2015年9月22日火曜日

20150922 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.56-58より抜粋


人間は巨大な外界の中にいて、自らもその一部分である。しかし、人間はこの外界の事実の動きにただ機械的にしたがっているのではない。それに順応したり反撥したりして、意欲し行動する。これによって外の事実に新しい展開が起こり、その新しい展開に対してさらに人間は反応する。

「科学的」解釈は、歴史の中に人間の主体的意思を認めず、この事実には目を塞いで右のような交互作用による各段階の展開ということを考えない、これは硬い図式を擬制して、人間はあらゆる段階においてつねに同じ目的のために意欲して行動して、この図式を完成するとしている。複雑な現象の中からただ一つの要素のみを取り出して、これによって固定した世界像を組み立てている。

しかし、自分のはじめからの図式を完成しうるものはいない。歴史は意外な動きをする。行きすぎ、過誤、外国の反撃とそれへの抵抗、勢い、偶然・・などがからみあって、しまいにはヒョウタンから駒が出たような結果になってしまう。昭和十年ころには、誰が、対米・英・仏・蘭・・ソ連を予想していたろう!誰がその準備をしていたろう!

「大隈伯昔日譚」に維新を回顧して次の様な感想が述べてある。―「一寸先は闇の世とは是等の時機をいふならむ。明治維新を去る僅かに三四年前においては、天下の志士は啻に前途を観察する能はざりしのみならず、大概皆紛乱の場に転輾したるに過ぎざりし。・・有りのままを言へば、かかる際に処したる人は、何れも破船の激浪怒濤の中に漂ふに異ならず、眼界汪洋として東西を弁ふ能はず、彼方へ泳がむと欲して此方に流され、北に向はむとして南に却き、遂には意外の方向に於て彼岸に達するが如し。唯其賞賛すべき所は気力と忍耐と臨機の智能にすぎず。・・僅々数年間に幕府を倒して大政を奉還せしむに至るとは、夢想にも及ばざりし事ならむ」そして、維新も結局はある抗しがたい時代思潮の力だった、と感慨している。―「余は前にも断言せり、今又茲にも断言す。維新改革の原動力は薩長の手に存したるに非ず、公卿の間に出たるものにも非ず、又幕府の中に宿せしにも非ず、総て九州の端より奥羽の辺に至る迄、天下各地の青年書生の頭脳に渙発し、時勢と共に其力を養ふて遂に我国空前の偉業を奏したりと。維新の歴史を描く者は之を特筆大書すべし

私には、これが歴史に対するセンスを持った観察だと思われる。この歴史の中で活動していた人が後年になって回顧したとき、彼は事実を枉げて図式の中に押し込むには堪えなかったのであろう。そして、この大隈伯が見たようなことを、我々も見たのではなかったろうか?


西洋では社会科学者は普遍化し一般化し、歴史家は個体化し特殊化して、その間にある対立があるが、今の日本では社会科学が人文に関する一切を説明しつくす全体的世界観のごときものとされているから、歴史も事象の意味の関連を求めようとする時には社会科学に呑み込まれてしまっている。
しかし、ある特定の立場から世界を体制化したものをもって、すなわち世界の全体だとすることはできない。科学は自分の領域の中にあっては偉大なものであるが、それを出てすべてを説明しつくす世界観をもって自任すると、かならず擬似宗教のようなものになってしまう。

歴史をはじめからすべての文化現象の中から、人間の心を抜いて考えるのが科学的であるとする一世紀前の独断は、もはやとうてい維持しがたきものである。これは、自分の要求に叶う世界像を論理によってえがきだして、それに耽るという、かえってこれこそ「むなしい唯心論」に堕している。

竹山道雄 
大隈重信
昭和の精神史
昭和の精神史 (中公クラシックス)
ISBN-10: 412160122X
ISBN-13: 978-4121601223

小林秀雄「科学する心」

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