2015年9月22日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.184-187より抜粋

奈良時代の日本の支配層は、大陸文化に圧倒され、その消化に忙しかった。9世紀には、輸入された大陸文化が「日本化」され、日本流の文化の型が、政治・経済・言語の表記法・文芸と美的価値の領域に、成立した。
その日本流の型は、次の時代、10世紀・11世紀(摂関時代)に完成されて、12世紀末(院政期)までつづく、その間大陸との交渉はほとんどなく、極東の島国はアジアの全体の中で孤立していた。
この孤立の300年は、この国の歴史のなかでは、第一の鎖国時代であり、その長さにおいても、社会と文化の体系の自己完結性においても、17世紀初めから19世紀末に及ぶ第二の鎖国時代に匹敵する。

島国の内部で起こったことは、第一に、貴族支配層が外来の文化と土着の習慣とを融合させながら、内的斉合性の著しい自己完結的な一箇の文化体系(平安朝文化、王朝文化などの名でよばれる。) をつくりだしたことである。
その包括的な体系は、政治権力の構造、その経済的背景、信仰体系、生活様式、文芸の形式と内容、美術の様式のすべてにわたり、明瞭な特徴を示すものであった。
第二に、本来大陸から輸入された要素、殊に仏教が、広汎な大衆の層へ浸透するようになり、その結果大衆の世界観が変わった以上に、仏教そのものが変わったということである。仏教的な支配層と非仏教的な大衆との平行線は、この時代に「日本化」された仏教を媒介として、近寄ったといえる。
まさに支配層内部の知識人の大陸型と土着型が、この時代に、「日本化」された漢文と漢文化された日本文を媒介として近寄ったように。

時代の権力機構は、1011世紀には「摂関政治」11世紀末から12世紀には「院政」という言葉で要約されるものであった。
前者は律令制の制度的な枠組みを崩さず、したがって天皇の形式的な権威を保存しながら、実質的には藤原氏一族が全く排他的な専制権力を行使するものであり、後者は天皇・藤原氏政府の権力と平行して、引退した天皇(上皇、しばしば法皇)が独立の権力機関をつくるものである。
「院政」の成立は、藤原氏の権力独占によって疎外された支配層内部の要素の不満が、どれほど大きかったかを示している。
天皇家、藤原氏以外の没落した貴族、律令制に依存したところの中・下級貴族(殊に地方官)、地方の名主、武士層など。

経済的に見れば、この時代を特徴づけていたのは、いうまでもなく「荘園」である。
律令制の枠の外で、「荘園」という私的大土地所有に依存する度合が大きかったという点では藤原氏権力と院政権力との間に、本質的なちがいはなかった。
「院政」が律令制への復帰を徹底し、中、下層貴族を藤原氏に対して組織できなかったのは、そのためである。
経済的には不在地主、身分的には天皇家と貴族、社会的には宮廷を中心とした都会的支配層の第二の権力が、地方の名主・武士層を動員して、第一の権力に対抗することは、あり得るはずがなかった。
要するに貴族支配層の内部で9世紀からはじまった政治・経済的権力の集中の傾向は、10世紀以後律令制を形骸化しながら、天皇家と藤原氏、大貴族と中・下級貴族官僚、中央貴族と地方の名主・武士との間の矛盾を強め、12世紀に「院政」を介して、自己崩壊へ向ったということができる。

しかし政略結婚を通じて天皇を一族のなかに組み込んだ藤原氏の権力の独占は、少なくとも200年の安定期をつくりだした。

宮廷を中心にした閉鎖的な貴族社会は、その成員の組み込まれの度合いにおいて、またその排他性において、日本史上まさに画期的なものであった。
宗教も、芸術も、文学も、風俗も、相互に県連した一箇の文化の全体として、その社会に組み込まれ、社会はその文化を制度化し、形式化し、恒久化するためにおどろくべき力を発揮した。
宮廷社会内部の文化的秩序をかき乱す要因は、大陸からも来なかったが、大衆からも来なかった。

アジアで孤立した島国のなかで、宮廷社会は孤立し、しかもその宮廷のなかで、女房社会は独立の単位的な小集団をつくっていた。
比喩的にいえば、鎖国のなかに鎖国(貴族社会)があり、そのなかにより小さな鎖国(女房社会)があったのである。文化の「日本化」の過程は、鎖国条件のもとで、文化の集団への組み込まれの過程と平行していた、ということができるだろう。


  • ISBN-10: 4480084878
  • ISBN-13: 978-4480084873


  • 加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.13-16より抜粋

    日本で書かれた文学の歴史は、少なくとも8世紀まで遡る。最も古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は、少ない。サンスクリットの文学は、今日まで生き延びなかった。今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興期(145世紀)前後に遡るにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。

    しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代に受け継がれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった。新旧が交替するのではなく、新が旧に付け加えられる。たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに8世紀に31音綴の短歌であった。17世紀以後もうひとつの有力な形式として俳句がつけ加えられ、20世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つである事をやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。しかし奈良時代においてさえも、旋頭歌は代表的な形式ではなかった。徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。
    新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮やかにあらわれていた。15世紀以来の能・狂言に17世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに20世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。

    同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少なくともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」―このような美の理想は、そのまま時代とともにほろび去ったのではなく、次の時代に受け継がれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。

    このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、他に例が少ないし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたように見える。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく盾の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

    文化のあらゆる領域においてこのような歴史的発展の型が成立した理由は何であったか。その問題に十分答えることは、ここではできない。しかし文学に即していえば、その言語的・社会的・世界観的背景にあらわれたある種の「二重構造」が少なくともさしあたりの答えをあたえることになるだろう。

    加藤周一著「日本文学史序説」補講 筑摩書房刊 pp.91‐95より抜粋

    「日本霊異記」では「仏」「法」「僧」の三法に従わないものが〈悪〉となっているが、同時にとんでもないエピソードもいろいろ出てくる。善導主義というよりも〈人間〉の発見があるのでは。

    「日本人は仏教説話集というものを受け入れました。「日本霊異記」から代表的なものとしては「今昔物語」になって、それから「沙石集」になりましたが、みな同じ系統のもので、仏教説話集はお寺のお坊さんのための一種の教師用参考書に近いものです。学問のあるお坊さんが書いたと思いますが、もちろん写本で回覧するのだけれども、お寺に集まる人たちの大部分は字が読めなかった。お寺は宮廷と違って、宮廷は貴族しか集まらないけれども、お寺は一般人のための学校兼病院兼教会でした。これは念頭に置く必要がある。
    お寺は宗教的なものだけじゃなくて、唯一の学校はお寺のなかにあった。学校だから当然講義します、仏教の話をするのだけど、面白い話をしないとみんな飽きてしまいますから参考書が必要だった。
     
