2016年3月31日木曜日

20160331 朝に得た記事の着想が・・

朝の時間帯は文章がよく浮かんできます。

電車の中で書籍などを読んでいない場合、よくこのブログの題材を考えております。

しかしながら概ね、こういった考えごとをしている時は、車内が大変混雑している時間帯であり、ノートへの筆記ができません。

そのため、その内容をあとで記しておこうと思い、電車をおり、落ち着いて筆記できる環境に身を置いてみると、考えた内容をあらかた忘れており、大変歯がゆい思いをします・・(苦笑)。

して、現在書いているこのブログ記事の内容は、電車の中で考えたことをどうにか思い出そうとして書き始めた次第です・・。

とはいえ、ここまで書いていて、この書き出しとは、考えたことを思い出す場合には適切ではないのではないかと考えはじめました・・。

そして、そうした考えにとらわれますと、今度はますます、思い出すことが困難になってくるように思えてきます・・(苦笑)。

ちょうど「ネバーエンディング・ストーリー」の悲しみの沼のように・・。

↑このように話が小ネタの方に脱線してきますと、今度はその小ネタの方で話を続けようとするクセが出てきます・・(苦笑)。

そういえば、この映画「ネバーエンディング・ストーリー」の監督、音楽とは、ドイツの戦争映画の名作である「Uボート」と同じグループによって製作、作曲されたものであったと思います。

そういわれて各々のテーマサントラを聞いてみると、何となく疾走感が似ているのではないかと思えますが如何でしょうか?

また別件ではありますが、最近岩月謙司という方の著作を古書店にて見つけ立ち読みしましたが、大変面白かったです。

現在この方は不遇であるとのことですが、もう一度見直してみては如何でしょうか?

ともあれ、こうした著者の不遇とは私にはどうも「トニオ・クレーゲル」を想起させます。
何故、こういった人々は、往々にして逮捕されるなり不幸な状況に追い込まれるのでしょうか?

そして、その背景には一体どのようなメカニズムが働いているのでしょうか?

ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。




Das Boot Theme


2016年3月30日水曜日

20160330 能動性と(社会的)有用性について

はじめて読む、ある著者による著作を読み続けていますと、その当初において、何といいますか、頭が疲れ、肩が凝ります。

そして、そうした状態がしばらく続いたのち、その文体に慣れ、頭の疲れ、肩の凝りを感じなくなり、しばらくすると読了するのではないかと思います。

では、読了した時には、読み始め当初におぼえた頭の疲れ、肩の凝りとは一体どのように慣れ、あるいは吸収、解消されていったのでしょうか?

大抵の書籍をある程度集中して読んでおりますと、その当初は、やはり疲れるものです。

そして、これは勉強が疲れるということと共通する部分が多くあるのではないかと思います。

しかし、ここに個々人の性質、特質に依存する情熱、好悪の感情が関与してきますと、そういった事情が大分異なってくるのではないかと思います。

そして、こうした個々人の、より根源的な部分に還元される各学問、勉強に対する情熱、好悪の感情を他の「社会における有用性」などに置き換えてしまうと、それは当初こそは「計画的とされ」良いのかもしれませんが、徐々にその精神的活力、生命力を奪い、扼殺し、その後の才能、性質、精神全般の発展可能性をなくしていってしまうのではないかと思います・・。

しかしながら、大きく見ると社会とは多大なる上記のような発展可能性が否応なく摩滅された才能・性質を犠牲として成り立っているのかもしれません。

そうであれば、こうした意見を書くことは社会にとって空気を読まない、世間様を顧みない、大変無礼な行為となるのかもしれません。

なぜ、お前にそのようなことを書く権利があるのか!?』
といった感じに・・。

しかし、それは無礼であったとしても、同時にそれが「間違い」であるという根拠にはなりません。

あるいは、そのような社会であったからこそ、少なくとも近代以降の我が国とは、様々な変遷、闘争の後、良くも悪くも現在のような状態に至っているのではないでしょうか?

多少話は変わるかもしれませんが、首都圏、都市部におりますと、髪の毛を茶色系統に染めた方々が多く見られます。

これは他の東アジア人においても同様に見受けられますが、
何故髪の毛をこうした色に染めるのでしょうか?

私から見ますと、これはかつてのお歯黒の風習などに類似する行為ではないかと思われます。

現在においては、あまりにも日常的過ぎ、そのような視点にはなかなかなりませんが、今後しばらくすると、髪の毛を染める行為に対し上記のような視点もまた出てくるのではないでしょうか?

好きこそものの上手なれ、精力善用、一億総活躍・・?。

ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。

2016年3月29日火曜日

20160329 勉強方法について

昨日のブログにて記しましたが、先日来一つの小説、著作を集中して読んでおり、また他の時間では必要に迫られ、以前専攻した分野に比較的近い領域の書籍等を読んでおります。

私の場合、このような状態になりますと、他の書籍を斜め読みすることが出来なくなる傾向があります。

おそらくこれは私の頭脳のキャパシティーの問題ではないかと思います(笑)。

とはいえ、同時にこうした状態にて書籍等を読むことは、頭が疲れ、肩が凝る反面、一種充実した感覚を与えてくれます。
こうした状態にて書籍を読むことの方が身につくのでしょうか?

そうであって欲しいと考えるのが一般的に健全であると思われるのでしょうが、私個人の経験に照らして考えてみると、それはよくわからないのではないかと思います。

自身が一番快適、あるいは苦痛と感じた勉強方法こそが、もっとも知識、学識が身についた、あるいは身につかない勉強方法であると考えることは、実は短絡的な考えであるのかもしれません。実際のこうしたことは混沌としていると思います・・。

それ故、そこに学び続ける必要性、楽しさがあるのではないかと思います。

しかし、こうしたことに限らずとも、おそらく我々とは、半ば無意識であるかもしれませんが、こういった論法をあてはめて短絡的に物事を考えてしまうクセがあるように思います。

話は少し変わるかもしれませんが、昨今書店に行きますと「他人の心を操る」と題した、目的とした書籍が堂々と書棚に並んでいるのを見かけます。

時間があれば、ああいった書籍はどのような人物が購入し、どのように読み、そしてどのように実生活において応用しているのかを密かに観察してみたいと思います。

また、実在のそうした書籍に基づく、上記の一連の行動をコントのようにしてみたら、なかなか面白いのではないかと思いますが、如何でしょうか?

ある人が話している内容が知性のどの程度の深度から発せられたものであるかどうかとは、ある程度の何か(これがよくわかりませんが)に達すると何となく分かってくるのではないかと思います。

また本来、笑いとは、そうしたことと密接な関係があるのではないでしょうか?

そしてまた、それは国同士、国際間においても同じようなことがいえるのではないかと思います。

情報化の進展した現在社会において、施政者、文化的指導者層等の半ば無意識的、近視眼的な愚行が、全世界で閲覧される社会において、その真価を発揮するのは一体どういった価値、考えなのでしょうか?




2016年3月28日月曜日

20160328 250記事到達

先日、以前から気になり、ブログ記事にも記した某著作の程度の良い古書を神保町の書店にて偶然見つけ、しばらく立ち読みしたのち購入しました。

この著作は上下巻、各々600頁程度の文庫本ですが、とりあえず購入したのは上巻のみです。

この作品の時代背景は昭和初期であり、徐々に戦時体制に傾斜してゆく我が国社会の様々な側面を描いております。

ちなみに私から見て作風、時代背景が類似していると思われるものとして映画「戦争と人間」あるいは加藤周一が自らの若い頃を綴った「羊の歌」あたりが挙げられると思います。

これもまた個人的な意見となりますが加藤周一の「羊の歌」は大変読みやすいと思います。

この著作は現代を一つの時代として相対的な視点で捉えてみたいと考える方々にとって、なかなか面白く読むことができるのではないかと思います。

さて、話はさきの作品に戻りますが、その著者は女性であり、これは私としてはかなり珍しいことではないかと思います。

おそらく女性著者の長編を読むことは初めての経験です。

とはいえ、この著作は読んでいると、かなり引き込まれてゆく感じがします。

その原因は、女性独特の情感の緻密な描写に加え、同時代を生きた人間としての確かな歴史認識が主要なものであると思われます。

また、こうした感じとは、ここ最近味わったことがありませんでしたので、私の知的好奇心とは、どうやらまだ枯渇はしてないようです・・(笑)。

また、それに加えて最近、以前学んでいた分野の周辺分野を学ぶ必要性が出てきました。

この分野も大変奥が深く時間がかかりそうですが、既知のものに結び付けつつ、ゆるりゆるりとやってゆこうと思います。

ここまで読んでいただいた皆様どうもありがとうございます。
この記事で250回目の投稿記事となります。
そして、次の目標は300回目の投稿記事とします。
今後ともどうぞよろしくお願いします。


