2015年10月19日月曜日

司馬遼太郎著「歴史の中の日本」中央公論社刊pp.232-236より抜粋

徳川将軍家の大奥では、元旦に「おさざれ石」という儀式があった。

御台所は、午前四時に起床する。化粧を終えたあと、廊下に出る。廊下にはすでに毛氈が敷かれており、なかほどにタライが据えられている。そのなかに石が三つ並べられている。やがて御台所がタライの前に着座すると、むこう側にすわった中﨟が一礼し、

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

と、となえる。御台所はそれをうけて、

「いはほとなりて苔のむすまで」

と、下の句をとなえる。そのあと中﨟が御台所の手に水をそそぐ。そういう儀式のあったあと将軍家に年賀を申し述べる。

この元旦儀式は将軍家だけでなく、国持大名の奥にもあったという。そのもとは徳川家の創始ではなく、遠く室町幕府の典礼からひきついでいるのではないかと想像される。

明治二年(1869)、英国から貴賓がきた。それをもてなす場所は御浜御殿(浜離宮)ということに決まり、数人の英語のできる者が接待役になった。

ところで、貴賓が来た場合、奏楽が必要であった。こういう場合の奏楽のことは軍楽隊の雇い教師JW・フェントン(英国人)が面倒を見ていたが、彼は接待役の詰所へゆき、日本の国歌はなんだと聞いた。

薩摩藩士原田宗助も接待役の一人であった。彼はあわてて上司にきくべく軍務官役所へかけつけ、おりから会議中であった藩の川村純義をよびだし、そのわけを話すと、川村は急に怒り出し、「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことがあるか、万事まかすということでオハンたちを接待役にしたのではないか」と怒鳴りつけて会議の席へもどってしまった。川村はのちに海軍大将になった人物である。

接待役の原田宗助は青くなったであろう。ともかく、御浜御殿へ戻って同役に相談した。この同役は乙骨太郎乙である。乙骨は旧幕臣で、徳川家が静岡に移されてからもそれに従い、徳川家立の沼津兵学校で英語を教えていた。その英語の技能を買われて、接待役を命ぜられている。乙骨は旧幕臣だけに大奥のしきたりを多少知っており、ふと「おさざれ石」の儀式を思い出し、こういうのはどうか、と言い、歌詞を口ずさんでみた。薩摩の原田は大いにおどろき「その歌詞ならわしくにの琵琶歌の中にもある」と手をうって賛成し、なにぶん火急のときであるだけにフェントンをよび、原田みずからがそれを琵琶歌のふしでうたってみせた。フェントンはこの奇態なふしまわしにおどろいたらしいが、とにかく多少の手なおしをして楽譜にとり、当日の間にあわせた。

君が代うんぬんというのは類似の歌が「古今集」にもある。また今様にもあれば、筑紫流の筝曲や薩摩琵琶歌にもあるところをみれば、この歌は「めでためでたの若松さま」と同様、古くはその家々のことほぎのためにうたわれていて流布していたものであろう。

国歌「君が代」が誕生するについてのはなしは諸説あり、たとえばフェントンからいわれた軍楽伝習生頴川吉次郎が当時の砲兵隊長大山巌に告げ、大山は同藩の野津鎮雄大迫貞清にはかって薩摩琵琶歌のなかからこの歌詞をえらびフェントンに示したともいい、これが痛切になっている。おそらく火急のおりだからいくつもの系路で人が動いたのであろう。しかしモトのモトは、右の話がどうやら本当らしい。

この原田宗助というひとは、このあと明治四年、東郷平八郎らとともに英国に留学し、造兵技術を学び、最後は海軍造兵総監などになっている。この原田が後輩の沢鑑之丞(のち海軍技術中将)に話し、沢がこれを書き留めている。

「しかしおれのうたったふしとは、だいぶちがっている」

と原田はいったという。たしかに原田がうたってフェントンが譜にとった「初期君が代」はどうも間のびがして威厳がなかった。そういう理由で、政府ではのち海軍雇いのドイツ人エッケルトに相談したり、雅楽の音律を入れたりして改訂した。それが、明治十三年である。

もっともその時分の日本人の多くはこの国歌をきいたこともなかったし、国歌があるということすら知る者もすくなかった。なざならば国歌が実務上必要であったのは遠洋航海として他国を訪問する機会の多い海軍であり、げんに海軍がおもにつかっていた。祝祭日につかうようになったのは明治二十六年からである。

