というものでありましたので、あるいはその目的は既に遂げられているのかもしれません・・。

しかし、それでも、もうしばらくは記事作成を継続しようとは考えておりますが・・(笑)。

具体的には1000記事まで到達すれば良いとは思うのですが、その場合、この調子にて記事作成・投稿を継続し、来年の晩春・初夏あたりに達成となる目算が立ちますが、そこまで考えてみますと、それはかなり先のことのように感じられますので、とりあえず毎日目先の一記事一記事を積み重ねていくことにします・・(苦笑)。

また、それに関連し、ここまでブログ記事作成を継続してはきましたが、ここまで続けることが出来た自身内部での要因とは、いくつか考えられ、そして当初これを始めた理由とは、さきに書いた通りではあるのですが、それは同時に投稿記事数の増加に伴い、徐々に変化していき、最近強く感じることは『読んでくださっている誰かのために書いている』ということであり、おそらく現在では、その思いにて書き続けている部分が少なからずあるといえます・・。

とはいえ、それは特定の誰かというわけでもなく、ただ、投稿された記事に対しての反応を見ておりますと、その中に適切さ・鋭さ・才知の煌めきといったものが感じ取られ、こちらとしても、どうもさらに反応し、書き続けてしまうのです・・(苦笑)。

おそらく、こうした反応を見出すことが出来なければ、これまでのようなカタチでの記事作成は為されなかったものと考えます。

また、その意味において特に最近は『読んでくださっている誰かのために書いている』と評しても良いのではないかと思われるのです。

同時にこのことは、開始当初にはなかった『感じ・考え』でもありますので、その意味でも自身はいくらかは進歩したのではないかとも思われるのです・・(笑)。

しかし、とはいうものの、実際の私とは、それと同時に、以前のブログ記事に書いた通り、さきに応募した公募での結果により、落ち込んでいる部分が未だ少なからずあり、これをどうにか(概ね)克服したいとは考えているのですが、なかなか『次に行こう!』といった元気を取り戻せないでいる状態と云えます。

そのために色々と自分なりに行動し、そして以前にこのことを書いた時に比べれば、またさらに多少は良くはなってきたのですが、それでも、もう少し自分なりに動き続けなければ、これを(概ね)克服し、また次の応募に対して手が付かないように思われます。

それ故、今後もとりあえず活性が上がり、勢いがつくまで動き続ける以外にないとに思われます・・(笑)。
(季節が(活性が上がる)初夏であって本当に良かったです。)

ともあれ、このさき、これまでの経験を生かすことが出来るような大学での職種に本当に就くことが出来るのであろうか・・?

*おかげさまで昨日投稿分の記事も比較的多くの方々(30程度)に読んで頂けました。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模な自然災害によって被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しております。』














20170716 地域にて共有される認識と措辞への能動性について・・南北九州の違い

A「7月13・14日投稿分の記事の閲覧者数はその後も伸び続け、併せて150近くとなっております。

また、こうした題材を書いておりますと思い起こされるのが、以前読んだ野上彌生子著の『迷路』であり、この著作内にたびたび描かれている我が国近現代あるいはそれ以前からの歴史と絡めたさまざまな社会の様相およびその変化とは、大変興味深く、また、そうした著者の視点に13日投稿分記事に出た夢野久作の著作とのある種の類似性を考えさせられます。

また、その類似性は、その他のこの地(北部九州)が輩出した多くの研究者・著述家などについても、ある程度共通した何かがあるのかもしれないと考えさせれます。

そのように考えてみますと、北部九州一帯には、古来より歴史などを含めた『何かを物語る・措辞する』ことについて古来より続く何かがあるのかもしれないと考えさせられます。

そして、その基盤となるものが、おそらく表立って主張されることは少ないのかもしれませんが『我々こそが古来からの正統な日本人である』といった、いわば『真っ当ともいえる矜持』ではないかと思われます・・。

こうした矜持があってこそ、はじめて現今生じている出来事の価値・意味合いといったものを精確に認識し、歴史上に配置出来るといった一種の能動的な認識に結節することが出来るのではないかと思われます・・。

また、こうした認識とは、往々にして男性的とも称されるのでしょうが、それもまた、当地が古来よりさまざまな海外からの影響・圧力に対して真っ先に対応を迫られた地域であったことに起因しているのではないかと考えられます。