2016年3月27日日曜日

20160327 学問に対しての能動性と社会の存立について

本来、学問や研究といったものは、好きであるから行うものであり、その基本的な態度においては自発性、能動性が強く要求されるのではないかと思います。

しかし、ある専門的な職業に就くことを目的とした学部、学科の勉強においては、この限りでなく、多くの情報、体系的な知識を効率よく吸収することが要求されます。

こうした態度とは、吸収するための勉強を自発的、能動的に行おうと、基本的な態度とは、その専門的な職業に就くことを目的とした、ある意味受動的なものではないかと思います。

しかし、そうであるからといって私はこれらの専門的な職業に就くことを目的とする学部、学科に対し悪感情は全く持っておりません。

むしろ、反対にそうしたことが出来る能力、才能に対して単純なる敬意を持ちます。

その点、私は、自身の自発性、能動性を持ち得る分野に対してのみ、四苦八苦して、どうにかそうした情報、体系的知識を吸収することができる人間であると認識しております。

とはいえ、伝統的に我が国の社会全般において有用とされるのは、個人の自発性、能動性にかかわらず、より多くの情報、知識を効率的に吸収できる人材の方ではないかと思います。

そして人工知能が進化しつつある現在の状況において、我々人間とは、より各々個人の自発性、能動性に根付いた感性、知性の発展に重点を置いても良いのではないかと思います。

何故なら、そちらの方が持続的発展の可能性があるのではないかと思うからです。

そして、その意味において理系学問分野の教育に重点を置くことは大変素晴らしいことであると思います。

しかし、その一方において、安定した政権、企業などの組織運営を阻害する可能性があるという理由から、古来よりの文系学問分野全般を蔑ろにすることは、長い目で考えてみますと、かなり危険なことなのではないかと思いますが如何でしょうか?




2016年3月26日土曜日

20160326 修士号についての私見

最近のニュースでMBAというコトバがよく出てきましたが、これはMaster of Business Administrationの略であり、日本語にしますと経営学修士ということになり、おそらく専門職学位の一つであると思います。

また、さらに大きな分類では、文系学問分野の修士号ということになると思います。

多くの学問分野において、同一の修士号という名称が与えられてはおりますが、これは各々学問分野により随分とその扱いが異なるのではないかと思います。

たとえば工学部をはじめとする多くの理系学部卒のうち、かなりの割合が大学院修士課程にまで進みます。

他方、文系学問分野の多くでは、さきの理系学部ほどの割合が大学院修士課程まで進学することはないと云えます。
しかし近年は教育、会計、法律などの専門職学位などが存在することから、この限りではないのかもしれませんが・・。

しかし、それでも我が国において、全体的に見て、文系よりも理系学問分野の方が、より多く大学院修士課程に進む傾向があるとは云えます。

そのような中、私は反時代的ともいえる専門職大学院でない、昔ながらの文系学問分野の大学院修士課程に地域学、民俗学を専攻するため、五年の社会人生活の後、進みました。

私は学部時代、部活動に没頭しておりましたが、同時に古今東西歴史の知識に関しては、小学生以前からの(根拠のない)自信を持っておりました・・(苦笑)。

ちなみに、この自信とは、その後随分傷つきしましたが、現在なお保持しております(笑)。

それはともかく、以上の理由と、いくつかの経緯により、私は大学院に進むことを希望するようになっておりました。

大学院に修士課程、博士課程あるいは博士前期課程、後期課程などがあることも知らずに・・(苦笑)。

そうした自身の希望を文系学問の研究者であった親戚、知人に告げたところ『まあ、とりあえず数年くらい働いてみて、それで大学院に進みたければ進めばいいのではないかな?』
といったことをいわれ、結果的にそのようになりました・・。

とはいえ、学部時代に進みたかった大学院とは、首都圏にある某大学であり、その分野はヨーロッパ文化専攻でした。

それが五年の社会人経験、特に南紀にて暮らした経験により地域学、民俗学専攻を希望するようになっておりました・・。

この希望する専攻の変化とは、私が『自国の文化、民俗について殆ど何も知らないことを痛感した』ことによります・・。

そして、ここでの修士課程の院生生活とは、それまでの人生で最も多くの書籍を読み、同時に議論をした時期であり、現在考えてみますと、遅蒔きの青春であったのではないかと思います・・(笑)

そして、その後、働きながら首都圏にある大学の博士課程に進み研究を続けたいと思うようになりましたが、どうしたわけか、異なった分野(歯学)の博士課程に進むことになりました・・。

ここでは色々なことがありましたが、どうにか学位取得にまで至ることができました・・。

この時お世話になった皆様、どうもありがとうございます。

とはいえ、現在の私とは、こうして取得した、頂いた学位に見合った人間であるのかどうかとは、イマイチよくわかりません・・(苦笑)。

また、よくわからないからこそ、この一連のブログ記事を作
成しているのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、ここまで興味を持ってお読みいただいた方々、どうもありがとうございます。



2016年3月25日金曜日

20160325 閲覧者数50000人到達

おかげさまで、昨日(20160324)で全期間のブログの閲覧者数が50000人に到達しました。

また、閲覧者の方々の反応を見ておりますと、私が思うよりも深く記事を読んでくれている方々がいらっしゃるようであり、それにより新しい記事を書く意欲が湧き、また「いい加減なことは書けないな・・」といった気の引き締めにもなります。
そういえば、今現在はほとんど見ることはありませんが、以前作成したSNSの記事、投稿は現在なおそのままにしてあります。

このSNSでの記事、投稿の文章とは稚拙ではあると思いますが、内容に関しては、特にいい加減、ウソを記したとも考えておりませんので、放置している次第です。

また、現在作成している一連のブログも、そのうちのごくごくわずかは削除しましたが、大部分は掲示しております。

とはいえ、以前は記事の作成自体が現在に比べ、かなり面倒くさく思っており、また自身の思ったこと、知っていることを記す、公表することに対して何かしらの抵抗感を持っておりました。

それは「私自身の持つ知識、そしてそれに基づく考えとは、私だけのものである。」といった考えに立脚するものであり、ある意味、独り占めを志向していたのではないかと思います・・。

それらの知識、考えが客観的に見た場合、それ(独り占め)に値するものであるかどうかはわかりませんが・・(苦笑)。

しかし、本質的に自分の知り得た知識、考えの独り占めを志向することは、良いことではないと私は考えます。
そのような志向を強く持つ個人、組織、国などは長い目で考えてみますと、衰亡してゆくのではないかと思いますが如何でしょうか?

