2021年5月30日日曜日

20210530 中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」 ー西欧ヒューマニズムの限界ー pp.7‐11より抜粋

中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」
ー西欧ヒューマニズムの限界ー
pp.7‐11より抜粋

ISBN-10 : 4121800036
ISBN-13 : 978-412180003

この「安」師団の兵力は、昭和19年夏に内地から補充をうけたころは総数2万にちかかったようである。それが終戦時には3千たらずに減っていた。とくに歩兵は全滅に近く、たとえば、3百人以上いた私たちの中隊は、終戦時14、5名、後になってタイなどから帰って来た者を合わせても17名ぐらいにしかならなかった。比較的生存者が多かったのは、野戦病院や経理・防疫給水隊などの、まったくの第二線部隊だけであった。

 こういう状態では、戦争が終わると聞いてやれやれと思ったのも仕方がなかったろう。全面降伏なら私たちも英軍に投降することになるが、いわゆる捕虜の汚名をきないですむだろう。殺されるかもしれないが、生きられる可能性の方がやはり大きそうである。そうすると、もう完全に近いほど諦めていた日本の土がふたたびふめるかもしれない。父や母や家族と会えるかもしれない。日本全体は焼土と化しているかもしれないが、家族のものは何だか昔のままの姿で生きて待っていてくれるような気がする。

 私たちは急に狂ったように激しい郷愁にとらわれた。寺の床に寝ながら、みな昂奮していた。家の思い出が口々に語られる。ふと誰かが、もうすぐ大文字の送火だ、今年などはとてもやれないだろうがと口にした。それを聞いたとたん、私の脳裏に家族一同二階からそれを見たときのこと、それも幼いときの思い出が突然目にしみるような鮮烈さで浮かびあがってきた。涙がどっとあふれてきて、ポタポタと床の上に流れ落ちた。 

 おなじ気持ちであったろう。兵隊たちはいつか小声で軍歌に口をそろえていた。

霜は軍営に満ち満ちて

秋気清しと詠じける

昔のことのしのばるる

今宵の月のしずけさよ

台場を屠り城を抜き

千辛意万苦へたる身の

不思議にいのちながらえて

我が父母や同胞は

我を案じて暮すらむ・・

題は忘れてしまったが、この頃よく仮小屋のなかでうたう歌である。この哀調にみちた軍歌は、あまりに頽廃的で士気を沮喪するものとしてうたうことを禁じられていたように思う、しかし、このごろは絶望的になった戦場の気分によく合い、兵隊に好まれてひそかにうたいつづけられていた。何度もうたい合ってみな、なかなか眠れなかった。ながいその文句をふと忘れて合唱がとぎれると、誰が覚えているものがやや声を大きくしてつづけ、みなが思い出してまた合唱となるのである。

 翌日、食料の塩干魚や砂糖やせっけんなどを受け取って夜おそく私たちはふたたびこの寺へ辿り着いた。8月15日の夜である。気がつくとあたりは死のような静けさである。きのうまでのドカンドカン、バリバリと狂気のような大砲の咆哮も、ドッドッドッドという絶え間のない重機の唸りも嘘のように聞こえない。雨季の最中だから、雨の音がやかましかったはずで、現に下帯までぐっしょりと濡れ、それを焚き木でかわかしながら砲声をつかもうとして耳をかたむけた記憶ははっきりある。しかし雨の音はまったく聞こえず、静まりかえっていたという思い出しかない。おそらく、私たちにとって雨の音は安全の印であり、ないに等しいものだったからかもしれない。銃砲声の聞こえぬ夜というものは何とこのように静かなものだったのか。情報は本当だったのだ。戦争はたしかに終わったのだ。

 しかし私たちの心は昨日よりも急に重くなった。無条件降伏という意味が重くのしかかってきたのだ。私たちは降伏する。武装解除、捕虜、収容所、それまではたしかだ。それからどうする。敵兵の復讐や私刑にあうかもしれない。強制労働は間違いない。私たちがビルマへ輸送されるとき見たやつれはてた英軍捕虜の姿が目に浮かぶ。おとろえきったこの身体で、銃剣で追いまわされる労働にたえることができるだろうか。うまくゆけば日本へ帰れるかもしれないが、帰れる日本があるだろうか。

 私はこの春見たマンダレー市の廃墟を思い出していた。京都に似たこの市は王城の城壁が残り、堀の水は青く澄んでいて、私たちはそこで飯盒炊さんをやった。しかしもと人口数十万といわれた町は文字どおり潰滅し、見わたすかぎり瓦礫の原野と化していた。日本のように焼夷弾による破壊でなく、爆弾によるものだから、煉瓦建てもコンクリートのビルも何一つ残っていない。焼けただれたタイプライターが瓦礫のなかに残っていたのを見て、この堀ばたの商社に毎日通ったであろう若いビルマ女性の姿を思い浮かべたりしたのだが、日本もあのとおりだとしたら、木と紙でできた日本の都市などあとかたもないだろう。そう思うと、いままでのような絶望そのものの暗さではないが、こうしてはいられないという焦燥感の加わったなんともいえぬ不快な不安が新しく心をしめはじめた。

いまから考えると、このとき芽生えた、こんなことしていられないという焦りは、捕虜生活中ますます激しくなっていったようである。