2023年1月12日木曜日

20230111 紀州鉈(ヒツ鉈)と筑紫薙刀について

これまで作成したいくつかのブログ記事にて「紀州鉈」を題材として扱い、そこで述べたことではありますが、この紀州鉈は形状が特徴的であり、まずは、刃と柄木の接続が、刃の部分に対してオフセットで鍛着された帯状の「ヒツ」と呼ばれる部位の中空部に柄木を差し込み固定する点と、つぎに刃部の先端に「ハナ」と呼ばれる鋭利な突起がある点と云えます。

また、この様式にて刃と柄木とを接続する鉈全般を指して「ヒツ鉈」と称します。それ故、紀州鉈はヒツ鉈の一分類と云うことになります。しかし一分類とはいっても、現代においては、その使用分布は「紀州」のみにとどまらず、土佐と日向といった、紀州和歌山とも気候風土が近く、且つ、その用途である林業が盛んな(であった)地域においても用いられ、あるいは地元にて製造されています。

そして、これら紀州、土佐そして日向といった地域を結びますと、そこからは自然と「黒潮文化圏」と云うコトバが想起されてきますが、たしかに、これら地域間では、古来より交流が盛んに為されていたことから、それによって伝播されたとも考えられます。

そうしますと「では紀州鉈の始原・オリジナルは何所であるのか?」といった疑問が生じます。これは未だに真相は分かりませんが、ただ、この「紀州鉈」そして「ヒツ鉈」自体、紀伊半島から東側に離れると次第に見られなくなります。

そこから紀伊半島は、この「ヒツ鉈」・「紀州鉈」の伝播の東端であり、逆端である九州の日向が始原であるのではないかと考え、当地域の特徴的な刃物を図鑑や文献などで調べていると、鎌倉時代より大友氏が支配していた九州北東部を中心に戦国期に至るまで盛んに用いられたという「筑紫薙刀」という武器の刃部の柄木への接続の仕方が、ヒツ鉈・紀州鉈と同じであり、そこから、武器である筑紫薙刀、あるいは山林での作業のためのヒツ鉈の何れが先であったのかは、わかりませんが、何れにしても、この「ヒツ」に柄木を固定する様式は、九州北部には室町期には既に存在していたことが分かります。

しかし、そこからさらに「この筑紫薙刀(ヒツ鉈)のさらに始原は何所であるのか?」と考えてみますと「九州からさらに南下した琉球であるのか、あるいは古くから北部九州地域との交流が盛んであった朝鮮半島であるのか・・」と思われるところですが、それについては未だ何も情報がありませんので、また機会があれば、調べてみたいと考えています。

しかし、さきほどの「筑紫薙刀は、かつて大友氏の支配地域にて盛んに用いられた」からもう少し想像してみますと、まず前提として、鎌倉幕府の地頭職から守護大名となり、九州での覇権を争った大友氏と、古代の軍事部族であった大伴氏は全く異なります。しかし、他方で、江戸時代後期から明治期まで刊行された伝記集である「前賢故実」に記載のある大伴金村は、記紀にある、百済による任那四県割譲問題や、その後の筑紫君磐井の反乱の鎮圧などで知られていますが、この「前賢故実」での大伴金村のイラストで得物として描かれているのが、おそらくは、この筑紫薙刀・ヒツ鉈とも称し得るものなのです。

元来、大伴氏は神武東征以来、天皇家の軍事活動に参画し、その起源の地は、神武天皇と同様、筑紫国(九州)であると考えられていますが、そうすると、後世(?)の筑紫薙刀・ヒツ鉈の発祥地の候補として挙げた、大友氏の支配地域である九州北部とも被るのです。しかし、そうしますと、さきの「前賢故実」での大伴金村のイラストが、どの程度まで考証されて描かれたのかと疑問に思われますが、こうした方面は現時点では、未だよく分からないことから、とりあえず棚上げをして留めておきます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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