2023年11月3日金曜日

20231102 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.28-30より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

前近代のすべての文明のなかで最も進んでおり、優位を誇っていたのが中国である。15世紀の人口は1億から1億3000万人で、ヨーロッパの5000万から5500万人にくらべて圧倒的に多く、すぐれた文化をもち、灌漑のほどこされた豊かな耕地はすでに11世紀からりっぱな運河で結ばれており、教育程度の高い儒者の役人が職階制度の整備された行政機構を動かしていた。その洗練された統一国家ぶりに、訪れる外国人は羨望の目を見張ったのである。たしかに、中国文化はモンゴル部族の激しい攻撃にさらされた経験があり、フビライ・ハーンに侵略されてその支配下にあったこともある。だが中国は、征服者によって変化するよりも。征服者のほうを変えてきた実績をもつ。1368年に明王朝が成立してモンゴルを追い払い、中国の統一をはたしたとき、かつての秩序や学問の多くは温存されていたのである。「西欧」の科学を尊重する教育を受けてきた読者がいちばん驚くのは、中国文明における技術水準の高さであろう。中国えは昔から大きな図書館が存在した。可動活字による印刷は早くも11世紀に登場しており、まもなく大量の書物が印刷されている。運河建設と人口の増加に触発されて、貿易や産業も発展した。中国の都市は、同時代の中世ヨーロッパの都市よりもずっと大きく、交易路も遠くまで延びていた。早くから紙幣が利用されて、商業の発展と市場の成長に大きな役割をはたしている。11世紀末には、中国北部には巨大な製鉄産業が起こり、主として軍事用および支配者の用に供するため、毎年12万5000トンの鉄を産出していた。たとえば、100万人を超える軍隊だけでも巨大な鉄製品市場を形成していたのである。この産出量が産業革命期のイギリスのそれよりもはるかに多いことに注目すべきであろう。産業革命はなんと7世紀もあとのことなのだ。さらに中国人は最初に火薬を発明したともいわれ、明が14世紀末にはモンゴルの支配者を打倒したときには大砲が使われている。

 こうした文化的・技術的水準の高さを考えれば、中国が海外遠征や貿易に乗り出したのも当然であろう。磁気羅針盤も中国人の発明品の一つで、中国の平底帆船(ジャンク)は、スペインのガレー船に匹敵する大きさがあり、インドや太平洋の島々との交易で、陸路を行く隊商と同じくらいの利益をあげていたと思われる。それより何十年も前から揚子江流域では海戦が繰り広げられー1260年代に宋を制圧するため、フビライ・ハーンがやむなくつくりあげた大艦隊には弾丸発射装置が備えつけられていたーその流域では14世紀初めに穀物取引が栄えている。1420年に明の海軍は1350隻の軍艦を保有し、そのうち400隻は巨大な海上要塞で、250隻は長距離航海のために設計されていたという記録がある。この艦隊にはくらべるべくもないが、ほかにも民間の船団があって、すぐ朝鮮、日本、東南アジア、さらには遠く東アジアまで航海して、海上貿易に課税した中国に巨大な収入をもたらしていた。

 最も有名な公式の海外遠征は、三保(宝)太監として知られる宦官の提督、鄭和が1405年から1433年にかけて七回にわたって行なった航海である。その船団はときには何百隻もの船と何万人もの乗組員を擁し、マラッカからセイロンを経て紅海の入口、さらにはザンジバルまで航行した。そして、各地の支配者に贈り物をする一方で、意に従わない相手には北京の力を誇示している。ある船は東アフリカからキリンを持ちかえって皇帝に献上したし、またある船は中国の天子の威光を認めなかったセイロンの愚かな地方領主を連れかえった。(念のために指摘しておけば、中国はポルトガルやオランダをはじめ、インド洋を侵略したヨーロッパ諸国とちがって、掠奪したり住民を殺戮したりはしなかったらしい。)歴史学者や考古学者が明らかにしている鄭和の船団の規模や力量、航海能力ーなかでも最大級の船は長さ600フィート、排水量1500トンにおよんだーからして、エンリケ航海王子がセウタの南へ遠征する数十年前に、彼らはアフリカを回航してポルトガルを「発見」することもできただろう。

 だが、中国の遠征は1433年の航海が最後となり、3年後には皇帝の勅令で遠洋航海用の船舶の建造が禁止された。さらにその後、2本以上のマストをもつ船そのものを禁止する特別命令が出される。以後、船乗りは天津と杭州を結ぶ大運河を往来する小さな船に傭われるしかなくなり、鄭和が使った巨船は陸に引き上げられて朽ち果てた。海の向こうにはさまざまな機会がひろがっていたにもかかわらず、中国は世界に背を向けるほうを選んだのである。