み手の方々が私の書いた記事を興味を持って読んでくださるかどうかは別として考えてみても、それでも、とりあえず自身の知識、考えを言語化、文章化して発信することには何かしらの意味があるのではないかと思います。




2016年3月24日木曜日

20160324 D2病の特徴について・・

以前作成したブログ記事にも記しましたが、2012年の私には何かしら躁的(D2病)なものがあったのではないかと思います。

そしてそれは、後から訪れる反動を勘案して考えてみますと、なかなか怖い、恐ろしいものであると思います・・。

しかし、それと同時に、そういった時期には何かしら面白いこともまた起きるのではないかと思います。

2012年に関西某所にて開催された勉強会に出席した私は、自身の発表内容の資料、レジュメを作成しました。

そして、その中にトーマス・マンの「魔の山」内の主人公ハンス・カストルプとベーレンス顧問官の会話、やりとりを抜粋、引用しました。

これは発表内容の要旨を的確に表現していると考えたため、そうした次第です。

そして、面白いことに、その翌年2013年に封切られたジブリアニメ「風立ちぬ」内において、この「魔の山」に基づいた事柄、挿話がいくつか出てきました。

こうした偶然は私自身にとってはなかなか面白く、何故そういったことが起きたのか未だに不思議に思っています。

また、このことを知人等に話しますと、概ね『それは単なる偶然だよ。』といった感じに落ち着くのですが、私としては、たとえ偶然であったとしても『何故こうした偶然が起きたのか?』ということが気になり、不思議に思うところなのです。

とはいえ、こうしたことを深く考えてみても、適切な回答を得ることは難しいのではないかと思います。

あるいは、こうした躁的な状態において、個人の精神とは、時折、何といいますか集合的無意識の層のようなものに達することがあるのかもしれません

また、作家で精神科医の北杜夫もその著作の中で「躁の状態において人間の精神とは未来に向かって疾走する。」といったことが書かれておりましたので、何かしら、そういったものがあるのではないかとも思います。

よくわかりませんが・・。

また、そうしますと「人間の実在、本質を文字を以って迫る、描写することは可能なのだろうか?」と考えてしまうのですが、こうした疑問に対しジョセフ・コンラッドであれば否定的に考え「それでも敢えて勇気をもって表層に留まることこそが分別のある人間の姿勢だ。」といった感じになるのではないかと思います。

一方、バートランド・ラッセルやルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインであれば、人間の実在、本質に対し、文字、言語を用いてギリギリまで迫ろうとするのではないかとも思います・・。

そして、そこで思い出すのはロジ・コミックスというマンガのpp.250‐251に記されているセリフで

深淵の縁に立たされ、想像を絶する出来事に遭遇すると、人は神秘主義者か狂人になる・・・この両者はおそらく同じものなのだ!

となりますが、如何でしょうか?

おかげさまで本日(20160324)ブログの全期間の閲覧者数が50000人に到達いたしました。

興味を持って読んでいただいている皆様、どうもありがとうございます。

今後も出来る限り書き続けてゆこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.336‐337より抜粋

『ともあれ、躁鬱病になって本当に良かったと思う。
躁は未来へ向かって突き進む、鬱は過去へ向かって沈潜する。従って、私には未来も過去も分かるのだ。
古代人は過去ばかり考えていた。
ようやく二十世紀になって未来を考えるようになった。
しかし、未来よりも過去のほうがより大切である。
たびたび述べたように、近代人は未来ばかり考えているから堕落したのだ。
実はヴィンスワンガーの美しき説は、なだ君から教わった。
しかし、先日、二階の書斎の戸棚を見ていたら、なだ君も知らぬヴィンスワンガーの著者が三冊も見つかった。
医局時代は貧乏であったから、おそらく作家になってからいつの間にか買ったものであろう。
私はまだ若い頃、自分に必要な書物はなにも求める必要はない、本当に必要なときは不思議な因縁によってめぐりあえるものであると書いたが、まさしくその通りであった。』

2016年3月23日水曜日

20160323 続「専門知識」とは・・

A「理系学問分野においては、あるコトバ(専門用語)が指し示す対象とは、概ね実在するものです。

それに対し、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)とは、往々にして、その対象が実在するものではなく、時代によって解釈、定義が異なる概念あるいは事物であったります。

また、それに加えて、近代以降の我が国における学問全般とは、西欧から輸入されたものであり、その方法論、考え方などにおいて現在なお強い影響を受けています。

そして、それはたとえ民俗学などのような近代以前の我が国の文化、習俗などを研究対象とする学問においても同様であり、その記述法、用いる方法論において、西欧から輸入された手法を用いざるを得ないのが現状であるといえます。

また、そのような手法に拠らなければ、現代の我が国において学問として認められる文章(主に論文)は書くことができないのではないかと思います。

それほどまでに近代以降の我が国の学問全般とは、西欧からの影響を強く受けているといえます。

しかし、理系学問分野においては、その多くが実際の生活に資することが多いこと、つまり、強い必要性により、あまりこういったことは考慮されず、どちらかといえば、所与(アプリオリ)のものとされる傾向があったのではないかと思います。

また、それに加えて、古来より我が国は自然環境が豊かであることから、そうした要素(理系学問分野)に対する感受性は鋭く、近代以降に流入した西欧的な自然科学をはじめとする理系学問分野の学問体系も比較的容易に咀嚼吸収できるような文化的背景があったのではないかと思います。

さらに理系学問全般とは、再現可能性、つまりその知識、見解の普遍性を大変重視します。

そうしますと、基本的に、理系学問分野においては東西文化の相違とは、あまり考慮される(べき)ものではないと思われます。

それでは、その一方において、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)および、それにより体系化された知識の価値とは一体どのようなモノなのでしょうか?

それは現在のような時代であるからこそ、今一度真剣に学び、考えてみる価値があるのではないかと思います。

そして、その結果として、文系学問分野とは小価値であると認定するに至っても、そこに至るまでの学び、考えてみる過程こそが既に小価値ではないと私には思われるのです。

そして、そうした学び、考える過程とは、各々個々人が実際に経験してみないとわからないということが、先ほど述べた理系学問全般における知識、見解の普遍性と大きく異なる点ではないかと思います。

そして、現在のような個人の経験、体験を代行してくれる便利な道具が増えてゆくにしたがい、こうした文理間の異なる点もまた、ボヤけてくるのではないかと思います。

こうしたことは実のところ進化なのでしょうか?
あるいは退化なのでしょうか?
まあ、単純に割り切れるようなことではないと思いますが、そういった面倒でカネにならないようなことを時折考えてみるのもまた価値のあることではないかと思います・・。」

2016年3月22日火曜日

20160322 D2病について

私事になってしまい恐縮ですが、先日人と話していたところ、去る2012年に久々に私と会ったその方は、彼が知る私は2012年当時で大きく変化していたとのことでしたが、これは今となって思い返してみますと、たしかに、そのように感じるのが自然であったのではないかと思います・・。

あの当時の自身を思い返しますと、やはり少し変であったのではないかと思います・・。

そして、まさしく当時の私こそがD2病真っ只中であったのではないかと思います・・(苦笑)。

そのようにして思い返してみますと、さらに以前の2008年当時の私とはM2病をかなり強く引きずっていたのではないかと思います・・。

そして、この当時もなかなかイタイ行為をしていたような記憶がウッスラとあります・・(苦笑)。

とはいえ、言い訳となってしまいますが、ある程度のいい年をして相当イタイことを無意識のうち(ここが大事です(笑))に出来るという場所が大学院ではないでしょうか?

また、様々な分野における研究などは、そういった精神的、文化的土壌においてのみ、能動的、創造的に活動することができるのではないかと思います。

それ故、このイタサは致し方ないものではないかと思います。

特に理系学問分野においては、より多額の研究資金を獲得することが重要であるのですが、それにのみ強く縛られてしまいますと、能動性、創造性の源泉たる精神の自由をもなくしてしまうおそれがあるのではないでしょうか?

つまり、大学院などでは、はたから見て多少(自然に)おかしくなっている状態の方が主観的には面白く、有意義に過ごすことができるのではないかと思います・・。

しかし、現在、もし私が再びそういった精神状態に戻ることが出来るということであれば、それはかなり真剣に悩むと思いますが・・。






2016年3月21日月曜日

20160321 専門知識と教養について・・

現在色々と取り沙汰されておりますが、専門知識とは一体何でしょうか?

これは医学などの理系学問分野などにおいては、その職務を行う上において必要不可欠な知識であると云えます。

一方、文系学問分野の中で、特に法学・会計学以外の分野などにおいては、その専門知識とはどういったものであるかとは分かり難いのではないかと思われます。

他方で古くからの文系学問分野、具体的には思想史・歴史系の分野においては、単に自身の専門分野での知識のみならず、それを理解するために膨大な様々な領域における周辺知識が必要とされます。

そうした周辺知識に支えられ、はじめて自身の専門知識が生き、それを読み、聞いている方々が内容の意味の深みを知り、そして述べる内容に説得力が付与されるのではないかと思われます。

また、その周辺知識とは「教養」とも称することができるのではないかと思います。

この「教養」とは、特に理系学問分野の場合、直接的に専門知識とは結び付かず、あるいは(これまた直接的には)経済的利益もたらさないことから、此岸性を重視する傾向が著しく強い我が国の社会においては、表面的な扱いはともかく、本質的に「教養」を軽視、あるいは、その真価、存在意義の重さ、深さを見誤り続けてきたのではないかと思われます。

その結果、近代、特に戦後以降の我が国における「教養」とは、さきほど述べたように経済的利益と直接に結び付かないことから、そうしたことに情熱を持つことができる少数の方々によって細々と半ば私的に研究され続けてきたといった側面が強いのではないかと思われます。

そしてこれまで細々とこの「教養」に携わってきた方々が現在巷において見受けられるの歴史、教養、勉強ブームを見ると、それは「我が意を得たり!」といった感じになるのでしょうか?