    字の読めない人が「日本霊異記」を読めたはずがない。そうではなくて、講義をするお坊さんが「日本霊異記」から面白い話を仕入れておいてお寺で話したと思います。聞いている人は一般大衆ですから、話が面白くなければいけない。凡庸な文部科学省が編纂した善い話ばかりの退屈な善導主義ではうまくいかないでしょう。大衆は字は読めなくても人生の経験はあるのだから、そんな甘っちょろい話をしても何の関心ももってくれない。ほんとうに彼等を動かすには実際の場面に臨んで、もちろん悪いやつもいるし、自分のなかに悪い要素もあるだろうし善い要素もあるだろうが、人生複雑で、そのなかを生き抜いていくときの知恵みたいなものが必要でしょう。そこにふれない限り相手にされないのです。それはきれいごとじゃない。
     
    平安朝の貴族社会は税金で成り立っていて生産的な仕事はしていなかった。平安朝の京都は産業がなくて税金都市でした。そのうえ階級的世襲制度でしたから生活の心配なしに暮らせたわけで、「源氏物語」の登場人物のほとんどすべては経済問題の心配をしていない。心配なのは、彼女が私を愛しているかどうかということだけです。ところが「日本霊異記」の聞き手の関心事は経済問題です。まずくやれば暮らせない命がけの問題でしたから、猟師はどうしても猟の仕事を、商いの人はどうしても商いを成り立たせないといけないので、その時の知恵、そのときに必要な人間理解、人間心理に対するリアリズムがなければもたないということを見事に反映しています。「日本霊異記」だけでなく、「今昔物語」の本朝編、つまり日本の話の部分も、「沙石集」も同じです。善いことか悪いことかというよりも、困難な状況をいかに切り抜けるかということの知恵、知識、戦略、勇気、決断力、必要ならば腕力ということです。90パーセントの日本人はそっちのほうで暮らしていた。それが反映している。天皇に帰依することより、毎日の暮らしを維持しなければならないということです。座ってものおもひなんかしていたのでは食べられない。早く家を出て畑を耕すか、鳥や獣をとらないと食べていけないでしょう。だから、二つの日本があるということが、「日本霊異記」にあらわれたのであって、文部科学省は支配層の側ですから、そちらのほうだけ学校で教えてきましたが、ほんとうはその二つを並べて教えるべきです。
     
    ただ、少し注釈が必要なのは、では「日本霊異記」の話の目的はわかったが、そのためにどういう材料を使ったかというと、一つは日本の民間の伝説や昔話から採っていて、中国文学の影響があとの半分。中国の仏教説話である「法苑珠林」などからエピソードを採っています。では、「法苑珠林」はどこから採ったかというとインドです。インドの仏教説話集というのは膨大なもので、一部は翻訳されて中国に入り、それは中国語で語られていて、それから日本でまた採って語り直しました。全部がそうだというのではなく日本製のものもありますが、かなりの部分はそうです。余談ながら全部じゃないですが追跡できる話もあります。地名や人名なんかを変えるのがうまい。なんとか村のなんとかという男がいて、なんてやってますが、元は中国の話で、そのまた元はインドの話です。面白いことは、「法苑珠林」と「日本霊異記」とを比較すると、話の筋はまったく同じですが、どこを詳しく話してどこを簡単に済ますかという語り口は違うんです。一つの話だけではなくて、いくつもそういう例があって、同じような仕方で食い違いがあると、その食い違いは大いに日本の大衆のメンタリティーを表現しているということになるでしょう。奈良時代の大衆の感情生活を推察する材料は極めて限られていますから、「日本霊異記」はまさにそういう意味で貴重です。それだけじゃなくて、話もたいへん面白い。」
    「日本文学史序説」補講

    「加藤周一対談集 歴史・科学・現代」 ちくま学芸文庫刊 pp.135-140より抜粋

    科学の「進歩」
    加藤(周一) 科学の「進歩」という概念は、必ずしも人間的価値の実現とか、それ自身いいものであるとか、ないとかいうこととは別に、人間社会の進歩というようなことと直接結び付けないで、定義できるのではないでしょうか。知識がだんだん増大して、より美しくより純粋な形でその知識が叙述され、それによって自然をコントロールする力、あるいは社会科学なら社会をコントロールする力が増大するということ、これをかりに「進歩」というとすれば、その「進歩」ということは、今までもあったし、これからもあるでしょう。
    ただ、今までは、その進歩が自動的に人間にとっていいことであると考えられてきたけれども、今では科学の進歩が人間にとって悪いことかもしれないという問題につき当たっているということじゃないですか。ただ、進歩の概念そのものをそういうふうに定義すれば、進歩は止まりそうじゃなくて、どんどん行きそうじゃないですか。

    湯川(秀樹) その辺なんですが、近ごろいろんな人がいろんな問題提起をしておりまして、たとえば十九世紀的な考え方ですと、科学の進歩はつまり人間社会の進歩でもある。その区別は本来あるはずだったけれども、ほとんど区別がないと思ったのが近代の西欧社会でしょうね。ところが、二十世紀も後半になりますと、その関係がひじょうにおかしくなってきた。西洋たると日本たるとを問わず、科学の進歩といっても、やはり自然科学の進歩が主になっていて、それと人類とか人間社会というものの進歩とはどういう関係があるのか。
    少なくとも二十世紀前半までのほとんどの人は、科学の進歩と人間社会の進歩とは、だいたいとして並行している。そんなに食い違っていないと思ってきた。ところが、今やそれらが食い違ってきてるんだというくらいのステートメントなら、全く常識化している。ところが、むつかしいのは、科学の進歩は急に止まるわけではない。ほんとの進歩かどうかは別にして、いわゆる進歩なるものはなかなか止まらぬ、また止めるのがむつかしい。社会に対する科学の影響力は圧倒的に強いということがありまして、ですから、別の基準で、人間個人、あるいは人間社会、あるいは人類全体についての価値体系みたいなものをかりにきめておきましても、そういうものは浮き上がっちゃって、科学の進歩に流されてしまうということが、ふり返ってみると、今までは、確かにあった。
    そこで、これから先はそういうことがないようにしようと思っても、実際は大変なことだと思いますね。さきほどから芸術論について私がちょっとお聞きしたのは、芸術のように本質的にサイエンスと違うものでも、実際相当流されているんじゃないか。つまり抽象芸術なんかが盛んになるのは、芸術自身の必然性もあるけれども、やはり科学文明に流されるというと言葉が悪いかもしれんけれどもそういうこともあるんじゃないですかね。

