2015年9月22日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋

林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋および
中島岳志篇 「橋川文三セレクション」 岩波現代文庫刊 pp.90-93より抜粋
とあわせて読んでみてください。

奈良朝以来政治的に有力な一族であった紀氏は、藤原氏の圧力のもとで、九世紀中葉には早くも影響力を失いつつあった。

没落貴族紀氏のなかからは、学問や芸術に専心する者が輩出し、紀長谷雄(845-912)道真に学んで、九世紀末の有力な漢詩人となった。
その子、淑望は、最初の勅撰和歌集「古今集(905)のために、シナ語の序(「真名序」)を作った。
紀興道雅楽頭となり、その甥有常も音楽で身をたてた(同じく雅楽頭)。興道の孫は、紀貫之(-945)で、「古今集」の撰者の一人、「真名序」を意訳して日本語の序(仮名序)をつくり、土佐守を勤めた(931-34)後、「土佐日記(935)を書いた。
70歳をすぎてようやく従五位上(941)に達した貫之の貴族としての地位は高くなかった。
しかし後述するように、勅撰集に載せるその歌の数は古今を通じて最も多く(451)、歌人としては、九世紀を代表し、後世にあたえた影響も大きい。
貫之の従弟、友則は「古今集」の有力な歌人で、撰者の一人、息子の時文は「後撰集(951)の撰者の一人である。
学芸を以って官界に地位を築いた菅原氏の場合とは異なり、紀氏は政界に望みを失って学芸に拠って立ったのである。
もし前者を知識人の上昇型と称ぶとすれば、後者は下降型であり、九世紀の知識人社会は、両者の交わるところに成立したといえるだろう。

知識人の二つの型を代表していたのは、衆目のみるところ、菅原道真と紀貫之である。
官界に地位を得るための学芸(いわば表芸)は、シナ語の詩文であったから、道真は当然シナ語で書いたし、また書かざるをえなかった。
不遇の貴族、貫之は、おそらく官界に野心がなく、日本語の新しい表記法(かな)を利用して、母国語の抒情詩(裏芸)に専念することをためらわなかった。
道真の詩文の内容は、直接に公事に係るか、あるいは少なくとも公事を背景としている。
その「菅家文章」は彼自身が編んで天皇に奉った「菅家三代集」の一部であった。
貫之の歌と文章の内容は「古今集」の序を除けば、全く私的なものである。
「土佐日記」に到っては、天皇に奉るどころか、その第一行に、仮託して、女の書いたものだと断り(「おとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてすなり」)、その最後の行には、早く破りすててしまった方がよかろう(「とまれかうまれ、とくや()りてん」)とさえ書いていた。
「土佐日記」のところどころにあらわれる軽い諧謔は、日記そのものに向けられていたのである。
道真は悲劇の主人公であった。しかし貫之は自分自身を笑って暮らすことのできる人物であったらしい。

しかし道真の世界と貫之および「古今集」の世界との、相触れるところがなかったわけではないし、相通うところがなかったわけではない。道真の親友、紀長谷雄の息、淑望が「古今集」の「真名序」を作ったことは、まえにいった。「真名序」はその冒頭の一般的理論を「詩経」の「大序」に採り、貫之の「仮名序」は大いに「真名序」に拠る。
「大序」によれば、詩の定義は次のようである。「詩者志之所之也、在心為志、発言為詩」。
「真名序」の第一行は、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける」という。これは明らかに一つながりであって、道真の漢詩の世界と、貫之の和歌の世界とは、全く別の目的を追っていたのではない。

ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873

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