2015年9月22日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」補講 筑摩書房刊 pp.91‐95より抜粋

「日本霊異記」では「仏」「法」「僧」の三法に従わないものが〈悪〉となっているが、同時にとんでもないエピソードもいろいろ出てくる。善導主義というよりも〈人間〉の発見があるのでは。

「日本人は仏教説話集というものを受け入れました。「日本霊異記」から代表的なものとしては「今昔物語」になって、それから「沙石集」になりましたが、みな同じ系統のもので、仏教説話集はお寺のお坊さんのための一種の教師用参考書に近いものです。学問のあるお坊さんが書いたと思いますが、もちろん写本で回覧するのだけれども、お寺に集まる人たちの大部分は字が読めなかった。お寺は宮廷と違って、宮廷は貴族しか集まらないけれども、お寺は一般人のための学校兼病院兼教会でした。これは念頭に置く必要がある。
お寺は宗教的なものだけじゃなくて、唯一の学校はお寺のなかにあった。学校だから当然講義します、仏教の話をするのだけど、面白い話をしないとみんな飽きてしまいますから参考書が必要だった。
 
字の読めない人が「日本霊異記」を読めたはずがない。そうではなくて、講義をするお坊さんが「日本霊異記」から面白い話を仕入れておいてお寺で話したと思います。聞いている人は一般大衆ですから、話が面白くなければいけない。凡庸な文部科学省が編纂した善い話ばかりの退屈な善導主義ではうまくいかないでしょう。大衆は字は読めなくても人生の経験はあるのだから、そんな甘っちょろい話をしても何の関心ももってくれない。ほんとうに彼等を動かすには実際の場面に臨んで、もちろん悪いやつもいるし、自分のなかに悪い要素もあるだろうし善い要素もあるだろうが、人生複雑で、そのなかを生き抜いていくときの知恵みたいなものが必要でしょう。そこにふれない限り相手にされないのです。それはきれいごとじゃない。
 
平安朝の貴族社会は税金で成り立っていて生産的な仕事はしていなかった。平安朝の京都は産業がなくて税金都市でした。そのうえ階級的世襲制度でしたから生活の心配なしに暮らせたわけで、「源氏物語」の登場人物のほとんどすべては経済問題の心配をしていない。心配なのは、彼女が私を愛しているかどうかということだけです。ところが「日本霊異記」の聞き手の関心事は経済問題です。まずくやれば暮らせない命がけの問題でしたから、猟師はどうしても猟の仕事を、商いの人はどうしても商いを成り立たせないといけないので、その時の知恵、そのときに必要な人間理解、人間心理に対するリアリズムがなければもたないということを見事に反映しています。「日本霊異記」だけでなく、「今昔物語」の本朝編、つまり日本の話の部分も、「沙石集」も同じです。善いことか悪いことかというよりも、困難な状況をいかに切り抜けるかということの知恵、知識、戦略、勇気、決断力、必要ならば腕力ということです。90パーセントの日本人はそっちのほうで暮らしていた。それが反映している。天皇に帰依することより、毎日の暮らしを維持しなければならないということです。座ってものおもひなんかしていたのでは食べられない。早く家を出て畑を耕すか、鳥や獣をとらないと食べていけないでしょう。だから、二つの日本があるということが、「日本霊異記」にあらわれたのであって、文部科学省は支配層の側ですから、そちらのほうだけ学校で教えてきましたが、ほんとうはその二つを並べて教えるべきです。
 
ただ、少し注釈が必要なのは、では「日本霊異記」の話の目的はわかったが、そのためにどういう材料を使ったかというと、一つは日本の民間の伝説や昔話から採っていて、中国文学の影響があとの半分。中国の仏教説話である「法苑珠林」などからエピソードを採っています。では、「法苑珠林」はどこから採ったかというとインドです。インドの仏教説話集というのは膨大なもので、一部は翻訳されて中国に入り、それは中国語で語られていて、それから日本でまた採って語り直しました。全部がそうだというのではなく日本製のものもありますが、かなりの部分はそうです。余談ながら全部じゃないですが追跡できる話もあります。地名や人名なんかを変えるのがうまい。なんとか村のなんとかという男がいて、なんてやってますが、元は中国の話で、そのまた元はインドの話です。面白いことは、「法苑珠林」と「日本霊異記」とを比較すると、話の筋はまったく同じですが、どこを詳しく話してどこを簡単に済ますかという語り口は違うんです。一つの話だけではなくて、いくつもそういう例があって、同じような仕方で食い違いがあると、その食い違いは大いに日本の大衆のメンタリティーを表現しているということになるでしょう。奈良時代の大衆の感情生活を推察する材料は極めて限られていますから、「日本霊異記」はまさにそういう意味で貴重です。それだけじゃなくて、話もたいへん面白い。」
「日本文学史序説」補講

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