    加藤 それは強いと思いますね。科学的な考え方が芸術家に強い影響を与えていると思いますね、科学的進歩の芸術への影響には、およそ三つぐらいあると思いますが、一つは、科学者の考え方が直接に影響する。もう一つは、科学的な考え方が大衆化されるというか、普及して社会全体のなかに一種の大衆化された形での科学主義が成立して、それがその社会に生きている芸術家に影響する。それから三つ目は、科学者の考え出したことが技術と結びついて、その技術がいろんな媒体をつくり出す。そのために社会が変るし、芸術家の利用する事のできる材料や表現手段も変り、芸術がそのために影響を受けるということ。たとえば、音楽家の場合に、電子音楽というのは、あれは科学の影響というよりも、科学者の仕事がもとになって電子工学が発達して、ああう機械ができるようになった。要するにピアノが出すよりもたくさんの音が自由に出せるということになったために、今度は音楽家の手に渡って、音楽家が何かやってみたいということがあるような、そういう影響、それは三番目だと思います。第一の影響についていえば、たとえば一人の音楽家をとった場合に、音楽家自身、音楽に対するアプローチというか、態度が科学者のものの考え方に直接影響されているという面がある。それは方法的・分析的な考え方だと思うんですね。芸術制作の過程そのものに芸術家が意識的になり、分析的になって、その過程を方法化しようとする。分析的・方法的な形で芸術的な制作を考える傾向は、科学者の科学的なものの考え方の芸術家への直接の影響だと思うんですよ。それから第二の影響は、たとえば、音楽家が金属的な堅いキーキーいう音を出しますね。大衆化された科学といいますか、能率的によく動く新幹線とか、高速道路とか、そういうものの浸透した社会のなかで我々は生きている。ところが、モーツァルトは、十八世紀のいなかの貴族の別荘で弦楽合奏用の曲を書いていた。
    今ミュンヘンならミュンヘンの高速道路でスポーツカーですっ飛ばしているという状況のなかでは、音楽家自身がモーツァルトよりもキーキーいう音を使うようになるということがあると思うんです。それから三番目は、南ドイツ放送局が電子音楽の機械を持っているので、それを使ってやろう、その機械を使えばキーキーいう音を出したければ出せるので、それを使って出すという。こういう三段階で芸術家のなかに科学が直接入ってくるんだと思いますね。
    湯川 私は音楽はまりよくわからんので、ただ理屈しかいえないんですけれども、西洋音楽は―東洋の音楽はそれほどでもありませんけれども―ひじょうに古い時代からサイエンスと密接な関係がありまして、たとえばピタゴラスというような人は、数理的な性格を持った科学、そういう意味での精密化学の原点に立っている人の一人ですね。その後からデモクリトスのような人も出てくるわけですが、ピタゴラスは弦の振動のような最も単純な楽器による音楽と数―といっても整数―との間の関係を発見したわけですね。ですから音楽の原理的なものと、物理の原理的なものとは、そこで密着しておったといってもいいわけですね。それからいろいろに変っていきますけれども、西洋音楽というのは、どこまでいっても数学や物理とわりあい近い関係にあった。第一、西洋の楽譜を見ますと、あれは典型的なディジタル情報ですね。つまり、整数あるいは、もう少し広く台数的な数をあらわしているわけですね。連続的なアナログ情報ではない、ディジタル情報に従って演奏する。ハーモニーといったって、みなそうですわね。もちろん音の強さとか音色とかいう点になると、ディジタル情報で片付けられないでしょうが・・。それに比べて東洋の音楽は、もっと違うわけでしょう。ディジタルな情報でない部分が多くて、個人差みたいなものが、大きくものをいうようですね。しかし、それだって、実は程度の違いにすぎないのかもしれませんね。音譜に全然あらわせないのじゃなくて、近似の程度の問題だという見方もできましょう。ですから、とにかく音楽というのは、芸術のなかでもさきほどの彫刻とか絵画とかいうものとずいぶん違っておりまして、たとえば肖像画というものを考えると、肖像画である以上は、誰か、人間というひじょうに複雑な、しかもユニークな対象がありまして、加藤さんなら加藤さんがおられて、そのエッセンスを如何に表現するかというわけですね。これは数に還元する、あるいは数に対応づけるのとは、非常に違いますね。そういう違いがあって音楽と絵画というのは性格が大きく違うわけだけれども、そして、民族によって事情は多少違うわけでしょうけれども、やはり音楽の方が科学文明との並行関係は、より強いのじゃないですか。