とにかく筆者にとって原田宗助のはなしがおかしかったのは、戊辰戦争からの砲煙がやっとしずまって新都へ諸藩兵があつまったころ、つまり川村純義にとって多忙なとき、そういう相談をもちかけられて「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と下僚を一喝し、その一喝からこの歌が起源を発しているということである。いまひとつおかしいのはこの歌がもとはといえば徳川家の大奥の儀式の歌であり、旧幕臣である乙骨太郎乙がそれから発想して提案したのに「君が代」起源説の通説では大山巌などが大きく正面に登場して、徳川大奥の元旦儀式や乙骨という要素がまったく消されてしまっているということである。このことは、歴史というものの奇妙さについて、きわめて暗示的な課題を含んでいるように思われる。

歴史の中の日本

  • ISBN-10: 4122021030
  • ISBN-13: 978-4122021037

  • 司馬遼太郎




    司馬遼太郎著「歴史の中の日本」中央公論社刊pp.253-256より抜粋

    ある夏、妙なとりあわせだったが、林房雄氏が前にすわっていて、その横に安岡章太郎氏がすわっている。林氏は周知のように愴気のありすぎる論客で、酒の勢いで安岡氏を相手に喧嘩腰になった。もっとも喧嘩というものではなく、ああいう酒の飲み方なのかもしれないが、相手の安岡章太郎という人はこまったことに議論になると立技も寝技もできる人で、よせばいいのに相手になっている。どうせ酒間の議論だからすぐ話題がとぶ。
    「武士武士というが、武家屋敷なんぞは小さいものだ」
    ということを林氏がいいだした。林氏の母方の方は豊前だったか豊後だったかの小藩の藩士で、石高で勘定する家である。石高で勘定するのはたとえ小禄でも高等官なのだが、その家が林さんの子供のころの目にはびっくりするほど小さな家だったという。一概にはいえないが、そういう場合が多い。藩によってはちがうが、たとえば石州津和野四万三千石の藩の、御典医という威張った家だった森鴎外の家などは八十石で、その家屋はちょうど戦後のすぐの都営・市営住宅のように小さい。その川むこうにあるおなじ御典医で九十石の西周の家も同様である。林氏の子供のころの記憶は正しいであろう。
    ところが、安岡氏はこれに異論をたてた。自分の父の生家は大きい、というのである。どうもまわりが一町四方ほどあって、建物も堂々としているという。林氏が、そんなばかなことがあるか、と怒りだした。酔っているから、仕方ない。
    じつをいうと、安岡氏のいうほうも、それはそれで正しいのである。安岡氏の家は土佐安芸郡郷士で、身分は林氏の母方よりもひくく、藩の高等官ではない。軍隊でいえば下士官の身分である。ところが土佐郷士というのは身分こそひくいがその多くは広大な田地をもち、小作農をかかえており、その本態はかつては戦国期には地侍で、所の大名が陣触れするとかれらは小作農の一人二人を足軽・小者としてひきつれ、出陣してゆく。こういう地侍が、他の分国では江戸期には大庄屋・庄屋になった。土佐の場合はある政治的理由から多くが郷士という階級をあたえられた。