2018年5月3日木曜日

20180503 岩波書店刊 バートランド・ラッセル著 安藤 貞雄訳 『ラッセル教育論』pp.50‐52より抜粋引用

岩波書店刊 バートランド・ラッセル安藤 貞雄
ラッセル教育論』pp.50‐52より抜粋引用
ISBN-10: 4003364929
ISBN-13: 978-4003364925

『近代の日本は、あらゆる大国に顕著に見受けられる一つの傾向を最も明瞭に示しているーつまり、国家を偉大にすることを教育の至上目的とする傾向である。日本の教育の目的は、感情の訓練を通じて国家を熱愛し、身につけた知識を通じて国家に役立つ市民を作り出すことにある。この二重の目的を追求する際に示された見事な腕前は、いくら称賛しても足りないくらいである。

ペリー提督の小艦隊が到来して以来、日本人は、自己保存が非常に困難な状況に置かれてきた。自己保存そのものがけしからぬと考えるのでないかぎり、彼らがそれに成功した以上、その教育方法も正しかったということになる。

しかし、彼らの教育方法は、絶望的な状況にあったからこそ正しかったのであって、どんな国民であれ、差し迫った危機にさらされていない場合はけしからぬものであっただろう。
神道は、大学の教授さえも疑問をさしはさむことを許されないもので、そこには『創世記』と同じくらい疑わしい歴史が含まれている。日本の神学上の圧政に比べれば、デイトン裁判も顔色を失って、些末なものになってしまう。これに劣らぬ道徳上の圧政もある。

たとえば、国家主義、親孝行、天皇崇拝などは疑いをさしはさんではならないものであり、したがって、さまざまな進歩がおよそ不可能になる。この種のがんじがらめの制度は、唯一の進歩の方法として革命を誘発しかねないという大きな危険をはらんでいる。この危険は、いますぐというわけではないが、現実のものであり、主として教育制度に起因しているのである。

 このように、近代の日本には、古代の中国の欠点とは正反対の欠点が見いだされるのである。中国の知識階級があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。

懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。

教育が生み出すべきものは、たとい困難ではあっても、知識はある程度獲得できるのであり、どの時代においても、知識として通用しているものは多少とも誤っている見込みがある。その誤りは注意と勤勉さによって正すことができる。という信念である。

信念に基づいて行動するにあたっては、ささいな誤りが災害を招くおそれのある場合には、きわめて慎重でなければならない。にもかかわらず、私たちは、まさに信念に基づいて行動しなければならないのである。

こういう心的態度は、かなりむずかしいものである。なぜなら感情を委縮さえることなく、高度の知的教養を持つことを要請されるからだ。しかしむずかしいとしても、不可能ではない。それは、まさに、科学的な気質というものである。知識は、他のよきものと同様、身につけるのは困難ではあっても、不可能ではない。独断論者はそのむずかしさを忘れ、懐疑論者はその可能性を否定する。両者は、ともに誤っている。そして、その誤りが世にはびこれば、社会的な災害が引き起こされる。』

20180502 人文社会科学系学問は社会動向の判断・補正装置のようなものであるのか?

本日の首都圏は朝から曇り、そして夕刻前あたりから雨が降り始め、夜半の現在においては一先ず止んでいます。しかし、この天気の崩れは明後日まで続くとのことです。自身としては、本日内にもう少し動けるだけ動いておいた方が良かったとも思われましたが、よくよく考えてみますと、現在行っていることも特に急ぐ必要はなく、一つずつ片付けていくのが良いと思います。

さて、ハナシは変わり、昨日投稿分の記事もまた、ここ一連の『思想・観念』を題材とした記事につながるものであり、また、比較的多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

ともあれ、そこで述べた概要は、多くの学問的な知識・知見と同様、『思想・観念』においても『完コピ・複製』では『持続可能性』が乏しく、それを(出来るだけ能動的に)理解・咀嚼し、さらに自身のコトバにて表出可能な自己嚢中のものとすることにより、更なる新たな創造・進化発展につながり、また、その経緯が自然なカタチにて為されるためには、予め、そうした『思想・観念』を、ある程度日常的なものとする経験が重要であり、そして、そうした経験を知覚・認識するために、さまざまなモノガタリ・小説が、その核・マトリックスとなるのではないかということです。

とはいえ、それは有形無形を問わずオカミからの既成価値基準の押し付けであってはならないということが、特に(昨今の?)我が国においては難しいことであり、またそれが『思想・観念』などを扱う人文社会科学系学問全般において重要且つ難しい問題ではないかと思われるのです・・。

また、それ故にこうした問題に関しても、ある程度日常的なものとする経験、およびそれを知覚・認識するための文化コンテンツは、本来はこうした目的に沿うためのものではありませんが、重要であり、その意味において昨今流行している、さまざまな文化コンテンツ(マンガ・アニメ・ゲーム)などは、おそらく適度(どの程度か分かりませんが)に楽しむ分においては何かしら良いものもあるのかもしれませんが、ある程度の期間にて考えてみますと、それらはあまりもに世界観が規定されており、閉じた系であることから、新たな創造には寄与することが乏しいように思われるのですが、さて如何でしょうか?

とはいえ、こうしたことも社会における何かしらの空気といったものがあるにせよ、言論の自由が存在するからこそ、述べることが出来るわけであり、こうしたことを考えてみますと、時間はかかるのでしょうが、我が国における高等教育にて何らかの変革が為された方が良いのではないかと思われてきます・・。

そういえば、昨日のウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の著者による序文と似たようなことをショーペンハウエル著『読書について』で述べていたことが思い出されましたが、たしかに方法論的に『思想・観念』を『完コピ・複製』した勢いのある世代が跋扈するようになりますと、我が国では、そうした勢力を自然に抑制出来るような仕組み・装置が乏しいのではないかと思われるのです。しかしながら、本来、人文社会科学系学問の重要さは、そうしたところにあるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年より
現在までに列島各地において発生した、あるいは現在も継続して発生しているさまざまな大規模自然災害によって被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念します。


~書籍のご案内~
昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック
ISBN978-4-263-46420-5