    加藤 それはおっしゃるとおりです。

    加藤周一・木下順二・丸山真男・武田清子著 「日本文化のかくれた形」 岩波現代文庫刊 pp.31-37より抜粋


    超越的価値に束縛されない文化は、どこへ向うのでしょうか。
    そこでは宗教戦争が起きにくい。また社会の現状を否定するためには、現状から独立した価値が必要であり、そういう価値のないところでは、「ユートピア」思想が現れないでしょう。
    「ユートピア」思想を支えとする革命も起こらない。個人的な行動様式としては、それとして自覚されない便宜主義(opportunism)・大勢順応主義―しばしば「現実主義」と呼ばれる態度―が、典型的になる。
    芸術的な表現についてみれば、全体の秩序よりも、部分の感覚的洗練が強調されることになるでしょう。個別的・具体的状況に美的価値も超越しない。細部から離れて全体を秩序づける原理がない。
    この部分強調主義の典型的な例は、たとえば平安朝の仮名物語と、十七世紀初めの大名屋敷の平面図だろうと思います。平安朝物語の話全体の構造ははっきりしない。始めがあり、終わりがあって建築的にできているものではない。たとえば「宇津保物語」は、ほとんど、短編をたくさん積み重ねて行くうちに、おのずから全体になった、という形のものです。こういう長い小説に、一人の人間が子供の時から次第に大きくなって、多くのことを経験して遂に死ぬまで、というような整った形がないわけです。それぞれ独立性の強い章が並列されて、まとめてみると、非常に長い物語になっている。
    これは明らかに、部分の方がまずあって全体に辿り着いたので、全体がまずあって部分を書き込んでいったというものではありません。
    徳川初期の大名屋敷の平面図は―左右対称でないばかりか、途方もなく複雑です。これも明らかに、まず建物全体の空間の形を考え、その空間を細分して部屋を作ったのではなく、まず部屋から作り出して、作りやめたときに、初めには想像もしなかった全体の形ができあがっていた、ということに違いない。これは要するに、建て増し精神です。普通我々が建て増すのは、一度に建てるお金がなかったからですが、大名屋敷の方は、おそらく金の問題ではない。
    むしろ空間の部分と全体との関係について、基本的な一種の見方、一種の哲学を反映しているのだろう、と思います。その哲学は、部分から出発して、おのずから全体に至るというものです。たくさんの部屋が続き全体になる。部屋を作るのにくたびれた時に終わる。どこで終わるか初めから計画していたわけではない。徳川初期の大名屋敷の平面図は、いくつも残っていますから、こういう特徴は一般化して考えることができる。それが部分尊重主義で、日本の芸術の一つの特徴、さらに進んで、空間に対する日本人の考え方の特徴だと思います。
    この様な空間の概念と並行関係にあるのが、「現在」の並列的な継起として表象される時間の概念です。部屋から部屋へ続けていったものが屋敷で、今日・現在からもう一つの今日・現在へ続いてゆくものが、歴史的時間です。その意味での、現在主義。そこには始めがなく、終わりがない。神話の水準でいえば、創世記神話と終末論を欠くのです。反論したい方は、「古事記」に創世記があるじゃないか、とおっしゃるでしょう。しかしあれは、外国の直接の影響のもとに書かれたものです。中国・朝鮮は創世記の話を持っているんで、日本も対抗上作らなきゃいけないと考えて作ったので、日本土着の基本的な時間の見方とは、あまり深く係っていないでしょう。
    日本では、いつ始まるともなく歴史が始まり、いつまでということはなく、ただどこまでも現在が続いてゆく。そういうのが、私の言うところの「現在主義」です。(中略) このような時間の概念をよく反映しているのは、またおそらく十二世紀頃から十三世紀・十四世紀にかけて、さかんに作られた絵巻物です。絵巻物は、細長いものを丸めてあって、展覧会では、一部しか見られない。絵巻物の全体を一緒に見ることはそもそも不可能です。むやみに長いから、ある部分を見ていると、別の部分は遠くなって見えません。
    これは本来、自分の前に置いて、右から少しずつ展げて見てゆく。見てしまった所は、巻いてしまう。これから見るところ、まだ展げてないから、見えない。物語は時間の経過と共に進み、挿絵もその順序を追うわけで、絵巻物を見る人は、話の前後から切り離して、絶えず現在の場面だけを見るということになります。現在の状況を理解、あるいは評価するために、前の事情も、後の発展も、基本的には必要ない。そういうことは、ヨーロッパの中世の「プリミティブ」と対照的です。
    そこではキリストの受難という時間的に長い経過の出来事を、一枚の絵に描いている。そういう時間経過の空間的表現は、日本にはあまりない。日本では絵巻物の方が典型的です。現在だけが、問題だということになるでしょう。その現在は、いわば予測を超えて、次々に出現する。突如として、何かが出て来る。またその次の何かが出て来る前に、あまりぐずぐずしないで速くそれに反応する必要がある。絵巻物の世界は、予測しがたい状況の変化への、速い反応の連続だ、という風に考えることができます。
    状況が変化するのは、絵巻物の世界だけでなく、現実の世界でもそうです。日本では、状況は「変える」ものではなく、「変る」ものです。そこで予想することの出来ない変化に対し、つまり突然あらわれた現在の状況に対し、素早く反応する技術―心理的な技術が発達する。実はそのことが、絵巻物における時間観念に、集約的に反映していたと考えられます。また、そのことの反映は、絵巻物に限らない。たとえば、今日の日本の外交みたいなものです。
    第二次大戦後の日本の外交で、非常に大きな問題の一つは、あきらかに中国との関係をどう調整するかということだった。しかし、日本政府は、米国の中国封じ込め政策に同調し、北京政府の承認を全く考えていなかった。
    つまり将来の状況を予測せず、現状をそのまま認めていたのです。ところが突然一九七二年の春に、ニクソン政府の中国接近が始まると、その後、半年経つか経たぬうちに、もう田中首相が北京政府を承認していました。中国封じ込め政策の状況を変えたのは、米国で、日本ではない。日本側は他力によって変化した状況に敏捷に反応したのです。
    これは、まさに座頭市外交と称ぶのにふさわしい。座頭市の目はみえないから、敵の近づくのが分からない。しかし仕込み杖の届く範囲まで相手が来たときには、非常に速く反応する座頭市と日本外務省の行動様式は、根本的に似ています。「ニクソン・ショック」の次が「石油ショック」。むやみに「ショック」が多いのは、先の見通しが全くついていないということと同じです。ただし「ショック」の後の反応は速くて、適切です。鎌倉時代の美術から、今日の外交まで、日本文化の「現在主義」は生きています。



    
    

    谷川健一著「古代学への招待」日本経済新聞出版社刊pp.44-45より抜粋

    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
    国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。
    古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
    ISBN-10: 4532195284
    ISBN-13: 978-4532195281

    「銅鐸について1」より抜粋
    その一方、一世紀末頃から近畿圏を主として大型化、装飾化という独特の発達を遂げた新式の銅鐸は、その本来の機能から離れ見ることに重点を置いたものと考えられることから「見る銅鐸」と分類される。
    それはさらにその意匠(デザイン)、作製地により、近畿式、三遠式と分類される。近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作製され、三遠式は濃尾平野にて作製されたと考えられている。
    これらの出土分布は近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、山陰地域において見られる。
    三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において見られる。
    静岡県沼津市にて近畿式銅鐸の鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘されたが、これは大変面白い事例であり、その来歴は興味深い。


    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋

    加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋および
    谷川健一著「古代学への招待」日本経済新聞出版社刊pp.44-45より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    このころ日本国内は、さきにのべた星川皇子の乱のような吉備をも含めた動揺や、皇位継承をめぐる内紛があったが、とくに信用を失墜した注目すべき事件は、487(顕宗天皇3)に起こった紀生磐(きのおいわ)の事件である。

    紀生磐は、さきに465(雄略天皇9)に新羅に出征し、同僚の蘇我韓子を射殺した紀大磐と同人物と見られるが、このころ任那に拠って高句麗と結び、自ら三韓王とならんとして官府を整え修めて、神聖を称したという事件であり、任那に帯山城を築いて百済と激戦したが、ついに敗退した。