土佐では郷士が庄屋を兼ねることがあり、要するに農村の旦那衆というのが本態なのである。屋敷が大きいのは、それが武家であるからではなく、旦那衆であるからなのである。モミ干し庭もひろくとらなければならないし、庄屋として藩への年貢米の取次ぎをするから、米俵をおさめる蔵は大きくなければならない。場合によっては村落での裁判もやるから白洲もつくっておく。自然、屋敷が宏壮であることが必要になってくるのである。宏壮であっても、しかし郷士は藩吏として職をえても高等官にはなれず、せいぜい警察でいえば平巡査程度にしかなれない。石高で勘定される家は、たとえ小さな家にすんでいても、器量次第では仕置家老(一代家老)にまでのぼれるというのが、日本の封建制度のおもしろさの一つなのである。
    日本の封建制のおもしろさとしてこの話と関連するが、元来、百姓屋敷というものは、いかに働きがよくて収入のいい百姓でもその座敷に勝手に欄間をつくることはゆるされなかった。藩や幕府(天領の百姓の場合)に献金をして、その公許を得ねばならないのである。
    さらにそれ以上に大層なものは、門をつくることであった。庄屋門とよばれている、あの堂々たる門(鴎外の生家の門などは形ばかりのものである)は、戦国期の地侍階級がそのまま庄屋階級になった場合はべつとして、ふつう、代々献金をかさねかさねして莫大もない献金のすえに「苗字帯刀ゆるし」を得てはじめて建てることができるもので、私など、地方に取材に行って山間の朽ちた百姓屋敷の門などをみるとき、それを思うと、ときに息をわすれるような感慨をおぼえる。
    もっとも、いま村々をあるいていても、門構えの農家が多い。げんに私は大阪の東郊にすんでいるが、このあたりは大正期にすでに都会化されたが、旧村を抱き込んで街がある。私どもの土地では、この旧村のひとびとは自分の居住区をムラナカとよんでいる。私は毎日その村中をつききって隣りの駅前まで散歩にゆくのだが、ムラナカの家はどの家もふるびて堂々たる庄屋門をもっている。これは、右のはなしとはちがうのである。このムラナカは元禄期までは一面の沼であった。元禄期に大和川が改修されて土地が干あがり、耕作可能地ができた。そこで各村の次男、三男坊がきて一村できたというから、古い村ではない。大正期にこのあたりが都市化するにつれ、農家は地主になり、金が入ったりしたが、金が入るとすぐ家を建てかえるのはむかしもいまもかわらない。どの家も、まっさきに庄屋門を建てたのは、それが前時代には金力の象徴のようなものだったからだろう。前時代には、庄屋門の背景に気の遠くなるような献金とそれを可能にする富力があったのだが、明治後は、門の改築費さえあれば建てることができる。
    明治維新は、自作農以上の百姓にとって一つの意義は、門を勝手につくってもよいということで、家道楽が風習になっている淡路島などではさかんに門が建てられたという。明治の開化の象徴はザンギリ頭や洋服だけでなく、前時代の庄屋門の禁制解除ということにもあったにちがいない。
    歴史の中の日本
    ・ISBN-10: 4122021030
    ・ISBN-13: 978-4122021037
    司馬遼太郎