こうしたことを私見を交えて別言しますと
『あなた方中央におられる方々には分からないかもしれないが、我々は古来より外から訪れるものに対し、真っ先に対応してきたからこそ、現在の我が国があるのです。それ故、現在中央にて問題となっている種々案件の多くは、その根源を辿ってみれば、既に我々がどこかで経験し対応してきたことでもあるのです。また、そうした経験を持つ我々の為す判断、述べる意見であるからこそ、そこには少なくとも、ある一定(以上)の価値があるということを認識して頂きたい。』

といった感じになるのではないかと思われますが、こうした地域からの主張とは、時代の状況によって語調強弱のトーンが変化するのでしょうが、何れにせよ、その基層にあるものとは、さきに書いたような地域にて共有化された認識ではないかと思われます・・。

また、そうした(地域特有の)認識がなく、どの地域もこれといった特徴がなく、平均化されてしまった我が国とは本当にツマラナイのではないかと考えます。

しかし他方において、極論ではありますが、こうした認識およびその価値とは、その地域を一つの市場としてか見做していない他の地域・国々にとっては、おそらく、どうでも良いことなのです・・。

ただ、その地域が自らに利益を齎してくれるのであれば・・。

そしてまた、ハナシは戻り、そのことを古来からの歴史およびそこでの経験を通じて強く認識している地域であるからこそ『何かを物語る・措辞することについて』の価値を認め、そうした認識の共有が為されているのではないかとも思われます・・。

とはいえ、こうしたことは南九州および南西諸島においては、多少事情が異なるようであり、また、そうしたことが現在に至るまでの当地域が含まれる領土問題における我が国の対応にも影響を与えているのではないかと思われます・・。

また、その意味で西南戦争とは、やはり少なからぬ影響を今なお、この地域に与えているのではないかと考えます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』



2017年7月16日日曜日

20170715 『わかる』およびその過程について・・

A「時折『君は歴史や文学についてわかっているのか?』といった意味のことを尋ねられることがありますが、このように問われますと『わかっています!』と万全の自信をもって返答することはできません。

しかし、考えてみますと、この『わかっている』というが、いささか、くせ者のようであり、こうしたものとは、各自各様に意見・好みといったものがあり、本質的に理系学問分野におけるような『定量化された要素の相対的な比較』といったものに還元できない性質があると考えます・・。

とはいえ、こうした場合においても、自身の思うことを正直に述べるのが相手に対する礼儀であると考えますので、自身はそのように返答している次第です。

また、他方で、歴史に関連するのかもしれませんが、たとえばある種の雨乞い祭祀、出土した銅鐸、古墳の石室などに描かれている、もしくは刻まれている文様・絵画に関しては、おおまかな時代、地域もしくは意匠の背景に関しては(そこまで)的外れでない見解を述べることが出来るのではないかとも考えます・・。

これは実際の見分・書籍からの情報に基づいておりますが『まあ、大体そのようなものだろう』といった知識の体系を保持していることを自覚しているからであり、現在考えてみますと、そこに至るまでの過程は、それなりに時間を要し、且つ面倒な作業であったと云い得ます。

しかし、そのように考えてみますと、これはさきに書いた雨乞い祭祀・銅鐸・古墳など以外の分野においても、自身がある程度専門的な内容を述べることが出来る背景には、そうした過程があることが、あらためて認識されてきます。

加えて、そうした、ある程度専門的な内容を話す場合においては、適当なことを云いますと、即座にバレてしまうのは、どの分野でも同じではないでしょうか・・?

とはいえ、であるからといって、私はそれら分野を『わかっている』とは考えていません。

そして、それに関してもまた、医歯薬理工系を専攻とされる(た)方々とて同様ではないかと考えますが、如何でしょうか?

ともあれ、その『わかった』について今しばらく考えて、思い返してみますと、ある程度の経験・知識が集積された後、一度そこから『離れる』ことが、さらに一段階先の『わかる』うえで重要なのではないかと思われます・・。

これは未だ感覚的なことではありますが、そちらの方が、忘却とも昇華・消化?ともつかない状態、新たな気持ちにて、その対象に接することになり、さらには、さきの無意識化された経験・知識によって進捗も早くなり、結果的に一段階先の『わかる』に達することが出来るのではないかと思われます。

また、
こうしたことを『たとえ』を用いて表現しますと『砂場の砂山遊びにて、その高さを高くするためには一度頂上を叩き、平坦にする必要があること』あるいは歌の歌詞にあった『三歩進んで二歩下がる』といったようなことではないかと思われます・・(笑)。

