2015年7月14日火曜日

20150714 角山榮著「新しい歴史像を探し求めて」ミネルヴァ書房刊pp.103-108より抜粋

ちなみに戦国時代末期、堺より南の和歌山(紀伊)にて、おそらく堺にて製造された大量の火縄銃を装備した国人、土豪連合組織(雑賀衆)が存在し、この地を統治していたことは大変興味深く、同じく当時商人連合組織(堺衆、会合衆)が統治していた堺と何らかの共通性があるのではないかと考えさせられます。そして、その共通性とは大阪湾沿岸南部地域だけに限定されるものなのか?

あるいは、瀬戸内東部地域あたりまで延長可能であるのか?は同じく大変興味深く、同時代の九州、山陽、山陰、四国、近畿、そして戦国の群雄を数多く輩出した東海地域と比較した場合、何らかの特徴の存在が示唆されます。

そして、さらに同上地域の古代における銅鐸の意匠、古墳造営における傾向などとも何らかの相関を見出すことが可能かもしれません。また、それは現代において見出すことができる地域性においても同様であるかもしれません。

以上を踏まえ、以下、書籍からの抜粋となります。

「アジア経済の問題は、中国と日本がアジア特産品である生糸と茶の世界市場の販売競争においてどちらが勝利を占めるかという問題ではない。むしろ世界市場に組み込まれた中国・日本その他アジア各国・各地域に西洋諸国から激流のごとく流入してくる近代文明の製品に対して、中国・日本はどう対応したか、という問題こそ、その後のアジアの未来像と深く関わる点において重要な課題ではないだろうか。

それでは人々の欲望をかきたて近代文明の製品とは、どんなものであり、どんな特徴を持っていたか。それはひと口でいえば産業革命以降、旧文明にはなかった日常生活便宜品がつぎつぎと開発され生産普及したことである。例えば日常生活のなかに入ってきたものとして、マッチや石鹸、洋傘、懐中時計、石油ランプ、ミシンなどが挙げられるが、これらはその使用が制限されていた明治維新前の身分制の制約から解放された商品であるだけに人々の欲望をかきたてた。これら近代文明の製品に共通している特徴は、第一に機能性、効率性、便利性である。第二には脱身分制、脱宗教制、脱階級性、脱民族性、第三には資本主義的「商品」であるという特徴を持っていた。従って現代に至るまでなお続いているのである

例えば、火打石に代わるマッチは、火打石よりも早くしかもかんたんに火を起こすことができるし、石鹸は、糠袋や軽石よりも手軽に身体が洗えるし、便利で効率がよい。だからマッチや石鹸などは身分や宗教、民族を越えて金さえあれば誰でも購入しその恩恵に与ることのできる「商品」として提供され、すべてのものにとって憧れの的になったのである。西洋式生活便宜品革命が開国とともに日本・中国・東南アジアへもたらされたのである。

そのとき日本と中国とではまったく異なった対応をとったことは注目すべきである。例えばマッチは開国・明治維新とともにスウェーデンマッチを中心とする欧州のマッチが日本に入ってきた。中国では日本より少し早く欧州マッチの輸入が始まった。従って上海、香港といった都市はたちまち欧州製マッチが充ち溢れる状態になった。ところが日本では洋式マッチを自分自身で開発・製造する方策をとった。明治九年(1876)四月、清水誠が東京に新火遂社を設立して早速製造を開始した。これを先頭にマッチ製造業がぱっと関西や中部地方にも拡大し、数年のうちに国内市場はほぼ完全に日本製マッチによって掌握された。そして明治十三年以降には、輸出が本格的になる一方、輸入マッチは数量、金額ともに急激に減少した。この点が中国と日本の技術力・経済力における大きな相違点であることに注目すべきである。この差が生まれたのはいつ頃であったかはのちほど述べる。

こうして日本は国内市場から西洋製マッチを駆逐した上に、輸出をつうじて釜山・仁川といった朝鮮、それに上海、香港を中心とする中国市場に進出、そこでオーストリア、ドイツ、スウェーデンのマッチと激しい競争を演じることになった。市場競争のポイントは値段であった。

当時の日本の労働力は、ヨーロッパ諸国と比べてはるかに安かった。また当時の朝鮮や中国の消費者の生活水準も低かったので、商品の品質がいくら良質であっても値段の高い西洋のマッチは敬遠された。少々粗悪であっても値段が安い日本のマッチの方に引かれた。西洋のマッチはマッチ一箱でないと買えない。それを敢えてマッチの軸、一本、二本いくらで買っていたのが中国の貧しい消費者であった。それに対して安い日本製マッチなら、欧州マッチ軸一本、二本の値で一箱分買えたのである。こうして日本のマッチは西洋のマッチとの競争に打ち勝ち、どんどんシェアを伸ばしていき、明治二十年には香港の市場は日本マッチによって占められるまでに到ったのである。

そうしたなかで中国マッチ工業が日本より約十年ほど遅れて台頭してくるのであるが、製造技術および材料の一部は日本からの伝授あるいは購入というかたちで、しかも日本以下的賃金労働者による製造で中国マッチは日本マッチを独占市場から退出させてゆくのである。

