2016年1月30日土曜日

金関丈夫著「発掘から推理する」岩波書店刊pp.32-38より抜粋20160130

旧暦の五月は、もうそろそろ子供たちが水遊びをする時節である。端午の節句は、水死した楚の大夫屈原の霊をなぐさめる行事として起こったと説かれているが、もちろん屈原はこじつけだ。水死人の霊、すなわち水鬼は、たれの霊とは限らず最も恐るべきもので、なかまを作ろうとして、人々を水中に引き入れる。その難を避けるために、中国ではこの節句に水鬼をまつる。子供が鬼にとられぬようにそのからだに防御装置もする。端午の行事はいわば「河びらき」の行事なのである。
昭和8年(1933)、遼東半島の羊頭窪(ヤントウワ)というところを発掘したのが、ちょうどこの季節で、野山には馬蓮花(マアリエンホワ)の可憐な花が、いたるところ風にそよいでいた。家々の軒には、桃の枝や蓬などの駆除物がさがり、村の子供たちの手首や足首は、腕輪や脚輪をつけたように、五色の糸で巻かれていた。魂を身に付けるためのいわゆる「たま結び」である。魂を驚かさないように、子供の寝ているあいだに、そっと巻くという。水中の鬼たちに供える粽も、草のひもで幾重にも巻いて結んでいる。粽は見せかけだけの、魂の代用品で、鬼どもはこれでごまかされる。

このたま結びの色糸を、こうした特定の日に限らず、用心深くふだん身に付けているのが、首飾り、腕巻き、足巻きのたぐいで、多くは青色の珠を貫いた糸を巻く。いまのブレースレットやネックレスには、こうした前歴がある。ブレースレットもネックレスも幾重にも巻くのが本格である。ビルマパダウン族の婦人などで、首や腕に銅輪を、あきれるほど巻いたのがいる。中国新石器時代の土製の腕輪は、死後につけられた明器であるが、糸を重ねた形を示すものがある。死人の魂を呪縛したつもりである。

装身具として文明人の用いる腕輪も、この腕巻きから変化したもので、指輪も、もとは指まきだった。台湾山地のパイワン族などは、今もそうした指巻きをつけている。物忘れは魂の不在から起こる。忘れものせぬように指をしばる風は今も残るたま結びの風である。

結婚式には、新郎が新婦の指に指輪にはめる。男の魂を女の身に結びつけるのである。旅立つ愛人のからだに紐を結ぶ。「いもが結びし紐吹き返す」と万葉人が歌ったのもこれである。今の原始民の風習からみて、このときには、こちらのからだから相手のほうへ、魂を導く動作が伴う。

腕輪が明らかにたま結びの用に使用されたことを示す例は、島根県古浦の弥生前期遺跡の小児人骨である。二歳の小児だから、もちろん成年以前のものだ。左腕に六個のハイガイ製の腕輪がはまっている。死後の魂を呪縛したもので、さきの土製の腕輪と同じである。一個だけでなく、いくつも用いることが、糸では幾重にも巻いた用意を語っている。

さて、魂が身体から離れぬようにするためには、腕、脚、胴体、首のような、しばりつけることができる場所以外に、防がなければならないもっと危険な場所がある。耳、鼻、口など、外に出口の開いている個所である。

死人に対しては、中国の古代人、玉器で栓をしてふさいでいる。日本の先史人もこれをまねて耳璫すなわち耳の栓などをはめているが、昨年発掘された飯塚市の立岩の弥生人の頭部には、耳、鼻、口の五孔をふさいだと思われる五つの栓が見出された。現代でも死体のあらゆる出口を、死の直後に綿でふさぐが、もともとは実用的の意味から起こったものではない。
生きた人間の出口からの、魂の脱出を防ぐためには、鼻中隔に棒を通したり、鼻翼や、耳たぶや、くちびるに孔をあけて栓をしたり、棒を通したりする。フランスの軍医ジャコビス・某(匿姓)は、百年ほど前のマレー(種族不明)の男性が、尿道開口部に接して横に孔をうがち、小さい木棒を通していたことを報告している。一種の快楽増進具だ、と彼は記載しているが、そうだったとしても、この奇異な風習の起こりはやはり、魂の脱出の門戸を閉じた閂だったとみるべきである。

栓にしても閂にしても、それで出口が完全にふせげるわけではないが、これは栓だぞ、閂だぞ、ということですむ。魂はルールを尊重する。身体変工のうちでも、もっとも派手な例の一つだが、しかしこれよりももっと奇抜な方法を用いる連中がある。

マッテスの報告(1872)によると、セレベスのブキ族は、病人の鼻や臍や、脚に、魚釣りばりをくっつける。からだから脱出しようとする魂は、これに鉤って引きとめられる。ハッドンはボルネオのパーラム河域のツルク族の男が、鉤状の石を身につけ、これで逃げ出そうとする魂を身につなぐのだと称したことを記している(1901年)。海部ダイヤ族の呪医は、指さきに釣りばりをつけ、逃亡しようとする患者の魂をひっかけて、生命をとりもどす(リング・ロス報告、1892年)。この鉤は文明社会の耳飾りにもしばしばのこっている。