    徳力彦之助著「銅鐸は生きている」白川書院刊pp.43-50より抜粋20151015

    銅鐸について 4 および「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋とあわせて読んでみてください。
    また
    小林秀雄講演 第8巻
    小林秀雄講演 第8巻
    ↑上に示すCDの「勾玉のかたち」の講演内容が今回の書籍抜粋内容と関係していると思います。

    鐘巻銅鐸
    冒頭に道成寺境内にて江戸時代に銅鐸が出土していることをお知らせします。

    以下書籍抜粋です。
    釣鐘とは、あらためて云うまでもなく、お寺に付属した仏具の一種である。
    お寺とは、立派な国宝になるような仏像が祀られて居る所である。
    そして又、そこには、行いすました高徳の聖が、その寺を守って居て、たまたま来合せた観光客に対しても、その人が、信不信にかかわらず、何か神秘な感情をもって、心にすがすがしい気持を懐かせてくれる清浄な場所がある・・筈だと、一般人は思い込んで居るのである。
    その聖地?にある仏具の一種!釣鐘、それが妙な象徴の芸術だと云って見た所で、一般の読者は、いや、それは心理学者がよく使うテスト用のインキのしみ(ロールシャッハ)みたいなもので、見方次第では、どのようにでも見えるものなのだ。
    この筆者は、よほどHな野郎だぐらいに思われるかも知れない。
    だが、お寺と云うものは、私に云わせれば、本来、汚水処理場の如きものである。
    汚物も流れ込むし、悪臭も発生する。
    それを、どうにか浄化して世間に還元する。
    お寺は人間精神の浄化作用をいとなむ所であって、お寺自体が、汚れのない所ではないのである。
    なるほど、表面はきれいである。が、きれいな事ではすまない汚物が、沢山溜まって居る所なのである。
    なる程、お祀りしてある仏様も立派だ、高徳の聖も居る。
    しかし、それだけで存続し得るお寺はない。
    次代を背負う筈の若い僧侶も沢山集まって来なければならない。
    これらの血気盛んな僧侶の卵たちは、この時点では、聖者でもなければ、高僧でもない。只の若者である。
    寺は、昔は、女犯は固く禁じられて居た。
    こうした大勢の若者が、一定の場所に閉じ込められて禁欲生活して居ると云うことはどういう事になるか。
    大きなお寺の附近の民家では、若い娘は、あぶなくて家に置く事も案ぜられているほどなのである。
    高僧たちが、自らの経験を生かせての温い思いやりから、境内の目立たぬ所に鐘楼を築いた事は、実にうまい考えであった。
    そして、この思い付きを受けて、これに答える作品を造り上げた制作者は、実に立派な芸術家であったと私は思う。
    一皮むいた中味は大へんなしろ物にもせよ、それをここまで立派な芸術に、昇華せしめた腕前は大したものなのである。
    このような見事な象徴芸術は、世界でも類が少ない。
    そしてこれが、何らの祖型もなく、試作らしいものも残って居ないで、いきなり一発で仕上げられたとなれば、それこそこの作者は天才中の天才である。
    レオナルド・ダビンチや、ミケランゼロ光悦などが、百人も束になってかかっても、かなわない程の大天才ではなかったかと、私は思うのである。
    [七]すり替えの芸術
    これまで、私はしばしば、象徴とか、抽象と云う、かっこいい言葉を使って来た。
    しかし、これらの言葉のもつ内容は大変あいまいでもあるので、ここではもっと明瞭にとらえて貰うために「見立てる」と云う言葉と、「すり替える」と云う言葉を使って説明する事にする。
    銅鐘が陽物の象徴であると云う事は、さらに明確に云うと、そのように「見立てる」事が出来ると云う事と、陽物を銅鐘の型に「すり替えた」と云う二つの見方が成立する。
    たとえば剣がある。矢が、又はステッキがある。これらは昔から陽物に「見立てられ」て居る。云わば、陽物の代名詞として使われて居る事は、御承知の通りである。
    知り合いの誰かに子供が生まれた。
    男の子か女の子かを問うかわりに陸軍さんですか?海軍さんですか?或いは大砲ですか、軍艦ですか、と問う。
    陸軍または大砲が男の子で、海軍または軍艦が女の子である事は云うまでもないが、これらは、もともと男の子や女の子を象徴するために造られたものではなく、ただ世人が勝手にそのように「見立て」て居るだけである。
    こう云う見立て方は、世界中共通であって、印度では象が、ヨーロッパではお寺のドームが陽物に見立てられて居る。
    釣鐘が、そのように「見立て」られても一向に不思議ではない。
    ところが「すり替え」の方は、それと反対である。
    例えば何か、その正体をはっきりする事が出来ない事情がある。
    そうした場合に、その正体を明確にしないで、他のものに似せて見せるのである。
    一例を挙げると、マリヤ観音と云う仏像?がある。
    徳川期に切支丹が禁じられたので、マリヤの像を安置することが出来なくなった信者は、観音の形に似たマリヤ像を造ってこれを祀った。