2016年3月16日水曜日

20160316 文章が湧き出す源泉とは・・

これまでしばらく独白形式の文体を用いてブログ記事を書いてきましたが、この場合、記事作成者、つまり私が、読んでくださっている方々に対し、直接語りかけ、問いかけるような感じになると思います。

私のブログを読んでくださっている方々とは、否応無く、その殆どが不特定多数となりますので、もしも今後私が何かしら筆禍らしきことをしてしまいますと、炎上等が生じる可能性もあります(もちろん私はそれを望みませんが(笑))。

そして、それは作成者である私が自身の名前、写真等を示してブログ記事を書いていることにより容易に可能となります。

そして、そうしたことを多少なりとも認識してブログ記事を書いておりますと、やはり何かしら「圧力」を感じるのもまた自然ではないかと思われます・・。

また、そうしたことをも勘案し、著述業に携わる多くの方々とは筆名、ペンネームを用いているのではないでしょうか?

これを当ブログ記事作成者に適用してみますと、それは単なる自意識過剰であり、不必要であると思われますが、同時に、これまでの対話形式のブログ記事においてA、Bといった登場人物がおり、それらの会話という形式をとってきましたので、今後の作成するブログ記事も、その伝に倣い、A、B何れかの発言という形式にしてみようと思います。

こうしたわずかな変化によって、何かしら、今後の文章、文体に対し影響、変化は生じるのでしょうか?

また、そうしたことが生じるとしても、それが自他にとって良いものであるかどうか判断することはなかなか難しいのではないでしょうか?

ともあれ、ここまで記事を書いてきましたので、この記事の冒頭にA「そして最後に」を入力してみようと思います(笑)。

また、ここで不図思い出したのはゲーテの言葉で「心身を蘇らす泉とは自身の内部になければ心身を蘇らすことはできない。」あるいは「自身のハートから出たコトバでなければ他者のハートを引寄せることはできない。」ですが、何故それらを思い出したのかはよく分かりません・・(笑)。

とはいえ、私の場合、そういったものは自身の内部に本当に存在するのでしょうか?

また、こういったものは理系、文系問わず重要なのではないかと思います。

言語とは、コトバとは、文章とは一体何でしょうか・・(笑)?

何れにしても、今後もその多くは拙いとは思いますが、何かしら書き続けてゆこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。」





2016年3月15日火曜日

20160315 対話形式から独白形式に変更した理由について・・

どのような心境、考えの変化により、これまでの対話形式から独白形式に変えたのかは実際よくわかりません。

ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。

このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。

では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?

それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。

次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。

これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。

加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。

さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。

とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。

また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。

一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


2016年3月14日月曜日

20160314

原因はわかりませんが、先月十日頃から、ペンで文字を書いたり、PCで文字を入力する際、つまり現在もそうなのですが、この時に利き手側、つまり私の場合、左腋下から左肩甲骨下部あたり一帯が少し痺れるような感じがするようになりました。

特に痛みなどはなく、また筆記、入力作業に支障はありませんので、そのままにしております。

はいえ、その原因を自分なりに考えてみますと、この症状?が出はじめた二月十日とは、ブログの閲覧者数が急増した時期ですので、この間には何か関係、関連があるのかもしれません。

そして、それに関係、関連があるとすれば、それは一体どのようなものであるのかとは、多少気になるところです・・。

しかし残念ながら、現在の私には、それを検証する術、知識がありません・・。

さて、話は変りまして、ここ数回の投稿記事とは、これまでの対話形式を用いないで書いてきましたが、私としては、これはなかなか新鮮で面白いです。

私のブログを読んでくださっている方々の中で、これまでの対話形式に慣れ親しんでくださった方々もいらっしゃるかもしれません。

期間は分かりませんが、今後また思い出したかのように対話形式を用いる、戻ることになるかと思いますので、今しばらくは現在の文体におつき合いいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

また、それに加えて、これまでの対話形式を一端止め、現在の独白的?な文体を用いることにより伝えたい内容を、読んでくださっている方々に対し、直接的、ダイレクトに発信することが出来ることを今更ながら気がつき、もしくは再認識しました(笑)。

こうしたことを考えてみますと、小説、物語、散文、論文などにおける対話部分、著者の独白部分の全体に対する割合などにより、その作風、受ける感じ、分かり易さなども大分異なってくるのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、対話形式の論文といったものは、これまでに見聞きしたことがありませんので、こうしたことは、文体の定義(ここでは独白の表現の仕方、著者の立ち位置、スタンス)にも関与する性質であるのかもしれません。




2016年3月13日日曜日

20160313 温泉について・・

何故か私はこれまでに温泉のある場所に住むことが多かったです。

とはいえ、日本列島とは、火山と温泉が多い地域であるので、あまり深い意味はなさそうです。

私がはじめて入った温泉とは、おそらく祖父母の家があった伊豆のものであると思います。

この伊豆を含めた伊豆半島一帯とは、関東および他の隣接する地域と、属するプレート(地球表面を覆う岩盤)が異なり、また温泉も湧出することから、何となく、植生、風土も異なり一種独特の感じを受けます。

また、これと類似した感じを受けたのは南紀白浜であり、伊豆に比べて、さらに南方的要素を濃厚にしたような植生、風土でした。

南紀白浜に隣接する田辺市等を含めたこの地域一帯とは、本州にありながらも大変南国的な気候風土であり、さらに西日本、関西の文化圏にも連なっているという意味において、大変興味深い地域ではないかと思います。

また、おそらく熊野信仰などもそういった土壌により育まれていったのではないかと考えさせられます。

加えて、南紀においては万葉集に登場する歴史的人物の逸話も数多くあり、これは万葉の時代より南紀白浜温泉(牟婁湯)が人々に認知、愛好されていたことをしめします。

とはいえ、こうした逸話とは何も南紀白浜温泉のみに限らず、有馬温泉、別府温泉、道後温泉などにおいても同様に見出すことができます。

おそらく古代の人々は、こうした温泉に何かしら蘇生あるいは不老長寿の効能を認めたのではないかと思います。

そして、そうした生死観に連なる考えとは、その土地の葬送文化つまり古墳文化などに対しても何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。

また、こうした温泉と古墳の関連で私が想起するのは砂蒸温泉で有名な鹿児島県指宿市にある弥次ヶ湯古墳であり、これは薩摩半島において、その存在が大変珍しい古墳であり、造営された時代は6世紀代とされていますが、その様式、背景文化等についての詳細はあまり知られていません。

「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。」

2016年3月12日土曜日

20160312 紀伊、和歌山の古墳について・・

昨日のブログにて記しました和歌山県和歌山市の岩橋千塚古墳群ですが、ここでの古墳造営期間は主に5世紀代後半~6世紀代を通じてであり、7世紀に入ってからは既存墳墓への追葬などは行われたようですが、新たな墳墓の造営は急速に行われなくなりました。

こうした古墳時代末期(7世紀~)における葬送文化の変化とは、6世紀半ばの朝鮮半島百済からの仏教伝来により大和国、畿内を中心に徐々に葬送観念そして文化に変化が生じたことによるものと考えられています。

一般的に古墳時代とは3世紀初頭から7世紀初頭までと区分されています。

また、それと同時にこの時代区分とは、地方、地域によって独特の傾向あるいは偏差(地域性)が見られます。

こうした傾向、偏差(地域性)を岩橋千塚古墳群にあてはめて考えてみますと、造営された墳墓の多くが、古墳時代中期以降~後期(5世紀後半~6世紀代)の期間に集中しているということが挙げられます。