    この事件の真相は、百済の史籍に基づいたと思われる「日本書紀」の本文からは容易によみとれず、一説では、生磐の野望を百済側の虚説、造作であるとして、積極的に任那の防衛をはかり、百済の南進を食い止めんとしたものとも解されている。

    果たして反乱か、それとも雄図か、大きく評価の分かれるところである。
    いずれにしても、結果は百済の南進となって実現したのだが、生磐をどのようにみるかで、南鮮経営の重要な分岐点となるといえよう。

    わたくしは、この生磐の事件は、継体朝における哆唎(たり)国守穂積臣押山、さては筑紫国造磐井などと一連のものとして考えたい。

    これは第一に、百済史籍によったとしても、直ちに百済側の虚説、造作とするにはそれなりの実証が必要であり、「紀」がこれを採用した事実の方に重点があるだろう。

    しかし第二に、その場合でも高句麗と内通したという理由は、筑紫国造磐井の場合にも用いられた反乱に対する支配者側の共通した認識方法で、必ずしも信憑しがたい。

    この生磐の場合にしても、三韓王という野望と高句麗との内通というのは必ずしも一致するものではなく、矛盾を含んでいる。

    従って第三の点として、わたくしは哆唎国守押山の場合と同様に、生磐も任那を私物化しようとしたものと考える。

    押山は、継体天皇6(512)12月、百済の請をいれて任那の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アルシタリ)・娑陀(サダ)牟婁(ムロ)の四県、全羅南道の四半分にあたる地域を割譲したのだが、当時、これは押山と大伴金村が百済の賂を受けた陰謀であるとして大きな反対を受けた。
    いうまでもなく、これは任那の一部を自分の利益と交換した任地使臣の不信行為であった。

    生磐はすでに雄略天皇のときに蘇我韓子を射殺するという重大な前科を持っており、その点からも、とくに帯山城の攻防に英雄的な評価を与えることは、やや恣意的であると考える。
    わたくしは、「紀」編者の高句麗との内通という点には疑問を残しても、やはり生磐の反乱として理解したい。

    そのように見ると、この事件は百済側の信頼を一挙に失墜させるものであり、ついでは任那諸国の離反も助長することになったのである。
    既に自主性を失っていた日本の朝鮮経営は、継体天皇6(512)12月の任那四県の割譲に続いて、百済の外交的圧迫に屈して、翌年11月には己汶(コモン)・帯沙(タサ)の地を割譲した。

    とくに己汶の地は任那の一国伴跛の熱望するところであったから、この決定によってますます任那諸国の失望を大きくしてしまった。

    そこへ継体天皇18(524)になると、このさきすでに律令を頒ち百官の公服を制するなど内治を整えた新羅法興王が、拓地と称して南境に出巡し、翌年には百済とも交聘を深めて、ついに金官国(南加羅)・淥・己呑・卓淳その他の地を併呑してしまった。

    金官国は、日本の朝鮮侵略の橋頭堡のような位置を占めていたから、この報は大和朝廷に大きな動揺を与えることになった。
    大和の支配者間の対立がともかくも統一して、継体天皇が大和磐余に入り得た背景には、この任那日本府の危機への対応と、継体21(527)におこされた諸地復興のための派遣軍の準備ということが眼目としてあったであろう。

    さて朝鮮遠征軍の派遣は、近江臣毛野のものに6万の大軍をもって編成することになった。しかしこの時に、筑紫国磐井の叛乱が惹起されたのである。
    継体天皇21(527)6月、この遠征軍は磐井らによって完全に阻止されてしまった。
    磐井はやくからひそかに叛逆をはかっていたが、事の成りがたきを恐れて常に間隙をうかがっていたところ、新羅がこれを知ってひそかに賄賂を送って磐井と結び、毛野臣の軍を抑圧することをすすめたため、ついに叛乱に及んだというのである。
    それと同時に磐井は揚言して、今回の出征に当たってかつての同僚毛野の下に使われるのを喜ばぬ意志を示しているから、単に新羅との結託ということだけでなく、軍役じたいに不満があったことは確かであろう。

    その背景をさぐってみると、やはり長期にわたった朝鮮侵略のために最も大きな負担を蒙ったのは、まず北九州一帯の族長層であり、その部民であったといえよう。
    もともと彼らは、吉備とならんで、筑紫といえば大和国家に対して最も独立的な地域であり、それだけに外征には批判的であっただろう。磐井はその批判を叛乱という形でぶちまけたのである。
    北九州についでは、東国一帯の負担が大きい。
    この地方には当時、皇室の直轄領が名代・子代という形で存在しており、その領民たちは奈良時代にも防人として西辺の防衛に当たったことを考えると、すでにこの時点でも。北九州の現地なみに負担をうけたにちがいない。
    さらに畿内には、毛野臣のような遠征軍の場合には、地元からの徴発が考えられるし、そのようにいえば、多かれ少なかれ全国的な影響を免れ得なかったのである。
    とくに大和国家の成立過程に征服された氏族や、それとゆかりのある地域はなおさらである。
    それでも朝鮮経営が順調であれば、その軍役上の不満も抑えることができるが、失敗となれば不満は倍加して、ついに爆発に至る。

    この時、筑紫の磐井の軍は「火豊二国に掩拠」ったといわれるから、筑紫はもとより肥前・肥後・豊前・豊後の諸豪族あげての反抗となっていた。
    磐井は、外は海路に朝鮮諸国のっ修貢船を誘致し、内は毛野の軍を肥豊という内陸に引き入れたから、毛野の軍はたちまち妨げられて、中途に渋滞する有様となった。