    外観は観音像であるが、内容は全く違ったものに「すり替え」られて居るのである。これは観音像をマリヤに見立てたのではなく、初めからマリヤを造るべくして造ったのである。中国には換骨奪胎と云う言葉があるが、全くその通りである。
    釣鐘の場合でも、男女の性技と云ったものを、そのものズバリと表現する事は、太古は自由であったにしても、次第にモラルが発達するにつれて、その自由がはぐくまれてくる筈である。そして、そのものを別の、さりげないものにすり替える知恵が発展してくるのである。釣鐘の創作は、丁度、その時期に遭遇して居たのである。
    この場合、すり替えの内容を知って居るのは、一部直接関係のあった人だけで、この事を知らされて居ない人には、たとえそれが製作に関係あった人と雖も、そのすり替えに気付かずに居た人も多いと思う。このような作品は概して模倣する事は簡単であるが、それは単に外観だけの、表面に現れた形式だけの模倣にとどまるので、その内容を知らされて居ないため、必ず、どこかに形くずれが出て来るのである。その反対に、内容を知って居れば、その面では、益々精緻となり、完成への道が、積み重ねられるのである。若しも、この釣鐘が中国や朝鮮の模倣であって、その内容を知らずに日本で真似て造って居たものとすれば、これらの鐘は、その時点から型崩れが起きて居る筈であるが、事実は、白鳳の頃から始まった鐘造りは、平安から鎌倉期へかけて次第に精緻になっては行くが、型崩れはないのである。この事実は、その鐘の内容が何であるにせよ、それが工人から工人へ正しく内容が受け継がれて居たことを物語って居るのであって、この場合、たとえ祖型が中国・朝鮮であったと証明されたとしても、その祖型の上に、日本人の独創的な「すり替え」行われて居たと考えても大きな間違いはない筈と考えられる。所が、南北朝以降になると、どう云う理由だか、初めて型崩れが起きて居る。これは恐らくこの頃に、その創造の意図に関する伝承が断ち切られて、模倣だけが引き継がれた結果だと私は思う。このことは、現存する梵鐘の写真を見ても、どこまでが創造の積み重ねで、どこからが単なる模倣であるが、一見して見別けがつくが、その事は、しばらくおあずけにして置こう。ただ、この見事な創作品を前にして、せっかく長老たちが造ってくれた思いやりの作品を、あまりの見事なすり替えのために、俗物の塊りである若僧たちが、この贈り物の真の意味を理解出来たかどうかと云うのが、私らの心配の種なのであるが、そこは老婆親切で、ちゃんと解説まで用意してあると云う、至れり尽くせり振りであった。それは、道成寺縁起と云う、平安時代の中頃に出された「大日本法華検記」に出て居るのである。道成寺物語りの粗筋は、大抵の人は御存じの筈であるから省略するが、結末は、安珍が逃れて鐘の中へかくれると、追いかけてきた清姫が、毒蛇(竜)になって、その鐘を取り巻き、鐘は焼けて炎を挙げる。そのクライマックスの場面は、鐘胴と竜頭の関係を劇化して見せて居るのである。俗世間の我々仲間では、こんな話を聴いても、一向にエロでもなんでもないが、これが、抑圧された禁欲の世界の人達の間にあっては、まことに刺激的であったかも知れない。鐘楼はどこの寺でも、目立たない場所に造られて居る。寺では、初夜(午後八時)後夜(午前二時)に鐘を撞く。撞くのは若僧の役目である。暗夜の鐘楼での空想は、身、あたかも道成寺にあって、毒蛇に追いつめられるの思いを打ち消すのに、如何ほど苦労したことかと想像されるのである。所が、とんでもない道化師が飛び出した。頃はちょうど南北朝時代である。その名を観阿弥と云う。観世流謡曲の祖である。彼は、この道成寺物語のストリーを失敬して謡曲「道成寺」を作詞作曲したのである。観阿弥はもとより、釣鐘の裏側にこれほどの苦心があるとは知らない。ただ道成寺物語の筋書を頂戴しただけであるから、そのクライマックスの場面で、清姫が鐘の中へ入って、蛇体に変じて出て来ると云う、舞台技術上での変化に持って行ったのである。坊主が鐘の中へ入ると云うのは、安珍が鐘胴にすり替わり、大きく、固くなったところに話のおかしさがあり。その上へ、竜が襲いかぶさるから、人々はなる程と思うのであるが、女が鐘胴とすり替わったのでは、何の意味なのか一向に説明がつかないのである。模倣とは、この様に、その時点でたちまち型崩れが起きるのである。ちょうど、この観阿弥の出た頃、梵鐘にも乳の町のないものや、袈裟襷の乱れたものが出て、一般的には竜頭の型が崩れて、間延びして居るので、この頃が釣鐘の創造精神の断層であると、私は見て居るのである。親鸞聖人が妻帯を断行した後の時代でもあるから、も早、釣鐘の持つ特別な目的は不必要となったので、単なる鳴器としての梵鐘だけが残ったのであろう。話は別だが、今日、道成寺と名付けた歌舞伎や、おどりが十数種もある。いずれも女が鐘に入りこむタイプである。一犬虚をほえ、万犬実を云うのか?ここまで間違って来ると、如何に立派に演出されても、何だか白々しくて見る気が起こらないものである。
    銅鐸は生きている
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    20151008 ブログ記事の作成 精神衛生 人参、古来の風習について・・