これは効率的には良くはないのかもしれませんが、同時に人間の生理的には、こちらの方が無理がなく、適しているのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

*昨日投稿分の記事も比較的多くの閲覧者数を得ることができました(50近く)。

昨年より昨今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった自然災害により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。』












2017年7月15日土曜日

20170714 地域毎に見受けられるある種の特徴について・・団体精神・昨日の続き

驚いたことに、昨日投稿分の記事の閲覧者数は、これまでの中でもかなり伸びました(60近い)。

これまでに自身はあまり表立って政治的なことは書かず、どちらかというと過去の歴史からの言及といった(間接的な)カタチを採り、そしてそれは昨日投稿分の記事においても同様であるはずなのですが、そうしたなか、冒頭に書いたような現象を見ますと『あるいは現在こうしたことを内心にて考えている方々が多いのかもしれない・・』とも考えさせられるのです・・。

また、それはすなわち『現在における本当・正統な保守とは一体何であるのか?』といった疑問につながるのではないかと考えますが、如何でしょうか・・?

たかだか百数十年間の我が国の近現代においても、その(本当・正統な保守)系譜とは錯綜しており、特に都市部・首都圏におけるそれは著しく、まさに『一概には云えない状態』と評しても差支えないと考えます。

一方、そうした視座を以って地方都市での状況を観察してみますと、もちろん、それはそれで複雑であり、錯綜しているのでしょうが、それでもさきの首都圏もしくは(近現代の)権力の貸し座敷におけるほどの無秩序とも見受けられる勢力積層の様相は見受けられず、数年程度在住し、同時に当該地方都市に関しての書籍・文献をある程度読むことにより、その概要らしきものとは、どうにか(ボンヤリと)見えてくるのではないかと考えます。

以前にもブログ記事にて書きましたが、その点において鹿児島とは西南戦争という近代以降の我が国において最大規模の内乱が勃発した地域であることからか、あるいはそれ以前からの歴史によるものか、やはり特徴的ともいえる地域性を有しており、私の在住期間においても少なからず、その御先祖が維新回天期・西南戦争に従軍、そして下獄された経験を持つ方々と見知る機会がありました。

そして、こうした方々は総じて、御先祖が罪人として獄に繋がれたことを恥じる様子は全くなく、逆にそれを誇っているようにも見えました。

自身としては、そうした御先祖に対する態度とは極めて健全なものであり、また、古代より数多く中央に対しての反乱を起こしてきた隼人の面目を躍如するものであると、感心を通り越し羨ましく思う次第です。

とはいえ、その一方において、現在の鹿児島では、そうした背景を持つ方々の多くが、おそらく地域における手堅い保守層に属しているのではないかと思われます・・。

そしてまた、このことは昨日投稿分のブログ記事に書いた筑前・福岡の旧黒田藩家臣団を基軸とした玄洋社が当時の明治藩閥政府・有司専制に対する、ある種の圧力組織・監視機関として自らを任じたのに対し、鹿児島においては、あるいは西南戦争での地域勢力の敗北により、地域勢力内部構成に地殻変動らしきものが生じ、さらにその後の太平洋戦争の敗北によっても同様の現象が生じた結果として、さきに書いたような状況になっているとも云えますが、その経緯については、大変興味深い題材ではあるものの、調べていきますと、かなり大がかりなものとなるのと思われますので、ここでは触れません・・。

そういえば、ここまで書いており不図思い出されたことは、かつて竹山道雄がその著書『昭和の精神史』において軍人の団体精神について一項を設けておりましたが、我が国はもとより他の国々においても、時代が変革期に差し掛かると、こうした男性的とも云える団体精神の活性化が生じるのではないかと思われました・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から今日に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった自然災害によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。








2017年7月13日木曜日

20170713 結社の地域性 自由民権運動および玄洋社から思ったこと

少し前に夢野久作著「犬神博士」を読んだことから、その著者である夢野久作こと杉山直樹について少し調べるにつれ、その著作(「犬神博士」)内での描写が(やけに)生々しいことに納得がいきました・・。

つまり、それらは著者御自身が実際に見聞き・体験した出来事を主たる題材として、この著作は書かれているのです。

そうしますと、自然、著作内に度々登場する当地筑前・福岡を基盤とした結社『玄洋社』に対しても興味が生じることになります・・。

とはいえ、この『玄洋社』とは、これまでに自身はまったく知らなかったわけでもなく、この結社あるいはその構成員とは、日本近現代史に関しての著作をある程度読んでおりますと、概ね登場してくるといっても良いといえます。

