2022年3月12日土曜日

20220311 集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻 pp.292-297より抜粋

集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木主税訳『文明の衝突』上巻
pp.292-297より抜粋

ISBN-10: 4087607372
ISBN-13: 978-4087607376

ロシアを別とすれば、旧ソ連の共和国のなかで人口が最大で最も重要な国は、ウクライナである。歴史上、ウクライナが独立国だったことは何度もある。だが、近代の大半はモスクワが政治的に支配する地域の一つだった。決定的な出来事は1654年に起きた。ポーランドの支配にたいするコサック人の反乱を指導したボグダン・フメリニツキーが、皇帝に忠誠を誓うことに同意し、その見返りとしてポーランドにたいする反乱の支援を受けたのだ。そのときから1991年までのあいだ、1917年から1920年の短い期間に独立共和国だった以外は、いまのウクライナにあたる地域は政治的にモスクワの支配下にあった。だが、ウクライナは異なる二つの文化からなる分裂国だ。西欧文明と東方正教会の文明をへだてる断層線がウクライナの中心部を走っており、しかもその状態は何世紀もつづいている。かつてウクライナ西部は、ときにはポーランドやリトアニアやオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったこともあった。国民の多くは東方帰一教会の信者であり、東方正教会の儀式を行うが、ローマ教皇の権威を認めている。歴史的に、西部のウクライナ人はウクライナ語を話し、民族主義的な考え方をする傾向が強い。他方、東部のウクライナ人は圧倒的多数が東方正教会系であり、大部分がロシア語を話す。1990年代前半には、ウクライナの全人口の22%をロシア人が占め、ロシア語を母語とする人びとが31%を占めた。小中学校も、ロシア語で教育しているところが多数を占めた。クリミアは圧倒的多数がロシア人であり、1954年までロシア連邦の一部だったが、その年にフルシチョフがウクライナに帰属させた。建前のうえでは300年前のフメリニツキーの決意を認めたということである。

 ウクライナの東部と西部のちがいは、そこに住む人びとの意識にあらわれている。たとえば1992年末に、ウクライナ西部のロシア人の三分の一がロシアにたいする敵意に苦しんでいると答えたが、キエフでそう答えたのはわずか10%だった。東西の分裂が劇的にあらわれたのは、1994年7月の大統領選挙だった。現職のレオニード・クラフチュクは、ロシアの指導者と緊密に協力しあいながらもみずからを民族主義者と称していたが、西ウクライナの13州で勝ち、得票率が90パーセントを超えたところもあった。対立候補のレオニード・クチマは、選挙戦のあいだにウクライナ語の演説を練習し、東ウクライナの13州をクラフチュクに匹敵する得票率で獲得した。クチマは最終的に52%の得票率で当選した。事実上、1994年のウクライナの国民は1654年のフメリニツキーの選択をわずかの差で承認したことになる。この選挙は、あるアメリカ人の専門家によれば「西ウクライナのヨーロッパ化したスラブ人と、ロシア系スラブ人の考えるウクライナの理想像との分裂を反映し、それを明確にしさえした。それは民族の分裂というよりも、文化のちがいなのである」

 この分裂のために、ウクライナとロシアの関係には3通りの発展の可能性が考えられた。1990年代前半、両国のあいだには決定的に重要な問題が存在した。それは核兵器をめぐる問題であり、クリミア問題であり、またウクライナに住むロシア人の権利や、黒海艦隊や経済的な関係の問題であった。多くの人びとが武力衝突を予想し、そのために西欧の評論家のなかには、西欧はウクライナの核兵器保有を支持してロシアの侵略を防ぐべきだと主張する者もいた。しかし、重要なのが文明であるなら、ウクライナ人とロシア人とのあいだに武力衝突が起こることは考えられない。両者ともスラブ人で、大半が正教会系であり、何世紀にもわたって緊密な関係を保ち、両者のあいだの結婚もごく普通に行われている。大いに論争を呼ぶ問題をかかえ、どちらかの国にも過激な民族主義者の圧力がかかっているにもかかわらず、両国の指導者は努力を重ねて、こうした紛争の鎮圧におおむね成功している。1994年半ばのウクライナの選挙で、ロシア志向を明確にした大統領が選ばれたことにより、両国間の対立が激化する可能性は低くなった。旧ソ連の他の地域ではイスラム教徒とキリスト教徒のあいだに深刻な争いが起って、ロシアとバルト三国のあいだでも緊張が高まり、戦闘も勃発している一方で、1995年現在、ロシアとウクライナのあいだには武力衝突は事実上一度も起こっていない。

 二つ目の、もっと実現の可能性のある道は、ウクライナが断層線にそって分裂し、二つの独立した存在となって東側がロシアに吸収されるというものだ。分離問題が最初にもちあがったのは、クリミアに関してだった。クリミア共和国は人口の70%がロシア人であり、1991年12月の国民投票では、ウクライナのソ連からの独立にたいする支持がかなり高かった。1992年5月にクリミア議会はウクライナからの独立を宣言することを決議したが、ウクライナの圧力でその決議を撤回した。しかしロシア議会は、1954年のウクライナへのクリミア半島割譲を撤回すると決議した。1994年1月、クリミアでは「ロシアとの統合」を主張していた候補者が大統領に当選した。これによって一部の人びとが抱いた疑問は、「クリミアは第二のナゴルノ=カラバフやアブハジアになるのだろうか」というものだった。その答えは明確な「ノー!」だった。クリミアの新大統領が、独立を問う国民投票を実施するという公約をしりぞけ、キエフの政府と交渉したからだ。1994年5月、クリミア議会が1992年の憲法の復活を決議し、ふたたび難しい局面を迎えた。その憲法は、事実上ウクライナからのクリミアの独立を認めるものだったのだ。だが、このときもロシアとウクライナ双方の指導者が自制して、この問題が暴力に発展するのを防ぎ、二か月後にロシア寄りのクチマがウクライナの大統領に選ばれたことにより、クリミアの分離運動はおさまった。

 しかし、この選挙によって、ますますロシア寄りになりつつあるウクライナから西部が 分離する可能性がでてきた。ロシア人のなかには、それを歓迎する者もいるようだった。ロシアのある将軍はこう言った。「ウクライナ、というよりも東ウクライナは、5年か10年、あるいは15年のうちに戻ってくるだろう。西ウクライナなどどうにでもなれ!」だが、そのような東方帰一教会の影響下にありながら西欧寄りであるウクライナが存続できるのは、強力かつ効果的な西欧の支援がある場合だけだ。そして、西欧がそのような支援をするのは、西欧とロシアの関係が極度に悪化し、冷戦時代に似た状況になった場合だけだと思われる。

 三つ目のさらに可能性の高いシナリオは、ウクライナが統一を保ち、分裂国でありつづけ、独立を維持し、おおむねロシアと緊密に協力しあうというものだ。核兵器と軍隊の移転の問題が解決すれば、最も深刻な長期的問題は経済に関するものとなり、部分的に共有する文化と緊密な個人的関係によって、その問題の解決がうながされるだろう。ロシアとウクライナの関係が東欧にもたらすものは、ジョン・モリソンが指摘したように、フランスとドイツの関係が西欧にもたらすものと同じだ。後者が欧州連合の核をなすのとちょうど同じように、前者は正教会系の世界の統一に不可欠な核なのである。