    A「最近こちらは朝晩が結構寒くなってきましたが、そちらはどうですか?」


    B「ええ、基本的にそちらより、ここ関東の方が寒いと思いますが、この時期では、まだあまり大きな違いはないのではないでしょうか?」


    A「まあ、そうですね。
    そういえば秋といえば芸術の秋ですが、最近何か面白いものを見つけましたか?」


    B「いえ、最近は映画もテレビも御無沙汰です。
    一方、このブログ作成や、手近にある本の読み直しが最近習慣づいてきましたね・・。
    ブログの作成に関しましては、面倒くさいと思いつつも、周囲のよく分からないけれども面白い反応に支えられて続けているのが現状です。
    また、書籍の抜粋であれ、自身の文章であれ、こういうのを作っている最中はまた、何とも云えない別の感覚があるようです。
    しかし、そうではあるのですが、同時にブログの材料探しのために読書するのもどうも違う様な気がしますので、それは少し注意した方が良いかなと思いましたね・・。」


    A「ええ、何でも恣意的なニオイがするものは、それだけでどうも胡散臭く見えてしまいますからね。
    単純に楽しめなくなります。
    我々日本人は、よくわかりませんが、その「自然」っていう感覚をとても大事に大切にします(笑)。
    ですから、Bさんがブログの作成を面倒くさいと思うのは、それを楽しみにしておきたい、そして「出来るだけ自然なものをつくりたい。」という願望がそうさせているのかもしれませんね・・。
    さて、それで思い出しましたけれど、たしかルナールの「にんじん」に「主人公(にんじん)は自分の好きな玩具で遊ぶ時はできるだけ楽しくないように遊ぶ、そうしないと誰かにそれを奪われるから。」といった意味のことが書かれていましたけれど、ニュアンス的にはそれに近いものもあるのではないでしょうか?
    しかし案外創造力、創造性というものは、そういった多少不便、不足のある環境の方が生成し易いのかもしれませんね・・。
    最近の最新技術を駆使した映画などを観ますと、どうもそうではないかと考えさせられます・・。


    B「ええ、云われてみますと確かにそういった一面はあると思います。
    しかし私の場合、ブログ作成はあくまでも精神衛生のためであり、あるいは先ほどの創造力、創造性をどうにか維持、持続させるための手段であると認識しています・・。
    とはいえ、よく考えてみると、私のブログには創造的な要素はあるのでしょうか・・?
    その大半は多少ひねっているのもありますが書籍からの抜粋であり、自身の文章であっても、書籍からの抜粋に触発された考えを過去の会話に絡める程度のものですので、まあ創造性は意外に乏しいのではないかと思ったりもします・・。」


    A「創造性の詳細な定義は今現在、ここでは私もよくわかりません。
    しかし、それでも先ほどのことにも通じますが一つ云えることがあります。
    それは「目の前ににんじんを吊るされた馬の様にあまり力まない方が良いのではないか?」ということです。
    これも、さきほどの様に自然体にて選んだ書籍からの抜粋、作成文章の方が彼我双方から見て単純に楽しいと思いますからね・・。」


    B「ははあ、確かに私はすぐに力む、肩に力が入るクセがありますから・・最近はこれが冬季に生じる気分の落ち込みの原因になっているのではないかと思います。
    ともあれ、どうもありがとうございます。
    れは、確かにおっしゃる通りかもしれません・・。
    それにしても偶然かもしれませんが、今までの会話でAさんが「にんじん」という言葉を二回出されたのは何か面白いですね・・。
    その「にんじん」で私も思い出しましたけれども、これは確か小林秀雄がどこかで云っていたと思うのですが、その昔にんじんは大変高価な薬の原材料であり、今でも朝鮮人参、高麗人参などが有名なのですが、これを畑で一度栽培すると、生育の過程でにんじんが畑の土壌の栄養素を全て吸収するのか、あるいは、同じ過程で毒素を土壌内に放出するのかわかりませんが、とにかくしばらくその畑は使い物にならなくなるらしいのです。
    現在では多分こういったことは科学的に明瞭に解明されているとは思いますが・・。
    そしてさらにこの話で私が思い出すのはロバート・グレーヴスの「さらば古きものよ」の上巻に書いてあったデンマークのある地方における一族の風習です。
    それは奇数世代と偶数世代がそれぞれ交互に板金職と牧師職に就くというものであり、これを著者は「あながち悪い風習ではない。」と評価していました。
    こうした風習の背後にある考えとは、少なくとも現代日本ではなかなか見られない、そして同時に長い期間、何世代にもわたる人間に対しての深い洞察があるのではないかと考えさせられます。
    しかし一方、多分、明治以前の日本社会においても同様の風習はあったのではないかとも私は考えています・・。
    それらは明治維新以後の社会の大きな変化により徐々に形骸化、衰退していったのだと考えます。
    その他の伝統、風習と同様に・・。
    また、そういったことは現在でも進行しているのかもしれません。
    その意味で明治初年に生じた新政府に対する一連の叛乱とは、そういった在来の伝統、風習の衰退を拒否するものであったとも云えるかもしれません。
    また、古来よりの風習を全て因循姑息なものとして捨て去った代わりに得た新しい、代替のものは、それほど良いものであったのでしょうかね・・・?」