その上で、何故、この『犬神博士』を読了後に『玄洋社』に対しての興味が湧いたかといいますと、それは、これまでに自身が近現代史に関しての著作を通じて抱いていた『玄洋社』に対してのイメージと大きく異なるからであるといえます。

いささか通俗的な印象ではありますが、自身はそれまでに『玄洋社』とは、発祥の地、筑前・福岡(黒田藩)の地縁に基づいて結成された右翼・国粋主義的な結社であり、それはかつての大日本帝国の海外進出の先兵的な活動を表裏内外にて行い、また国内においては大資本、政党等の実行組織として、さまざまな国民に対する抑圧行為に加担したというような決して好ましくない印象を持っておりました。

また、それは現在においても、この結社とは、世間一般でいう『右翼団体の始祖的な存在』というのが通説といったところになっているのではないでしょうか?

しかし、その成立の経緯および活動などについて、未だわずかではありますが、関連書籍をあたってみますと『そればかりではないのではないか?』あるいは『なぜこうした変遷が為されたのであろうか?』といった、さきに書いた『イメージと異なる』ことから生じる違和感そしてそこから興味が惹起されたといえます・・。

加えて、その成立の経緯について考えてみますと、これまたいささか通俗的・通史的な解釈となりますが、西南戦争での西郷軍の敗北により、武力による明治政府の打倒が不可能であることが一般的な認識とされると『では、議会を開設し言論を通じて政府に対しての影響力を行使して行こう。』と考えたことから高まりを見せたのが土佐・高知を主たる基盤とした『自由民権運動』であるといえます。

そして、それと同様の時代精神の反応によって筑前・福岡にて結成された結社が、さきの『玄洋社』ではないかとも考えられるのです。

こうしたもの(反応の仕方)にもおそらく地域性があるのではないかと思われます。

ともあれ、この『玄洋社』の社則とは「皇室を敬戴すべし」・「本国を愛重すべし」・「人民の権利を固守すべし」といったものであり、私見ではありますが、これらは現在においても十分に価値を持つ理念であると考えます・・。

とはいえ
、二番目の『本国』とは一体どういった意味であろうか?とは考えさせられ、これもまた古来より異文化摂取の窓口とされた地域が持つ一種独特な地域特性の発露ではないかとも思われます・・。


また、この『玄洋社』とは、西南戦争にて敗れた西郷隆盛の遺志を継ぐといった側面もまたあり、これがおそらく西欧的な思想をその背景に据えたさきの自由民権運動と大きく異なるところではないかと考えます。

さらに西郷隆盛にて思い出されたのですが、来年の大河ドラマにおいては西郷隆盛が主人公とのことですが、現在のテレビドラマにて、この人物を史実に忠実に描くことは、かなり無理がある、困難ではないかと思われます・・。

そして、以前にもブログ記事にて書きましたが、それよりも西南戦争前後の土佐の自由民権運動、筑前の玄洋社などでの群像をドラマ化した方が、あまり無理はなく、且つ現在のさまざまな思想を持つ方々に対し広範に受け入れられる可能性が高いのではないかと思われますが、如何でしょうか?

そういえば、かつて司馬遼太郎が生前、その著作『坂の上の雲』のテレビドラマ・映画化を禁止していたのは、その内容から戦争賛美および社会の右傾化が惹起される危惧であったからであったと読んだ記憶がありましたが、この著者の危惧とは単なる杞憂であったのでしょうか・・?

とはいえ、その一方で、やはり昨今のアジア情勢とは多少混乱はしてはいるのでしょうが・・。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって亡くなられた方々のご冥福を祈り、また被災された地域の早期の諸インフラの復旧に加え、その後の速やかな復興を祈念しています。

2017年7月12日水曜日

20170712 ブログ記事の面白さを決めるもの・創造・創造力とは・・

昨日投稿分の記事は思いのほかに多くの方々(31)に読んで頂いておりました。

これまでほぼ毎日ブログ記事を作成、投稿しておりますが、やはり読んでみて面白いと感じられる記事は、より多くの読者を得ることが出来ているのかもしれません。

とはいえ、作成している本人からすれば、一体どのような記事が面白いのかとは、今現在に至るまであまりよく分かっておりません(苦笑)。

それでも、ある程度実証的であり、且つ新しいと思われる知見を平明な文章にて書き得たと自身でも感じられる記事とは、やはり、それなりに多くの方々に、そして継続的に読んで頂けている傾向があるように見受けられます。