また、それに加えて、造営された墳墓の主要、主流の造営様式が古墳時代後期を特徴付ける横穴式石室であることも挙げられます。

さらに加えて、ここでの横穴式石室の造営様式とは、朝鮮半島を経由して九州北部に定着した横穴式石室の墳墓が関西、近畿に東漸、定着した最初期に属するということもまた挙げられます。

しかし、それ以前においても古墳群自体は存在しており、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群は4世紀~7世紀にかけて古墳造営が為され、その期間は岩橋千塚に若干先行しており、またその主流な墳墓造営様式は竪穴式石室となっています。

ともあれ、横穴式石室が主流である岩橋千塚古墳群とは、現在の我々から見て観察に適したものであるのではないかと思います。

また、この全古墳に対する横穴式石室の割合の高さとは、和歌山県、紀伊国全域の古墳全般についても同様の傾向が認められます。

しかしながら、こうした傾向とは、ある程度の古墳数を有する地域、都道府県内においても概ね共通するものであり、むしろ初期~中期の古墳が多い場所とは、何かしら特別な歴史的意味合いを持っているのではないかと考えさせられます。



2016年3月11日金曜日

20160311 都市に流れる川について

先日より求職活動にて、いくつかの地方都市(県庁所在地)に行ってきましたが、どの都市にも概ねその市街地に川が流れておりました。
現在の県庁所在地をはじめとする地方都市とは、古来より都市として栄えてきた場所が多いと思います。
そして、それらは、水運および水稲耕作を行う際において重要な水利、可耕平地が比較的得やすいという環境に因り、そのようになったものと考えられます。
しかし、こういったことは何も日本に限らず、世界の古くからの都市においても同様にいえるのではないかと思います。
ヘロドトスのコトバで「エジプトはナイルの賜物」というのがありますが、これをかりそめに和歌山県和歌山市に応用してみますと「岩橋千塚は紀ノ川の賜物」ということが出来るのではないかと思います(笑)。
また、鹿児島市においても市街地に幕末歴史モノに多く登場する甲突川が流れています。
私がはじめて、この「甲突川」という名前を知ったのは、おそらく西郷隆盛のマンガ、あるいは司馬遼太郎の小説からであったと思いますが、この「こうつきがわ」という音は、当時の私のとって、何かしらユニークなものとして認識されていました。
そしてこの「こうつきがわ」の由来を私なりに考えてみますと、もしかしたら国府津来川ではないだろうかと考えてみました・・。
昔の薩摩の国府とは別の場所にあったのですが、それと同時に現在の鹿児島市域内には、古代よりの集落の跡、古社などが多く見られることから、古来より甲突川河口流域とは、薩摩国における中心的な集落(都市)の一つであったことは確かです・・。
加えて、後代における中央朝廷の対隼人政策、具体的なものとして周辺諸国からの薩摩国への移住政策、あるいはさらに後代の平安末期、鎌倉時代における島津氏をはじめとする関東武士の入植などによる影響(文化の流入)があったのではないかとも考えさせられます・・。

参考となるコトバとして国府津(こうづ)

「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。
また、現在公募、求人等に応募しております。
現在大変困難な状況でありますので、この状況から助けていただきたく思います。
どうぞよろしくお願いします。」




2016年3月10日木曜日

20160310 これはツライです・・。

本日、公募等の選考結果が合計4件届きました。
それらの結果は全て不採用でした。

結果的には1件に採用されれば良いのですが、不採用を4件、同日に知るのはやはり辛いものです・・。

また、その内の1件は遠くまで面接に行ったものでした。
面接に行った結果、不採用となりますと、何か自分のより多くの部分を否定されたような感じを否応なく受けます・・。

ここまで、こうしたことが続くのであるならば、もしかしたら、私の人生とは、どこか間違っている(いた)のかもしれません・・。

とはいえ、来年度(4月)になるまでは、もう少し求職活動を継続してみようと思います・・。

このブログの更新も以前ほど頻繁にはならないと思います。
お読み頂いている方々には、大変申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。



2016年3月8日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.253-257より抜粋 20160308

「源氏物語」以後の平安朝物語の今日伝わらず、標題だけが知られているものは、およそ60ほどある(「源氏物語」以前およそ30.寺本直彦「散佚物語」、久松潜一編「日本文学史中古」至文堂、改訂版、1964、による)。今日読むことができるのは、その一割前後にすぎない。しかも先に挙げた主な作品のなかで、成立の年代の確かなものは、一つもない。年代について専門家の意見がおよそ一致しているのは、「狭衣物語」、「浜松中納言物語」、「夜の寝覚」が11世紀後半、「とりかへばや物語」と「堤中納言物語」の短編の大部分が12世紀(殊にその後半から13世紀初へかけての時期)に作られたらしいということだけである(「堤中納言物語」のなかの一篇が、小式部という伝記不明の女房によって、1055年に作られたとされるのは、唯一の例外だが、その一篇は重要な作品ではない)。
作者については、「狭衣物語」を受領の娘で六条院禖子内親王の宣旨女房(?~1092)の作とし、「浜松中納言物語」を菅原孝標の娘(「更科日記」の作者)の作とする説が有力である。「夜の寝覚」、「堤中納言物語」の大部分、「とりかへばや物語」については、全くわからない。たしかにこのような事情は、「源氏物語」以後の小説の変遷を正確に記述することを困難にする。しかし「源氏物語」(11世紀初)と、11世紀後半の一群と、おそらく12世紀後半とされる諸作を比較すると、そこには一定の発展の方向が認められる。第一、「源氏物語」の模倣。11世紀後半の現存の物語は、宮廷を中心とする貴族社会の恋愛小説であるという一般的な意味においてばかりではなく、「源氏物語」の特定の状況(人物間の関係と話の構造)を模倣しているという意味でも、伝統的である。完本を残さない「夜の寝覚」にさえ、その傾向ははっきりと窺えるが、「狭衣物語」の場合には、登場人物をそれぞれ「源氏物語」の藤壺・源氏・夕顔・葵・紫などにあてはめて考えることができる。
「浜松中納言物語」の場合にも、そのすじ書きは薫大将と宇治大君との関係に似る。
また主人公と唐の皇后との関係も、源氏と藤壺との姦通事件を思わせる。
このような「源氏物語」の直接の影響は、「堤中納言物語」や「とりかへばや物語」にはみられない。院政末期の貴族社会の背景が、「源氏物語」の時代、すなわち藤原氏権力の最盛期を遠ざかるに到ったからであろう。院政は権力の中心の二元化であり、その末期は宮廷外の力(大寺院、武士、地方豪族)が貴族権力を脅かしはじめた時期である。平安朝貴族文化の様式(魔術的および世俗的儀式、制度化された文芸・美術・閉鎖された社会の生活様式)は、12世紀末まで根本的には変わらなかったが、文化の求心的傾向(「栄華物語」と「大鏡」の道長中心主義に典型的である)は次第に失われ、現世即宮廷即浄土の楽天主義は、末法観の悲観主義に代られるようになったのである。したがって「源氏物語」的世界の恒久化が、作者の唯一の関心でありえなくなった。第二、「源氏物語」にみられる現実性の失われたこと、あるいは小説の想像的な面の極端な強調。それには二面があって、空想的で異常な状況を設定する傾向が一つ、話の構造を図式化し、しばしば左右相称の単純化(抽象化)にまで到る傾向がもう一つである。「狭衣物語」では、主人公が横笛を吹くと、天の使者が降りてくる。この挿話は「うつほ物語」の琴の奇蹟に似て、「源氏物語」の日常的世界からは遠い。「夜の寝覚」にも、奇蹟ではないが、空想的で到底ありそうもない話が絡む。しかし架空の話があまりにも現実を離れて、馬鹿馬鹿しい夢物語と化したのは、「浜松中納言物語」である。その舞台は日中両国にわたる。唐の皇后は、唐の遣日使と日本の女との間に生まれた女であり、その息子(第三皇子)は、主人公(中納言)の亡くなった父の生まれ代わりである。皇后は一度死んで天に生まれ代わり、もう一度生れ代って、日本の異父妹の子供となる。生れ代りの情報は、主人公が夢のなかで知る。このように途方もない背景に対して、薫と宇治大君、源氏と藤壺に酷似した関係が語られているが、「源氏物語」の場合のように、その人物の心理の微妙な動きは描かれない。父親の生れ代りのシナ人少年に出会ったときの主人公の心理を、細かく想像することは、そもそも似た状況が現実にない以上困難であろう。心理的な陰影の描写の代りに、儒教道徳による通俗的説明(主人公の父に対する孝心)が前面に押しだされているのは、そのためである。
またたとえば、自由自在に生れ代る皇后の恋心も、藤壺の場合とはちがって、単純な月並み解釈以外のものではありえない。けだし人間は自由自在に生れ代ることができないから、恋をするのであり、恋心のあらゆる複雑さと切なさとが生じるのであろうからだ。
「源氏物語」の背景の現実性のと心理小説としての洗練との間には、あきらかに密接な関係があった。背景の現実性を捨てたときに、「源氏物語」以後の小説は、当然心理描写の妙味をも捨てざるをえなかったのである。奇抜で非現実的な状況におかれた「浜松中納言物語」の人物は、作者が恣意的に操る木偶にすぎない。そういう傾向は、話の構造の図式化にもあらわれている。図式化のもっとも典型的な例は、誤って目的の女とは別の女と契るという趣向である。たとえば「夜の寝覚」の姉妹の妹(中君)と主人公との関係。また「堤中納言物語」の娘とその祖母の尼とのとりちがえ(「花折る少将」)や二人の少将がそれぞれの恋人である姉妹をとりちがえる話(「思はぬ方にとまりする少将」)。この最後の例は、左右相称的な構造を示す。このような話のなかで、登場人物は、いずれも彼ら自身の内的な世界をもたず、作者のさす将棋の駒のような存在にすぎない。しかし「堤中納言物語」の場合には、そうすることで、しばしば滑稽な効果を生じ、「パロディー」にさえも近づくことがある。(そのことには、次に触れる)。「とりかへばや物語」の話も、図式的である。男に二人の妻あり、一方は男子を生み、他方は女子を生む。男子は女性的で、女として結婚し、女子は男性的で、男として出世する。男子と結婚の相手の男、女子と彼女が(男として)仕える春宮(女)―、男と男、女と女の二組ができて、そこに宮の宰相という一人の遊蕩児が絡んで、話が展開するのである。人物の性格は、はっきりしない。
その心理的反応は月並みであって、そこに何らの発見がない。
その代りそこには空想的な状況から生じる倒錯的な性的刺激がある(そのことには、次に触れる)。要するに平安朝貴族社会は、10世紀後半に、「うつほ物語」によって長編小説の形式を、「落窪物語」によって日常的現実主義を、「かげろふ日記」によって内省的心理主義を発見し、11世紀初に「源氏物語」によってそれを綜合し、見事な小説的世界をつくりあげた後、11世紀後半から12世紀末まで、何ら重要な発見をつけ加えることなく、頽廃していったということができる。しかし例外があり、それが「源氏物語」以後の物語の獲得した一種の滑稽味と、倒錯的な刺戟であった。
日本文学史序説〈上〉
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一