    この飛報告に接した朝廷は、秋八月、物部大連麁鹿火をして磐井を追討せしめることとした。大連の覇権というなかに、朝廷としても事態の重大性を明確に認識したことが知られる。
    天皇は斧鉞をとって大連に授け、「長門以東をば朕が制らむ。筑紫以西をば汝制れ。
    賞罰を専ら行ひ、頻りに奏すことにな煩ひそ」と詔したと伝える。
    この処置は、「称制」というべきもので、のちに、斉明天皇7(661)七月天皇歿後、天智天皇七年(668)正月天智天皇の即位まで、皇太子中大兄皇子の称制が行われたが、この時も、天智天皇二年(663)の朝鮮半島における白村江の戦いが示すように、国家的危機に当たっていた。
    朱鳥元年(686)九月天武天皇の歿後、皇后が臨朝称制し、持統天皇の即位に至った期間も、大津皇子の謀反が示すような政治的動揺があった。
    皇后の場合はともかく、中大兄皇子があえて直ちに即位せず、称制としたことは、それじしん一つの研究題目であるが、百済救援の出兵問題ときりはなして論じ得ないことであり、そのことが最大の理由であったと考えられる。
    それと同じく磐井の叛乱においても、すでに筑紫以西が磐井の傘下に置かれた事態のなかで、この地域の支配を麁鹿火の軍政に委ねたものであろう。
    大和国家の天皇支配の支配は、この時点では長門以東にとどまったことを、ここではきわめて明確に宣言した。大連麁鹿火が授けられた斧鉞は、まさに久米ノ子の「手量」のように軍政権の象徴となっていったのである。(*下に示す引用を参照されたし。抜粋者)

    大将軍麁鹿火の活動は、必ずしも急速な軍功とはならなかった。しかし継体22(528)11月に至って、麁鹿火は磐井と筑紫の御井郡で交戦し、激闘の結果、ついに磐井を斬ることができた。
    その間1年有半、磐井の反抗闘争がいかに根強かったかを示すとともに、これを圧倒した大和国家の軍事体制もまた、一段の権威を帯びることになったといえよう。
    12月、筑紫君葛子は。父の罪によって誅せられることをおそれ、朝廷に糟屋屯倉を献じて死罪を償わんことを求めるに至った。

    これが継体・欽明朝内乱の前段階というべき国造磐井の叛乱の全貌である。
    日本の古代文化 (岩波現代文庫)
    ISBN-10: 4006001667
    ISBN-13: 978-4006001667

    林屋辰三郎

    ファスケス 関係あるかどうかわかりませんが面白い類似であると思います。20150913

    ちなみに前掲引用部を読みますと、私はコンラッドの著作「闇の奥」あるいはコッポラの映画作品「地獄の黙示録」を想起します。
    その場合、紀生磐とは、クルツ(闇の奥)あるいはカーツ大佐(地獄の黙示録)に置換されるのでしょうか?
    ともあれ、少なくともその役回りは類似しているのではないかと考えます。
    そして、このことはさらに様々な分野における類推に及ぶのですが、それが果たして当を得ているかどうかは不明です。
    ともあれ、先に進みます。20150914





     






    加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋

    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋および
    中島岳志篇 「橋川文三セレクション」 岩波現代文庫刊 pp.90-93より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    奈良朝以来政治的に有力な一族であった紀氏は、藤原氏の圧力のもとで、九世紀中葉には早くも影響力を失いつつあった。

    没落貴族紀氏のなかからは、学問や芸術に専心する者が輩出し、紀長谷雄(845-912)道真に学んで、九世紀末の有力な漢詩人となった。
    その子、淑望は、最初の勅撰和歌集「古今集(905)のために、シナ語の序(「真名序」)を作った。
    紀興道雅楽頭となり、その甥有常も音楽で身をたてた(同じく雅楽頭)。興道の孫は、紀貫之(-945)で、「古今集」の撰者の一人、「真名序」を意訳して日本語の序(仮名序)をつくり、土佐守を勤めた(931-34)後、「土佐日記(935)を書いた。
    70歳をすぎてようやく従五位上(941)に達した貫之の貴族としての地位は高くなかった。
    しかし後述するように、勅撰集に載せるその歌の数は古今を通じて最も多く(451)、歌人としては、九世紀を代表し、後世にあたえた影響も大きい。
    貫之の従弟、友則は「古今集」の有力な歌人で、撰者の一人、息子の時文は「後撰集(951)の撰者の一人である。
    学芸を以って官界に地位を築いた菅原氏の場合とは異なり、紀氏は政界に望みを失って学芸に拠って立ったのである。
    もし前者を知識人の上昇型と称ぶとすれば、後者は下降型であり、九世紀の知識人社会は、両者の交わるところに成立したといえるだろう。

    知識人の二つの型を代表していたのは、衆目のみるところ、菅原道真と紀貫之である。
    官界に地位を得るための学芸(いわば表芸)は、シナ語の詩文であったから、道真は当然シナ語で書いたし、また書かざるをえなかった。
    不遇の貴族、貫之は、おそらく官界に野心がなく、日本語の新しい表記法(かな)を利用して、母国語の抒情詩(裏芸)に専念することをためらわなかった。
    道真の詩文の内容は、直接に公事に係るか、あるいは少なくとも公事を背景としている。
    その「菅家文章」は彼自身が編んで天皇に奉った「菅家三代集」の一部であった。
    貫之の歌と文章の内容は「古今集」の序を除けば、全く私的なものである。
    「土佐日記」に到っては、天皇に奉るどころか、その第一行に、仮託して、女の書いたものだと断り(「おとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてすなり」)、その最後の行には、早く破りすててしまった方がよかろう(「とまれかうまれ、とくや()りてん」)とさえ書いていた。
    「土佐日記」のところどころにあらわれる軽い諧謔は、日記そのものに向けられていたのである。
    道真は悲劇の主人公であった。しかし貫之は自分自身を笑って暮らすことのできる人物であったらしい。

    しかし道真の世界と貫之および「古今集」の世界との、相触れるところがなかったわけではないし、相通うところがなかったわけではない。道真の親友、紀長谷雄の息、淑望が「古今集」の「真名序」を作ったことは、まえにいった。「真名序」はその冒頭の一般的理論を「詩経」の「大序」に採り、貫之の「仮名序」は大いに「真名序」に拠る。
    「大序」によれば、詩の定義は次のようである。「詩者志之所之也、在心為志、発言為詩」。
    「真名序」の第一行は、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける」という。これは明らかに一つながりであって、道真の漢詩の世界と、貫之の和歌の世界とは、全く別の目的を追っていたのではない。

    ISBN-10: 4480084878
    ISBN-13: 978-4480084873

    オリヴァー・トムソン著 山縣宏光/馬場彰訳 「煽動の研究」 TBSブリタニカ刊 pp.50-53より抜粋

    プラトンは「国家」のなかで、大衆に対して巧みな嘘をつくように勧めているが、歴史の示すところによれば、まったくの嘘というものは、通常ろくなプロパガンダにはならない。
    一度は聴衆の軽信性をうまく利用できても、嘘が発覚した時には、その宣伝源がもう一度信頼されることはほとんどあり得ないからである。