しかし、そうした記事を読み返してみますと、不思議なことに『どのようにして、その記事内容を着想し得たのか?』がよく分からないことが多いのです・・(苦笑)。

それらは、おそらく当初、どちらかというと漫然と書いていたのでしょうが、興が乗るにつれて徐々に考え・思い付きが増幅していき、面白い先の展開の着想に至ったのではないかと思われます。

そして、こうした状態に至った自身とは、やはりそれなりに文章作成に没頭しており、以前のブログ記事にも書いたとおり『自身の客観視を許さない状況』にあるのではないかと考えます・・(笑)。

言い回し・表現によれば、こうした状態とは『自分になりきっている』・『忘我』・『集中している』などと称されるのかもしれませんが、しかし、こうした状態とは『他者の視線を気にしていない』という意味では、決して良いものとは評し難く、何かしら動物的、原初的と評しても良い状態ではないかと考えます・・(苦笑)。

また、そのようなことを考えてみますとニーチェがその著書『悲劇の誕生』にて述べている創造の源泉たる原初的な混沌の要素(ディオニュソス的)とそれに秩序を与える理知的な要素(アポロン的)との葛藤のことを思い起こさせます。

また、そこから次いで『創造的要素・創造力が疲弊・枯渇した社会とは、一見全てのものが衆目に適い、こぎれいになったともいえる社会なのではないだろうか?』とも考えさせられるのですが、しかし、実はこうしたことは現在の主に都市において理想的とも云える要素が兼ね備えられた状態をも示しているのではないかとも思われるのです・・。

おそらくこうした状態とは、さまざまな人間の為す行動・行事が形式化され、外見としては華やかでもあり、あるいは立派であるのかもしれませんが、徐々にそれらの背景・基層にある理念・思想といったものが忘却・形骸化され、そして、それに伴い『文明そのものの力』もまた経時的に損なわれていくのではないかと思われるのです・・。

また、それは昨今の科学技術の進化発展により、より多く見出すことが出来るようになった定量化による相対化といった一見科学的ともいえる視座を軸としてもまた、生じ得るのではないかと考えます。

それ故、特に現代の我が国においては、原初的と評されようが、衆目に適わなくとも、外見的なスマートさなどをあまり重要視しない創造に適した『場』が自然に発生するような社会全般における鷹揚さ・寛容さを取り戻した方が良いのではないかとも思われます・・。

そしてまた、こうしたことには社会における男性的要素と女性的要素の葛藤といったものが少なからず影響しているのではないかと考えますが如何でしょうか・・?

一方、こうしたことは、さまざまな地方においては、また多少事情が異なっているのかもしれませんが・・。

ともあれ、今回もまたここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨といった自然災害により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。










2017年7月11日火曜日

20170711 観察された事実・知識の集積からより大きな思想へ至る方法とは・・?【書籍からの抜粋引用あり】

当たり前のことであるのかもしれませんが、我々日本人と欧米あるいは中東などの所謂一神教を奉じる人々との間の『宗教』あるいは『神』に対しての概念とは大きく異なるといえます。

我々日本人は古来より草木から川、山、動物、人間に至るまで、何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物に対して『迦微・神』(カミ)の字をあててきました。

地方に行きますと御神体が山であったり瀧であったりすることは割合一般的であることは周知のことと思います。

そして、現代の我々もまた、あまりそうした状況を不思議に思うことなく受け入れて過ごしていると云えます。

こうした神に対する考え方とは『汎霊説』(Animism)と称されるものであり、平たく云えば『すべてのものは神(霊)である』といったものであり、さらにこれを我が国特有の言い回しにしますと『八百万の神』となります。

そして、この『八百万の神』とは、冒頭に書いた『何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物』とも結び付くのですが、こうした神々に対する観念とは、欧米人に云わせると『原始的な宗教ともいえる自然崇拝に近い』となるのでしょうが、原始的であるかどうかはさておき(原始的なものが同時に(時代を通じ)普遍的であれば、それは決して原始的ばかりとはいえない)たしかに自然崇拝に近い感情を我々日本人は今なお保持しているといえます。

そして、そうした感情に基づいた思想とは決して閉鎖的ではなく、外来の事物の摂取に対して積極的でさえあるといえます。

また、おそらく我々はそうした(外来の事物の摂取)対象の一環として12月25日の神の御子の生誕祭もまた、ほぼ無意識ながら受け取っているのではないかとも思われます。

それが、起源の地でのそれとは異なる思想背景となっても、それはあまり考慮すべきことではなく、大事なことは、ただ『その神の御子の生誕を祝っている』といった『感情』あるいは『行い』そのものといったことになるのではないでしょうか・・?