鹿児島県種子島広田の弥生遺跡人には、貝製の鉤状の耳飾りをつけた女性人骨が数体発見されたが、男性人骨の左の手くびに、貝の管たまや小珠をとおした緒を、幾重にも巻きつけた跡があり、これに接して、女性の耳飾りと同形の、四個の鉤状貝製品が付着していた。

からだの開口部だけでなく、手くびにも、腕まきと併用して、魂をひっかける道具が使用されたのだ。同じ弥生時代の、各地の遺跡から発見されている奇妙な形の銅製の腕輪、その輪の一部から、さきの鋭く尖った鉤が、強く突出しているものが、ここで浮かび上がってくる。唐津市桜馬場出土のものは最も有名である。

考古学のほうでは、刺のあるくも貝製の貝輪からでた形だ、とまでは見当つけたが、その形体の意味はまだ不明である。しかし、腕まきを鉤にぶらさげるのと、腕輪の下をすりぬけた魂を、ひっかけてつなぎとめるとめに、つけられたのだ。
広田遺跡の例で見るように、首飾りのもこの鉤が用いられている。先史時代にも、現代の原始民族にも、貝、骨、牙、石なその鉤状の飾りを首輪にぶらさげたり、はめこんだりする例は多い。勾玉はその一種である。勾玉は鉤状の石である。

もとは獣の牙から起ったとしても、動物の牙そのものが、餌を口から離さないための装置である。牙も勾玉も、その他の鉤状の飾りも、みなこの、魂拘禁具とみるべきであろう。
だが、鉤状の装身具は、自身の魂の逃亡を防ぐだけが、その仕事ではなかった。南アメリカの各地のインディオに見られるように(フレーザー金枝篇」)、外部からこちらへ侵入する邪霊を引きとめる効用もあったのだ。
弥生から古墳時代にかけて、多くは盾の表面にうたれたと思われる金具に、巴形銅器というものがある。

鋭い鉤が中心部から放射状にでたもので、ていねいなものは、盛り上がった中心部の頂からも、上に浮いて一つの鉤がとび出している。巴形銅器も日本考古学界の一つの謎である。しかし、盾そのものは敵の武器から身をまもるもの、敵の邪霊の侵入を引きとめるものが、この表面にとりつけらrた銅鉤だった、とみれば、この物の意味はよくわかる。平城京址から出土した「隼人盾」の紋様も「延喜式」では鉤といっている。

われわれのからだについている魂の一つは、魂魄二種のタマシイのうち、魄である。魄のツクリの鬼は精霊、ヘンの白はたましいの色を表わしたものと私は見ている。詳しい考証は省略するが、しかし白だといっても真っ白ではない。青白色だ。碧の字も白に従っているが、実はあお色である。白は同時に白昼の白で、明るいことである。碧は明るいあお色の玉のことだ。魄と碧とは、ことによると同語だったかも知れない。
孔子の音楽の師匠の萇弘の死体が碧玉すなわち璧(あお色の玉)を尊んだのは、その色が魂と同色であるからで、その同色性によって、魂を引きよせ、その鉤でつなぎとめる。
腕輪や首輪に青色のビーズや石が好まれたのもこれで、水鬼をごまかすチマキは、新鮮なあお色でなければならなかった。滋賀県の曾束の風俗で、夏がくると子供のある人は、キュウリ(胡瓜)の青色新鮮な初なりを瀬田川に流す。子供が川に入ってガタロウ(河童)に引きこまれない呪いだという(「民俗文化」15号)のもこれであろう。
楚辞の九歌の、たま迎えのために水中に建てられるたま家は、もろもろの香草で青々と飾られ、そのさまは種子島などで見る日本の盆の精霊棚にそっくりである。チマキやキュウリで邪鬼をごまかすと同様に、同色の誘いによって、魂を迎える行事も歴史は古い。

魂の形については、チマキやキュウリは簡単だが、それでも休場の頭と細長い尻尾の形は具わっている。勾玉の形も単なる鉤ではなく、魂の形でもあるのだ。勾玉の着装の風俗は、琉球の祝女には今ものこっている。単なる装身具ではなく、その着装が、信仰上の事象だった証拠である。勾玉は日本で特に流行した。しかしけっして日本独特のものではない。さきの、ボルネオの例にもつながるであろうが、1939年ボールズ教授は、ハワイオアフ島で、伸屈葬の人骨に着装された、典型的な勾玉を発掘している。いわゆる装身具の表わす根元の信仰は、日本、中国、南方ととわず、世界いたるところ共通である。日本だけの「特殊事情」は後進資本主義時代以後の産物である。

発掘から推理する
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