    A「うーん何だか夏目漱石の「現代日本の開化」や「三四郎」の冒頭部の広田先生との会話を想起させる様な発言ですが、確かにそういった側面はあると思います。
    そしてその後の太平洋戦争後の日本社会も同様に在来の文化、風習を衰退、破壊するものであったのだと思います・・。
    そしてそれと同時に現代社会のこの混乱とは、大きく見れば明治維新以降の、また小さく見れば太平洋戦争後の絶頂期であったバブル期以降の社会の様々な面での歴史からの評価がなされている状態ではないかと思います・・。
    そしてこの先の時代の価値観とは、良くも悪くもこの評価の上に築かれるのだと思います。」

    B「それはよくわかりますね・・。
    あまり楽天的な話にできないのが残念ではありますが・・・。
    しかし、この話自体は大変興味深く思いましたので、少し筋を変えてブログのネタにさせていただきます・・()。」

    A「ああ、そうですか、どうぞ。」

    20151002 迦微、神、カミについて・・

    A「最近何か新しいことはありましたか?」

    B「ええ、今のところ、特に新しい動きはありませんね、一方で、つい先日ブログの一日の閲覧者数が200を越えたのは少し嬉しかったですね()。」

    A「はあ、200越えはちょっとすごいですね・・。
    読んでくれている方が増えているのでしょうかね?
    あと応募されている職種の勤務地はやはり首都圏が多いのですか?」

    B
    「ええ、首都圏での応募職種もいくつかありますが、大体はそれ以外ですね。私は概ね首都圏にて育ちましたが、その後様々な地域にてある程度の期間住んでおりましたので、今となっては別に首都圏でなくとも一向に構わないのです・・。
    ただ、それと同時に思いますのは、自分が適応し易い地域と、そうでない地域があるのではないかということですね。」

    A「ああ、そういうのは確かにあると思います。
    一般的に若い頃は適応力や柔軟性があって、様々な地域にある程度容易に溶け込めると思うのですが、多分30歳くらいあたりから、徐々にそういった能力が喪失、衰えてゆき硬化していくのではないでしょうか?
    物質にたとえるとおかしいかもしれませんが、骨や歯みたいな感じではないでしょうかね?
    ですから私も正直なところ今となっては、あまり他の地域には移り住みたくはないです・・。」

    B
    「ああ、そういう感覚はよくわかります。
    ですから、現在応募中の職種も大体これまで住んだ場所に近いところのものが多いです。
    しかし事情も事情ですのであまりゼイタクもいってられないのですが・・(苦笑)
    ただ、何でしょうかね、古くから他の地方、地域に行く時に「水に気をつけろ」などと云われますが、ああいうのは個人によってその反応が異なるために普遍的な一定の見解は見出しにくいのでしょうが、多分、地方、地域の水、大気、土壌などの中に人の心身に影響を与える何かが存在することを示しているのではないかと思います。」

    A
    「ええ、確かにそういうのは一つの地域にずっと住んでいたのではわからないと思います。
    ですから、そういう「実感」とは、ある程度年齢を重ね、他の地域に住んでみないとわからない相対的な感覚であるのかもしれませんね。」B「それは仰る通りであると思いますが、同時にその「実感」というものが科学的な視点から見た場合、案外間違いであったり、単なる思い込みであったりするらしいのです()。しかしそれでも「実感」とは科学的な認識のために必要不可欠な第一歩目でもあるとも思いますが・・。」