しかし、であるからといって、それは決して否定されるべきものではなく、良い悪いを抜きにして、単に『そうした性質も持っている』ということであると考えます。

また、そうした文化土壌において培った性質とは(極めて)高度な観察力を要する視覚的・即物的な学問・研究においては有効であり、それが『理系立国としての我が国の近現代の基礎となる性質』であると云えるのではないでしょうか・・?

そして、そうしたことを念頭に置きつつ、あるいは応用しつつ、観察現象に対して精確にコトバを当て嵌めていき、何かしら普遍的な思想・考えといったものの構築を試みれば価値があるのではないかと考えるところなのですが、自身も含めて我々日本人とは、この段階がどうも苦手なのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされた書籍の記述を以下に抜粋引用しようと思います・・。

岩波書店刊 J.S ミル著 竹内一誠訳 『大学教育についてISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115

『科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。

事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。

そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。

一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。

われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。

われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。

しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。

とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。』

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震、大雨といった自然災害によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。











20170710 ネガティブなことがらの大きさが創造に与える影響について・・

昨日投稿分の記事もまた、これまでに作成した記事の中では平均的な閲覧者数でした。また、そのことから、自身は一種の安堵感らしきものを感じます・・。

それはつまり、こうしたネガティブなことがらを記事として書いても、あまり変な受け取られ方はしていないということであり、またそこから『この先も、もうしばらくは記事作成を継続しようといった』気持ちを生じさせてくれます。

とはいえ、昨日の記事を投稿して以来、今現在に至るまで著しく元気になったというわけでもありませんが同時に、以上のことから、その心境とは幾分かはマシになったのではないかとも思われます・・。

そして、それが継続し、ある程度の改善が為されたと感じられたら、今週中にでも応募書類の作成を再開したいと考えております・・。

さて、そういえば昨日投稿分の記事後半部において『継続的な文章の作成を行うためには、その前提として、ある程度の知識・思想の蓄積がなければ難しいのではないか?』といった意味のことを書きましたが、これはたしかに一理あるのではないかと考えます。

しかし、であるからといって、知識・思想さえ有していれば継続的な文章作成が出来るというわけでもなく、それに加えて何と言いますか、一種の感情・精神の【継続的な】発動あるいは気合いのようなものがなければ難しいのではないかとも考えます・・。

そして、この要素において、ネガティブなことがらより生じる精神の停滞、落ち込みといったものは文章の【継続的な】作成を妨げるものなのです・・。

そして、それは文章の作成のみならず創造的な活動全てに対しても当て嵌まり、そのことから、こうした要素【精神活性の程度・状態】とは、さまざまな『時代精神』あるいは『地域性』に対しても大きな影響を与えているといえ、さらには、こうした要素を抜きにして国、地域の歴史を生き生きと『物語る』ことは不可能ではなかろうかと考えます・・。

一方、『ネガティブなことがらを糧として創造の原動力にしているといった場合もあるのではないか?』といった意見もまたありますが、たしかにそうした要素【ネガティブなことがらと精神の発動・気合い】の内面での葛藤により創造的な行為を為されるということは、創造活動の一つの王道ではあると考えますが、そうしますと、ここで問題となるのはネガティブなことがらの『大きさ・程度』であり、それが感情・精神にとって大きすぎる、耐え難いものであれば創造の妨げとなり、一方慣れ得る程度のものであれば、それは内面での葛藤をひいては創造を駆動させる一つの要素ともなるということです。

その意味で昨今受け取った一連の公募での『選考もれ』の通知とは、自身のブログ記事作成を断念させるほどに大きなものではなかったものの、ある種自身を精神的にジリ貧、無気力な状態に追い込んでいたと評することが出来るのではないかと思われます。

そして、そうした状況を改善・打破するため、そうした状況自体を書こうとする試みとは、あるいは愚かではあるのかもしれませんが、同時にそうした試みとは、行ってみる価値はあるのではないかとも思われます・・。

現にそのことによって、一つのブログ記事は作成することが出来たようですし・・(笑)。

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださったみなさま、繰り返しになるかもしれませんが、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって被災された地域での出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。