    そのような好例は、ヒトラー時代の末期に見られる。
    この時には新聞紙面のほとんどの部分がもはや信用されていなかったので、プロパガンダを忍ばせるために星占いの欄まで利用されたのである。
    こうした事例は、ドゴール派のテレビが党のプロパガンダに使われ過ぎて信頼されなくなった時にも見られる現象である。

    聴衆の信じやすさのもう一つの要因として偏見がある。
    マギールは、偏見を持っている聴衆に対する新たなプロパガンダの効果について述べている。
    基本的には、聴衆はそのようなプロパガンダを無視するか、あるいは先入観と合致するように宣伝内容の意味を歪めて受け取ってしまう。

    聴衆の信条や態度は、引き続き何代にもわたるプロパガンダによってつくりだされたものであることを考えると、これと矛盾する思想を信じさせることは、いかなる宣伝家にとってもきわめて困難であることがわかる(伝統というのは、間接的なプロパガンダ以外のなにものでもない。)

    人の態度がいつまでも変らなかったり、聴衆が一見保守的に見えることが多いのは、短期的な宣伝活動に比べて長期にわたるプロパガンダの方が、より深い実質的な効果をもっているためである。
    宣伝内容が既往のものと比べて非常に激しく変化した場合―たとえば、イスラエルにおけるキリストの在世時代、ドイツにおける1930年代、十字軍時代の封建ヨーロッパ、もしくは福音主義復興時代のイギリス人などの場合―、初めは効果のあがらないプロパガンダが、その後突然、精神的準備を促す感情の高揚とともに、激しい回心を生じるのも、前と同じ理由によるものと考える。

    換言すれば、真に根本的な態度変化が起きるためには、おそらく長い前宣伝や、大きな感情の高まり、あるいはサーガントが洗脳や改宗の研究のなかで記述しているように、身体への攻撃さえ要求される。

    こうした例は、ダマスカスに赴く途中のパウロを襲った眩しい光とか、ケストラーがマルクス主義への回心を語った時のような目標喪失と帰依の物語などに見られる。

    別のプロパガンダに前もって触れることは、後のプロパガンダにとってすこぶるハンディキャップになるという事実から、次のような可能性が出てくる。
    すなわち、プロパガンダをイデオロギーに対する一種の予防接種として見立て、その機能をもっと徹底的に衆目にさらすことによって、将来予測されるプロパガンダに対して免疫性をつけるように国民を訓練できるということ。
    そして、もう一つの可能性として、プロパガンダというものが議論もしくは問題の両面性を取上げ、自己の立場を論証したり支持したりすると同時に、相手の立場の過ちも証明したりその権威を落したりすることによって、より大きな効果をあげ得るということがある。

    この分野では、マクガイアがいくつかの実権について報告しており、フェスティンジャーとカールスミスは偏見と認識の不一致というややむづかしい分野について同じく実権報告を行っている。
    抽象的な心理学の理論は、こうした方面ではたいして説得力がないし、今のところあまり役にたっていない。

    媒体が伝わる範囲を拡大する方法にはいくつもあり、また聴衆によってとくに高い受容性を示すこともあるが、宣伝効果を増す主な原因は、宣伝内容の組み立て方にある。
    媒体面でよく知られた強化要因は、もちろん繰り返しである。

    ゲッペルスは言っている。「何度も繰り返せば嘘でも人は信じる」と。1776年、フランスで親米宣伝をした際の繰り返しの効果に感銘を受けたベンジャミン・フランクリンは次のように言っている。

    「鉄は熱いうちに打て、というのはもちろん正しいが、冷めないように絶え間なく打ち続けることも実行可能だ」。
    しかし、繰り返しは、結局は「収穫逓減の法則」もしくは過剰効果という壁にぶつかる。
    これは、ふつう退屈さが増大したり、繰り返しの持つある特徴のために敵対的な態度が引き起こされるからである。
    にもかかわらず、繰り返しの限界についての絶対的な法則は存在しない。
    限界は当然、宣伝内容、媒体、および聴衆の性格によって変化するからである。

    聴衆が異常に高い受容性を示すのは、聴衆がとくに高い読み書きの能力とかその他の受容技能を持っている場合、もしくは時に漠然と精神的空白と呼ばれる状態で悩んでいたりする場合である。
    聴衆が「倦怠」に苦しんでいるときは、既存の思想がいわば老朽化して新しい事物を導入する能力を失っているので、聴衆は新しいプロパガンダによりひかれる傾向がある。

    すでに述べたように、一般に思想というものは保守的であるが、同時にまた一つの思想が終わりに近づくと、新しい観念形態を渇望するようにもなってくる。
    ホッファによれば、「大衆運動がその発生期に信奉者をひきつけて放さないのは、その教義とか約束とかのためではなく、それが個人生活の不安とか無意味さから逃避する場所を与えてくれるからである」という。極論だが、検討の余地はあろう。

  • 出版社: TBSブリタニカ (1983/06)
  • ASIN: B000J78NSU

  • 馬場彰





    宮崎市定著「古代大和朝廷」筑摩書房刊より抜粋

    幕末の攘夷論と開国論

    -佐久間象山暗殺の背景-

    日本の幕末維新史は、長い間、いわゆる明治の元勲たちの圧迫をうけて、非常にゆがんだ形で述べられてきた。
    戦後になって自由な研究が許されるようになったといっても、一度ゆがんだ形はなかなか真の姿を取り戻せない。
    いわゆる攘夷運動というものの実態も、意外に真相が知られていないのではあるまいか。
    そしてこれが分かっていないと、せっかく当時、一死を賭して開国論を唱えた佐久間象山の歴史上における位置づけも、十分みたされないおそれがある。
    実は私は象山の事蹟については何も知識を持たない者であるが、幕末における開国の影響につき、中国との比較において、従来少し考えたことがあるので、当時の攘夷運動を背景として、彼の暗殺が政局に及ぼした波紋のあとをたどってみようと思う。

    幕末の攘夷論には、きれいな攘夷論ときたない攘夷論の二つの異なった顔がある。第一は、観念的な攘夷論で、水戸派がこれを代表し、日本の国体というものを前提とした議論であるから、はなはだ純粋できれいである。ところが第二は、薩長によって主張された攘夷論で、もちろん水戸派の影響を受けているには違いないが、それを主張するに至った動機には、多分に地方的な利害、実益がからんでいるきたない攘夷論であり、この裏面の実情を知らないで議論だけをうのみにすると、本当の歴史の動きが分からない。

