2017年2月22日水曜日

20170222 自然の雰囲気と地域性

A「本日の首都圏は昨日同様あまり気温が上がりませんでしたが、風は昨日ほど強くなかったため、いくぶんかは過ごし易かったのではないかと思われます・・。

もうまもなく春の足音が聞こえてくるのではないでしょうか・・?

そういえば、これまで在住した地域とは、それぞれ春の訪れと共に大気全体が当地の自然の香りを帯び、一種何ともいえない雰囲気となっていたことが思い出されます。

とりわけ南紀の田辺みなべあたりの国道42号線から少しだけ内陸に入った山あいの地域では、今頃が丁度梅の開花であり、その香りが満ちているのではないかと思います・・。
そして、そうした雰囲気の中を自動車などで通る時は自然、陶然とした気分になるものです・・。

私は南紀に在住する以前には、こうした『自然の雰囲気に酔う』といったことはありませんでしたので、その感覚、体験とは大変鮮烈であり、未だ現在、身体レベルにてそれを記憶していると思います・・。

そして、おそらく前述の如く季節・地域毎の自然より招来される大気、雰囲気とは、そこに住む人々の持つ性質、すなわち『地域性』に少なからぬ影響をもたらしているのではないかと考えるのです・・。

そして、さらにハナシを進めれば、古今の間に、その地域の自然(住人をも含む)に大きな変動、断層等が認められない場合においては、極端に云えば、その地域から出土する、伝承される古来よりの事物等と、現代のその地域における事物等に共通、あるいはそれらを『貫く何か』があるのではないかと思われるのです・・。

また、民俗学とは極言するならば、こうした地域、国において『貫く何か』を解明する学問であり、そしてその目的とは、柳田國男曰く『予言力の涵養』ではないでしょうか?
しかしながら、この『予言力の涵養』とは、おそらく実利、実用的な目的による視座からは得ることが難しいのではないかと思われます・・。

しかしまたその一方、『予言力の涵養』とは過去・現在・未来に通じる『運命の把握』とも概念的に極めて近似すると考えられることから、それを恐れるといった場合も少なからずあるのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみると三島由紀夫が民俗学を次第に薄気味悪く思うに至った原因とは、あるいは、こういったところにあるとも考えられます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、また、その後の復興を祈念しております。」