いま見てきたマッチのケースは、他の石鹸、洋傘、石油ランプなどいわゆる洋式雑貨工業や近代的紡績業などについてもいえることであって、アジアの近代化、工業化の展開のなかで、日本が辿った道、あるいは果たした役割は、ヨーロッパ諸国が産業革命(テイク・オフ=工業化)の発電所であったとすれば、強い電流が直接アジアへ配電されても落差が余りにも大きくて、ときと場所によっては危険な状態であった。そこで日本が果たした役割は変電所的役割というか、いったんは日本においてアジアの人たちがより買い易い、使い易い商品に転化して提供する役割を果たしたのである。日本はこうしてアジアの工業化の先頭に立ち、中国およびASEAN諸国はマッチ工業において日本からの技術と材料の提供、模倣をつうじて発展したように、日本はアジアの変電所的役割をつうじてリーダーシップをとることになる。

日本はいつ中国文明から脱出して独自の文化を開拓したのか。

それでは日本が西洋物質文明の製品をいとも簡単にとはいわないまでも、たちどころにその模造品を製作する才能はいつどのようにして修得したのか。日本は長い間、中国文明の影響下にあって中国文明のフレームワークから脱出することができなかったが、福沢諭吉のいう日本の脱亜入欧は明治維新後のことといわれている。しかし果たしてそうかというと、少なくとも堺の火縄銃の大量生産に関しては十六世紀中頃まで遡ることができる。堺の刀鍛冶が火縄銃を見ただけで、数年のちにそれが欧州製か東南アジア製かについては未解決ではあるかれども製作に成功したことは事実である。それも全国の武将から堺に集まってきた大量の火縄銃注文に対し、現代でいうところの部品互換方式によって大量生産で対応したことには驚かされる。

十六世紀のヨーロッパでは、鉄砲・大砲の生産はふつう一品注文生産といって、一人の鍛冶工が部品のすべてを作って組み立てたといわれるが、堺においては、鉄砲鍛冶が社会的分業によって部品を生産に、それを組み立てたのである。因みに、社会的分業とは具体的にいうと、火縄銃の銃身をつくる鉄砲鍛冶と、台座をつくる台師、および引き金をつくる金具師の三つの社会的分業から構成されていた。といっても、正確なサイズによる規制の徹底したシステムの存在がなければできるはずがない。まして鉄砲が武器として機能するためには銃身にこめられる弾丸のサイズと銃身の口径に狂いがあってはならない。

経営史の教科書では部品互換方式による大量生産方式は、十九世紀中頃、アメリカがコルトのピストル、マコーミックの刈取機、シンガーのミシンの生産に採用されたのが世界で最初と記されている。それが十六世紀堺で鉄砲生産に採用されていたのであれば、アメリカより三百年も早いということになる。鉄砲の生産において十六世紀日本は中国より進んでいただけでなく、天下をわがものにした秀吉に到っては、朝鮮から明までその支配下に置こうとして兵を朝鮮半島に進めたことは、結果として失敗であったにしても、日本の脱中華文明、とくに中国王朝への朝貢貿易はまさに十六世紀中頃には消えていたのであって、その日本台頭の動きは中華的アジアの歴史に大きな転機をもたらすことになった。

その中心的地位を占め、独自の技術、技術創造の役割を果たしたのが、実は堺であった。大阪はまだ存在しなかったから、本来なら京都が中心的役割を果たすべき地位にあったはずである。
しかしフランシスコ・ザビエルが1550年に堺に来て、都の有力者に布教の許可を得る目的で逢うべく、折角上京したにもかかわらず、応仁の乱以後の戦火で荒れ果てた姿に絶望して、在京数日にして帰退したように、京都の現状はとても文化的活動に主導的役割を演じる状況にはなかった。」
角山榮





ウィンストン・チャーチルの戦争についての記述 (これは現代日本にとって興味深い記述であると思います。)

『戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが軍隊を勝利に導き、兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場をかけめぐり、緊張したわずか数時間の中で彼等の決断と行動が帝国の運命を決するというようなことは、もうなくなったのだ。これからは彼等は政府省庁のような安全で静かでものうい事務室に書記官たちに取り囲まれてすわり、一方何千という兵士たちが電話一本で機械の力で殺され息の根を止められるのだ。我々は既に最後の偉大なる総指揮官たちを見てしまった。おそらく彼等は国際的な大決戦が始まる前に絶滅してしまったのだろう。そして勝利の女神は、その様な殺戮を大規模な形で組織した勤勉な英雄と不本意な結婚をすることだろう。

 自己の生存が危うくなっていると信じた諸国は、その生存を確保する為にあらゆる手段を使うことになんの制約を受けなくなる、ということは確かである。そしておそらく、いや確かに、やがてそれら諸国が自由に使えるようになる手段の中に、大規模な限界のない、そして多分一度発動されたら制御不可能となるような破壊のための機関と工程が含まれるだろう。


 人類がこのような立場に置かれたことは以前にはなかった。美徳をいくぶんか高めたり、より賢明な導きを受けたりするようなこともなしに、人類はそれによって彼等自身の絶滅を確実に達成できるような道具を、初めてその手にしたのである。これこそが人類の過去の栄光と苦労の全てが彼等を導き最後に到達させた人類の運命の特質なのである。人類は彼等の新しい責任について思い巡らし熟考するが良い。死が気をつけをして立っている。彼はまさに働こうとして従順に待ち受けている。まさに諸国民をそっくり消し去ってしまおうとして、そしてもし呼ばれれば文明の残したものを再建の望みなきまでに粉砕しようとして待ち受けている。死は、誘惑に弱く当惑しきった存在であり、長いことその犠牲者であったが今この時期だけその主人になっている人間からの命令を待っているのである。』