    幕末には攘夷運動の張本人であった薩長が、いざ天下を取ってしまうと、急に開国主義に豹変したのは、いったいどうしたことか。政権担当者としての責任が、彼等の迷妄をさまして開眼させたのだろうか。天下の輿論が開国に向かったから、仕方なくそれに追随したのだろうか。しかしいずれにしても、あとから説明に困る程の急激な変わりようである。この問題を解くためには、もう少し遡った時代から歴史を説明してかからなければならない。

    ゆらい薩摩と長州とは、徳川幕府にとって最も警戒すべき外様の大藩であった。しかしながら、単に石高から云えば、薩摩の七十七万石は加賀前田氏の百二万石に及ばず、長州毛利氏の三十六万石に至っては、広島浅野氏の四十二万石、仙台伊達氏の六十二万石、その他にもこれを凌駕する大藩が存在する。その間にあって何ゆえに薩長二藩だけが、幕末あのように精力的な活動をなしえたのであろうか。理由はいたって簡単である。藩の財政が豊富であったからにすぎない。

    しからば何ゆえに薩長二藩の財政が豊富であったかといえば、皮肉にも、それは幕府の鎖国政策の結果であったのである。
    周知のように、幕府は長崎一港をオランダと清国に開放し、これを幕府直接の統制化におき、他の大名は何人たりとも諸外国と直接交渉してはならないことを厳命したのである。
    しかし実際問題として、海は広く海岸線は長いので、密貿易を徹底的に取り締まることは困難であった。そしてすべて統制経済は、きびしければきびしいほど、密貿易の利益はそれに正比例して多くなるものなのである。この密貿易を、挙藩一致して大々的に行ったのが、実に薩摩と長州とであった。

    薩摩は密貿易に対して最も恵まれた条件の下にある。
    それは琉球を臣属させているからで、琉球へ通うためだといえば大きな船も造れ、琉球を通じて中国と貿易ができる。
    そのうえに自国の海岸地方へ清朝船を招き寄せたりして盛んな密貿易をやったものである。
    次に長州は朝鮮に近い。
    朝鮮との交通は、本来ならば対馬の宗氏があたるはずであるが、対馬自体にはほとんど産物がないから、本土の力を借りなければならない。
    そこで実際には朝鮮貿易の実利をつかむのは長州であった。その他に対清国密貿易も抜目なくやっていたらしい。
    そして長崎から遠いことがかえってその密貿易を容易にならしめたと思われる。

    八代将軍吉宗が就任すると、文面だけを見れば、これほどばかげた話はない。
    藩の後援がなくてどうして密貿易ができようか。
    この命令は実は暗に幕府が密貿易をやっている西方諸藩に対して警告を発しているものとしか受け取れないのである。
    しかしそんなことでひるむような薩長ではない。

    薩長二藩にとっては、幕府の鎖国政策は何十万石の加増にもまさる恩恵であった。
    まさに鎖国さまさまである。
    そこへ起こってきたのがヨーロッパ諸国の黒船の渡来、続いて開国論の擡頭であった。ところで開国が実現されれば、彼等の密貿易の利益は当然なくなってしまう。
    季節風を無視し、いつでも蒸気船が渡来してくるというような新情勢に対して、普通の判断力を備えたものならば、開国の止むべからざることを悟るのは当然である。
    第一に鎖国令を下した本尊の徳川幕府からして、開国に踏み切らざるを得なかった。ところがそこへ強い抵抗が起こった。
    これは京都の朝廷を中心とする頑迷派であるが、これはかえって処理しやすい。
    頑固な人間には臆病者が多いからである。
    ところが最も扱いにくいのは、第二の薩長を中心とする利己的な、きたない攘夷論者であって、その本音は自分たちの密貿易の利益を温存するにあった。

    佐久間象山の開国論に共鳴した吉田松陰が、安政元年(1854)、日米仮条約調印の直後、米船に投じて密航しようと計ったことはあまりにも有名な逸話である。
    その松陰が長州へ送り返されて蟄居を命じられると、今度は急に攘夷論に早替りしたのはなぜか。
    これは長州という土地固有の利己的攘夷論に同化されたと考えなければ、何としても理解できない不思議である。
    松陰はまだ年が若かったせいもあるが、こういう点からみればたいして見識のある人物ではない。
    何となれば、長州のような所においてこそ、もっと大局を見通した開国論が必要であったのだ。

    まえに述べたように、薩長は鎖国政策によって莫大な利益をあげている。
    ところが幕府がその鎖国政策を取り消して、横浜を開港し、ここで欧米諸国と貿易を開始するとなると、日本の対外貿易の中心は横浜に移り、幕府の直接統治下にある江戸付近が富強になって、ひいては幕府そのものも若返って勢力をもりかえしてこないともかぎらない。
    そして清国がすでに諸外国に向って港を開いた後であるから、清国の物資も欧米人の手を通じて、横浜、さらには神戸から、直接日本の中央部に運ばれてきそうな形勢にある。
    そのときには、長州の萩や、薩摩の鹿児島のような僻地の密貿易港は完全にその存在の意義を失ってしまうのだ。
    これは藩の生命にかかわる重大事である。
    是が非でも今のうちにもみ消して、幕府の開国体制をくつがえさなければならない。
    これが薩摩と長州とに利害の共通した立場であり、大きな声で外部に向っていえないが、内部に対しては別に言を待たずしてわかる自明の理であったのである。

    そこで新たな意味をもった攘夷運動は、薩長二藩によって、全力を挙げて展開され、執拗に継続されたのである。
    幸いに二藩は当分の間、幕府も及ばないほど財政面に余裕がある。そこで思い切って金銀をばらまき、自藩の脱走者はもちろん、他藩の浮浪人をも誘って、尊王論を強調し、その陰に攘夷論をそのばせて、徳川政権を揺り動かそうとしたのであった。

    こういう金ずるをもたない山国信州から出た佐久間象山のような政客は、だから哀れなものであった。
    あくまで真正直な開国論で、きたいない攘夷論に立ち向かう。
    それはほとんど単身素手で、組織のある暴力団の真ん中にとびこむようなものである。
    その立場はいきおい既成の秩序に従って、世界の変化に追いつこうとする。
    公武合体の開国論を唱えるよりほかはなかったのである。
    しかもその既成勢力はまったく腐敗していてだらしなく、味方の身上を保護するだけの熱意も組織も持ち合わせていなかった。

    古代大和朝廷 (ちくま学芸文庫)
    ISBN-10: 4480082298
    ISBN-13: 978-4480082299
    宮崎市定