 

2016年3月7日月曜日

20160307 コトダマについての雑談 Genius

A「つい先日より若干求職活動が慌しくなり、今後しばらくはブログ記事の更新が断続的になると思います。」


B「はあ、何か動きが出てきましたか・・。

それは良かったですね、また何か新たな動きなどがありましたら御連絡ください。」


A「ええ、そうさせていただきます・・。

それでハナシは変わりますが、昨日Cさんから電話がありました。
電話の話題は特段大きなものではありませんでした。
また、Cさんからの電話は時折あるのですが、それが昨日(20160306)であるということがどうも面白かったのです・・()。」


B「はああ、昨日Cさんから電話があったのですか、それは何だか面白い偶然ですね()

それでCさんはお元気そうでしたか?」


A「ええ、多少風邪気味とのことでしたが、話すのが辛いという感じは受けませんでした。

とはいえ、そういった偶然があるということは何だか面白いですね・・。
ああいったことは一体何故、生じるのでしょうか?」


B「・・そういった偶然の原因とはよくわかりませんが、心理学者のフロイトあるいはユングが「集合的無意識」といったことを述べていましたが、何かしらそういったことと関連があるのかもしれませんね・・。

また、本当にその「集合的無意識」といった概念?が存在、在るのならば、現在Aさんが書き続けているブログにも何かしら、それを構成する、あるいは刺激する要素となっているのかもしれませんね・・()
そして、それ故、ブログの記事などにあまりキワドイ、カゲキなことを書かない方がいいのかもしれません・・。
それに加えて、さきほどの集合的無意識と同様、それが実際に存在、在るかどうか分かりませんが、我が国に古くからある言霊(コトダマ)とは、現在のインターネットをはじめとする情報技術の進化発展に伴い、巷にコトバが氾濫するようになり、それが我々の精神、心の無意識に近い層に影響を与えるようになりますと、この言霊により、何かしら好ましからぬ現象が生じることがあるのではないかとも思います・・。
そして昔の日本人とは、言葉を軽々しく扱うことに対して畏怖の念を持っていたことから、コトバには言霊があるとして畏れ敬ってきたのではないかと思います・・。
その意味において、現在とは、完全にそういった意味での底が抜けた、調節するものの存在、権威がなくなり、何でも基本的に「言いたい放題」の状態になっているのではないかと思います・・(苦笑)
とはいえ、言論の自由が侵されるのもまた問題ではありますが・・。
その意味ではハナシは言論だけの問題ではなくなったことが問題なのではないでしょうか?」


A「・・はあ、何だか多少普段のBさんらしからぬ迷信的な感じもしましたが、それでも「集合的無意識」と「言霊」を類似あるいは関連のあるものとして述べられたことは大変面白く、興味深いと思います。

多分、我々人間一般の精神、心の無意識の層には、コトバ、言語により形成、成立している概念、思想などは存在しないのではないかと思います・・。
そして、「集合的無意識」とは、文字通りこの層に属しているのではないかと思います・・。
また、そこからさらに通常の意識、顕在意識というのですかね?の層に近づくにつれて、徐々にコトバ、言語によって概念、思想などが形成、成立されるようになってきます・・。
そして「言霊」とはおそらく、この言語、コトバにより形成、成立される層において、原初に近い部分にて生じた概念、思想ではないかと思います・・。
そのように考えますと、無意識から意識にかけての我々一人一人の精神、心の構造とは、そのまま我々人類の文明の進化発展に対応しており、そうしたことをアタマのみならず心身で知るということが、本当の意味での歴史を知るということではないかと思うのです・・()
ああ、何だか今度は私の方が迷信じみたことをいってしまいました・・(苦笑)。
それでも、こうしたことは小林秀雄やコンラッドも述べていますから、まあ、迷信というには過分に普遍性があるのではないかと思います・・()。」


B我々の心、精神の中に人類の歴史そのもの歴史があるということですね・・。

たしかにそうした考えは私も理解できます。
しかし、現在の特に我が国の社会傾向を見てみますと、どうもそうしたことを考慮外に置いている、あるいはわざと無視しているのではないかと考えさせられることがあります・・。
我々日本人とは極端に此岸的、現世志向的であるとはよく聞きますが、その意味において、歴史とは極端に此岸的、現世志向的な学問であるはずなのですが、
一体何故このようになってしまうのでしょうか・・?」


A「ええ、仰ることは大変よくわかりますが、そうしたことも漸進的に進化、改良してゆく以外にないと思います・・。

また、私がブログにて主張する内容が正しいかどうか正直よくわかりませんが、それでも、私は自身のブログを通じ、そうした言説を発信し続けることには、何かしら意味があるのではないかと考えています・・()
また、そのようにたとえ断続的になっても、何らかの形で発信し続けることが大事であるのではないでしょうか・・?」

2016年3月6日日曜日

20160306 ブログの閲覧者数から・・

A「最近のBさんのブログの閲覧者数はどうなっていますか?」

B「ええ、お陰様であれから特に大きな変動もなく、大体1日300~500人程度で落ち着いています。とはいえ、やはり以前に比べて閲覧者数が増加したことから、記事を書く際に多少緊張しているのではないかと思います・・(苦笑)。それでも、どうにか記事を書き続けることが出来ているのは、このブログ記事の作成によって、何かしら心の安定を得ているからではないかと思います・・。また、その意味においては、やはり、さきほどの閲覧者がいらっしゃるということは、大きな励みにはなっているのですが・・。それに加えて、純粋にブログ記事の作成が楽しいといった側面もあり、今現在、こうした便利な発信形式が存在することはありがたいかぎりです(笑)。」

A「まあ何でもプラス、マイナスの側面があると思いますよ・・(笑)。ともあれ、最近のBさんのブログを読みますと、また考古学、古代史の資料、書籍へ興味の方向がスライドしているのですか?」

B「・・ええ、まあ何となくではありますが、最近はまた日本古代史関連の書籍が面白くなってきた感じがします。そして、こうした書籍が面白くなってきますと、今度はそれらに示されている遺跡、古墳などを実際に見たくなるのです・・(笑)。また、こうした自身の傾向を考えてみますと、どうも私は暖かくなってくると、遺跡、古墳などを見たくなる傾向、性質があるのかもしれません・・(笑)。これまでに遺跡、古墳を見聞した際に記した日記、撮影した写真などを見てみますと、面白いことに、それらは全て3月~10月に集中しているのです。そうしますと、このこととさきほどの読書傾向の変化とは、どうも連動しているのではないかと思うのです・・(笑)。」
A「ほう・・それはなかなか面白いですね(笑)。また、それで私が今、不図思い出したのは、アメリカでは個人が季節毎で所属する運動部、部活が異なるということが普通であるということです。これは、もしかしたらさきほどのBさんのハナシと関連、類似する要素があるかもしれませんね・・。」

B「ああ、そのことは私も以前どこかで聞いたことがあります。しかし、現在はわかりませんが、私が所属していた頃の運動部、部活とは、一般的な傾向として、そのような季節毎に所属が変わるということは難しかったように思います。また、こうしたことは、何も所属する運動部、部活に限らず、おそらく我が国のこれまでの労働環境、会社組織等にも何か関係、関連があるのかもしれません・・。しかし、そうであるからといって、日本も季節、年度毎に仕事を変えた方がいいというわけではありませんが・・。これはおそらく、そういった環境のさらに基層にある文化に何かしらの原因があるのではないかと思います・・。そして、そうしたことを理解、把握しないで、表層的に制度のみを変革することは、後になって何らかの反動、しっぺ返しがくる可能性が高いのではないかと思うことがあります・・。」

A「・・まあ、たしかに我が国の組織などに属する個人とは、一般的に強くその組織に組み込まれる傾向がありますからね・・。もしかしたら、それは定住型水稲耕作社会の特徴であるのかもしれません・・。そして、そうした組織とは、日常自転的な業務、行動を為す場合においては、確固、堅牢としたものなのでしょうが、何か未知の事態に遭遇し、それに対し的確に対応しなければならない必要性が生じると、何だか大変なことになってしまう傾向があるのではないかと思います・・。そうした具体例として19世紀の相次ぐ外国船の来航に対する徳川幕閣の内外への施策、対応、戦間期から太平洋戦争敗戦に至るまでの大日本帝国政府の施策、対応などが挙げられるのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、私もさきほどのアメリカの運動部、部活の制度が全面的にいいというわけではありませんが・・。ただ、大事なことは、様々な内外の歴史、文化の知見に基づいてキチンと考えてゆく姿勢ではないかと私は思います・・。その意味において、現在の様々な勉強ブームとは、どうも皮相的に見えてしまい、どうもコトバばかりが躍っているように思えてしまうことが多くあります・・。とはいえ、そうしたこともまた大事であるのかもしれませんが、我が国においては、何でもビジネス、仕事のタネになればそれでいいと思い、またその後、それのみに焦点を合わせてゆくような傾向があるのではないかと思います。また、こうしたことは、何も我が国の歴史、文化を専門に学ばなくとも、ある程度の知見を積めば、そうした傾向は見えてくるのではないかと思うのですが・・。また、おそらくそうしたことは、昨今のインターネットをはじめとする情報技術の進化発展に伴い、我々日本人よりも海外の我が国について調査、研究している組織、人々の方が好悪の感情に振り回されることなく、冷静沈着に見て、判断しているのではないかと思います・・。そして、そういった意味において、我々日本人は、国際的な意味での優等生病にならず、様々な歴史、文化についての知見を能動的、自発的に広めた方がいいと思うのですが・・。また、もちろん、さきほどの情報技術の進化発展により、我が国も大きく影響を受けており、それにより、特に若年層において、既存の帰属組織への組み込まれの程度が弱くなってきているのではないかと思います。そして、そういったことに対して、基本的に、国家、公権力は介入出来ません。それ故、我々は個人として、否応なく、こうした状況の現代社会に対して適切に対応することが必然的に求められてしまうのではないでしょうか?また、こうしたことは、テレビなどにおける言説、様々な雑誌の見出し、そして書籍などの宣伝広告といった表層的、皮相的な言語のさらに下、基層にある層の変化、進化のようなものが必要なのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、そうした変化、進化を促す要素として外圧があるというような意見に対しては、感情レベルではありますが、どうも承服しかねるのです・・(苦笑)。」

B「・・ええ、仰ることは大体理解できます。しかしまた、こうした議論も福沢諭吉の「文明論之概略」あるいは夏目漱石の「現代日本の開化」などの時代から、あまり変化していないように思います。そのように考えると、現在のこの勉強ブームには、一体どのようなオチがあるのかは多少気になるところです・・。ただ、こうした勉強ブームといったものには、過緊張の傾向があるように思います。そして過緊張にはおそらく反動のようなものがあると思いますので、それがどのような形であらわれるのかもまた、同様に気になるところです・・。しかし、何れにせよ、歴史、文化を蔑ろにしたり、何かのリアクションとして、あるいは機会主義的に価値あるもののように扱うことは、長い目で見るとかなり危険なことなのではないかと思います。また、これは自分に対する戒めでもあります・・(苦笑)。」

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2016年3月5日土曜日

20160305 主に古墳についての雑談

A「最近はまた、思想系の書籍に代わり日本古代史、考古学関連の書籍が面白くなってきました。
そして、考えてみますと、この考古学、日本古代史に対する興味とは、関東在住時には無く、南紀在住時の休日に周囲を散策するようになってから、自然と生じていったものです。
また、こうした興味と同時に「私は自分の国の古代に関して何も知らない・・。」ということに気が付き、その関連資料、書籍等を読むようになりました。
それでもなかなかこうしたことは、そう簡単に分かるようになるものではなく、また同時に、多少分かるようになったからといって、何か得をするというわけでもありません・・。
しかし、自分が住むことになった地域、場所において自然に生じた知的好奇心とは、やはり何かしら意味があるのではないかと思います。
そして、何となく現在までどうにか継続してきた次第です・・。」

B「・・はあ、なるほど、そうですか。
それで結局、Aさんはまた和歌山に戻ることになったのですか?」


A「ええ、そうです。
そして、そのことを今考えてみますと、それが私の人生における一つの大きな分水嶺であったのではないかと思います・・。
とはいえ、以前にもブログにて記しましたが、私はかねてより文系の院に行くことを望んでおりましたので、ここで大きな意味を持つことは、それまでの自身のアイデンティティーがある首都圏の大学院、そしてヨーロッパ文化専攻に進まずに関西、西日本の大学院、そして地域学という分野に進んだことであると考えます。
また、そこでの様々な経験による自身の内部に生じた変化とは不可逆的なものであり、その後に進んだ歯科技工学校から鹿児島の院に進んだことも、いってみれば、そうした変化に沿う自然なものあったのではないかと思います・・。」


B「うーんAさんはこれまでに北は北海道から南は鹿児島まで色々な場所に住んできましたが、次は一体どこに行くつもりなのでしょうか・・()?」


A「・・ええ、それが分かれば本当に苦労はありません・・(苦笑)
しかし、何処であれ、また古墳などの遺跡が多い地域、場所がいいですね・・。
南紀、和歌山の場合、住んでいた場所から徒歩五分程度で古墳がありましたので、また、そうした環境が考古学、古代史の面白さを私に教えてくれたと思いますので、次に住む場所も願わくは、そういった場所がいいですね・・()。」


B「そういえば、Aさんが和歌山在住時に私が訪ねた際、そうした場所に案内していただきましたね(笑)。」


A「ええ、先程の近場の古墳に関しては近すぎて御案内しておりませんが、県内の代表的なものや、興味深いと思った古墳、遺跡には御案内したと思います。
また、南紀の興味深い古墳といえば、私のgoogle+のページの下段に西牟婁郡すさみ町にある「上ミ山古墳」で撮影した写真が掲載されていますが、ここはBさんを御案内したと思います。
この「上ミ山古墳」とは、和歌山県内に現存する古墳の最南端であり、同時に本州最南端に位置する古墳でもあります。
また、その立地は、海に突き出た半島状にあり、こうした古墳立地の類例は西牟婁郡白浜町の「火雨塚古墳」、日高郡みなべ町の「小目津古墳」あるいは御坊市の尾ノ崎遺跡も前に挙げた古墳の始祖的な存在であるのかもしれません・・。
また、この「上ミ山古墳」の興味深いところは、南紀に立地しながらも、その古墳造営様式が遠く九州の福岡南部、熊本北部において多く見られるそれに類似していることなのです。
そして、その類似している点とは、古墳玄室の天井がドーム状になっていることに加え、玄室の遺体を葬る区域を仕切る板石(石障)があることです。
さらに何かしら玄室内に装飾が為されていれば、決定的であるのですが、それは見られなかったようです・・。
とはいえ、この「上ミ山古墳」の造営様式とは、同時期に県北部の紀ノ川下流部南岸に盛んに造営された「岩橋千塚」に多く見られる特徴的な造営様式とは明らかに異なり、そのことから両地域における葬送文化を含む背景文化全般が大きく異なっていたのではないかと考えさせられます・・。
また、前に出ました白浜町の「火雨塚古墳」には玄室内に組み合わせ式の石棺が設置されているのですが、この石棺の蓋部裏に文字(たしか大粒部)が刻まれているということなのですが、こうしたことは県内外を含めて類例が少なく、大変興味深いと思うのですが、あまり知られていないと思います・・。
ちなみに、この古墳も同じ機会に御案内したと思いますが、白浜の白良浜近くの半島いわゆる権現崎にある熊野三所権現神社の境内に立地しています。
また現存はしないのですが、北隣の田辺市にある平家物語にも登場する闘鶏神社のごく近くにも数基の古墳があったということなのですが、これもその立地などを考えてみますと、熊野三所権現神社の「火雨塚古墳」と類似しているのではないかと思います・・。
そして、こうしたことの背景には何かしら共通する葬送観念、生活文化が存在するのではないかと考えることがあります・・。」


A「・・はああ、なるほど、南紀の方には海に突き出た半島に古墳を造営するような傾向があるのですね・・。
もしかしたら、それらの古墳に葬られた方々は、在地、土着の海に関係する部族を統率する方々であったのかもしれませんね・・。」


B「・・ええ、たしかにそうである可能性は高いと思います。
しかしそれとほぼ同時代に、それらとは別の造営様式の墳墓が海岸部に築かれているのです(磯間岩陰遺跡)。
そして、そうした墳墓に葬られた方々も海に関係する部族の統率者であると考えられているのです・・。
それ故、もしかすると一言で海に関連する部族といっても色々とあったのかもしれません・・。
こうしたことも今後考えてゆくと、また面白いかもしれません・・。」

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2016年3月4日金曜日

20160304 幕末についての雑談

A「最近少し暖かくなってきましたが、色々と調子はどうですか?」


B「ええ、こちらは相変わらず色々と動いておりますが、まだこれといったお知らせできるようなことはありません。
また、何かありましたらお知らせします。
それはそうと昨日は桃の節句でした。
私は御存知の通り男三人兄弟の真中ですので、これまで桃の節句にはとんと縁がなかったのですが、つい最近、姪が生まれましたので、このことに関しては多少状況が変わったようです・・()
また、それと同時に桃の節句の33日といえば、どうも似つかわしくないかもしれませんが「桜田門外の変」の日でもありますね。


A「・・はあ、Bさんに姪ができたのですか、それはおめでたいですね。
また「桜田門外の変」に関しては、昨今の状況から色々と評価が分かれるのではないかと思います。
また、この事件は数年前にもたしか映画化されていませんでしたか?
あとは司馬遼太郎の「幕末」という題名の短編集にて唯一の薩摩藩出身の事件参加者である有村治佐衛門のことを扱った作品があったと思います。
加えて、手塚治虫の長編マンガ「陽だまりの樹」にも、この有村治佐衛門が出ていたと思います・・。」


B「ああ、それらに関しては私も大体知っていると思います。
たしか司馬遼太郎著の短編集「幕末」は、主に幕末期に行われた様々な暗殺を題材にしていたと思います。
そして「桜田門外の変」以外においては、土佐藩参政であった吉田東洋の暗殺を描いた「土佐の夜雨」また、出羽出身の浪士で当時のフィクサーともいえる存在であり、剣の使い手でもあった清河八郎の暗殺を描いた「奇妙なり八郎」なども収録されていたのではないかと思います。
ちなみにこの「奇妙なり八郎」の暗殺場面は、萩原健一が見廻組隊士(与頭)佐々木只三郎を演じた映画「竜馬を斬った男」の冒頭近くにありましたが、あれはなかなか真に迫っていて怖かったです・・。
とはいえ、この「竜馬を斬った男」に代表されるような当時(20世紀末)の時代ものの映画とは、現在のそれに比べてどうも隔世の感があります・・()
私個人としては、かつての時代ものの映画の方が何もかもが重厚な感じがするのですが、一体何が違うのでしょうかね・・?」


A「うーん、たしかに昔の時代ものの映画の方が、映し出されている風景、光景などが、その舞台となった時代に入り込み易いような感じはありますね・・。
また、さきほどの吉田東洋暗殺に関してはアニメ化されたマンガ「おーい竜馬」においても描かれていたと思いますが、あのマンガでは多少脚色が加えられていたと思います・・。
そして、史実の方はおそらく「土佐の夜雨」に描かれているのに近いのではないでしょうか?
また、そのことは田中顕助(光顕)の「維新風雲回顧録」にも書かれていたと思いますが・・。
その中で吉田東洋暗殺を行ったのは、さきほどの田中光顕(顕助)の叔父である那須信吾に加え、安岡嘉助、大石団蔵の三人の土佐郷士と書かれていますが、このうち那須信吾、安岡嘉助は後に土佐勤皇党の盟友である吉村寅太郎等と1863(文久三年)に天誅組の変を起こし、代官所、高取藩の城などを攻めましたが、幕府側により鎮圧され、その折に戦死、あるいはその後に獄死しました・・。」


B「ええ、田中光顕の「維新風雲回顧録」はたしか巻頭言を司馬遼太郎が書いていたのではないかと思います。
また、私もこの著作は以前読みました。
そして、そこでは書かれていなかったと思うのですが、この那須信吾、安岡嘉助以外の大石団蔵は後に薩摩藩士となり、イギリス留学をして維新後まで生き長らえました。
薩摩藩士となった大石団蔵は、名前を高見弥一と改め、その名前により現在鹿児島中央駅前広場の市電乗り場近くにある「若き薩摩の群像」という幕末期の薩摩藩からイギリスへの留学生達をモデルとした銅像の傍らにその写真が掲示されております。
どうやら薩摩藩出身ではないことから高見弥一こと大石団蔵は銅像のモデルにはならなかったようです・・。
また、この中の一人は最近テレビドラマで有名になりました五代友厚もいます。
加えて、この薩摩藩からの留学生達は映画「長州ファイブ」の中においても出てきておりますので、その中の一人が高見弥一こと大石団蔵であることは、何だか面白いですね・・。」


A「はあ、それは知りませんでした・・。
吉田東洋暗殺の三人のうちの一人は随分と数奇な人生を歩んだのですね・・。
「事実は小説よりも奇なり」を地で行くようなハナシですね。
また維新後の彼は一体どのような人生を歩んだのかは多少興味がありますが、
もしかしたら西南戦争では西郷側で戦ったのではないですか?」


B「いえ、そこまではわかりませんが、ただ彼は維新後にかつて属していた土佐勤皇党の同志、盟友達とは連絡を取り、会わなかったのでしょうか・・?
こういったことは、もしかすると誰かが既に研究されているかもしれませんが、ともあれ、何かしらむつかしい事情もまたあったのではないかとも思います・・。」


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