    A「ええ、それは以前のBさんのブログ、たしか20150804で書かれていた文系、理系そして儒家、墨家との関係の前段階に近いものではないでしょうかね?あとは少し前に投稿されたベルクソンの「哲学的直観」からの抜粋文にも似た様なニュアンスがあるのではないかと思います。」

    B「確かに仰る通りです。
    そこまで考えておりませんでしたが・・。
    ともあれ、科学的な方法、つまり実験、観察等により得られたある程度普遍的な方法による見解とは、こと神、神々の存在について応用してみますと、ややこしくなるのではないかと思います。
    しかしながら、そこを曲げて敢えて、神々の存在と、これまでの話を重ね合わせてみますと、このようなことが云えると思います。
    先日抜粋引用した小泉八雲著の「日本の心」にて「古びた神社などには人の心に聖性、神性を惹起させる何かがある。」といった意味のことが書かれていました。
    たしかに私自身はその感覚をよく理解できます。
    そして同時にその感覚は、多くの方々が共感されるのではないかと思います。
    そして、そこから更に進んで、では、その聖性、神性を人々の心に惹起させる原因の実体とは何であるのかと考えてみますと、
    それは、さきほど出ました地方、地域の水、大気、土壌などの中に含まれる人の心身に影響を与える何かではないかと考えるのです。
    そして、それら水、大気、土壌に含まれる心身に影響を与える何かとは、当然ながら微細なものであるとは思いますが、それが生物、細菌の様な働きによるものであるのか、あるいはMEMSの様な機械的な働きによるものであるのかは分かりません。
    しかし何れにせよ、古くから日本における神々とは、少なくとも一面において、この様な微細ながらも大きな働きをする何かであると認識されていたのではないかと考えます。
    これは本居宣長の「古事記伝」においてもカミのことを迦微(かみ)と記されており、その漢字、文字から、その様な意味があるのではないかと考えさせられます。

    A
    「ははあ、それで思い出しますのは、以前私がどこかで聞いた日本におけるカミの語源とは、酒の醸造などの醸す(かもす)と同一であるという意見ですね・・。
    そしてこの醸す(かもす)の醸造も発酵という微細な菌の働きによるものですから、まあ先ほどのBさんの仰った内容とも似ているのではないかなと思います。」

    B「ええ、それに日本国内で時折聞かれる地名の加茂(かも)もこれと同じ起源ではないかと思います。
    この言葉、音は、多分水稲耕作が始まった弥生時代の社会において何かしら意味するものがあったのかもしれません。
    ですから、この加茂という地名を持つ場所では鐸が出土したり、日本酒の醸造が古くから行われていたりします
    こういうのは単なる偶然だけでは片付けられない何かがあるのではないかと思います・・。」


    A「なるほど・・。
    それにしても、そういった小さなものが大きな働きをするという古来からの考えは、その後、物語として「一寸法師」になったのかもしれませんね・・。
    そして、そのように考えますと、日本とは山林面積が多く使用可能な国土が狭小なために、何でも多収穫という明確な目的に基づく、小型化、集約化が為される傾向があるというのを会田雄次あとは李御寧の著作で読んだ記憶があります。」

    B「ええ、それらの著作は私も以前読んだと思います。ともあれ、日本人のこうした小型化、集約化の傾向、執念はほとんど無意識のレベルにまで達しており、よくよく考えてみますと教育においてもこの様な傾向があるのではないかと思います。
    しかし、教育とは、特に高等教育においては、根本的に工業製品を製造するのとはワケが違うのですから、今後何と云いますか背景思想における相変態が為される必要があるのではないかと思いますが、どうなのでしょうか?」

    A「うーん、それは大変難しい問題であると思いますが、同時に仰ることの意味もよく分かります・・。
    いずれにしても文系がカギであり、また、同時にBさんがコンラッドの「闇の奥」が好きな理由もそこらへんにあるのではないかと思います・・。」






    山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.13-16より抜粋

    一九七五年は国際婦人年ということで、婦人論とか女性論とかが盛んであった。
    そして一般の誤解としては、人類の進歩とともに、近来、婦人の社会的地位は高くなっているが、まだまだ男性に及ばず、従って完全な男女同権とはいえず、「婦人は未だ解放されていない」というのが、通念であろう。
    そうでなければ、国際婦人年といった「お祭り」が企画されることはあるまい。
    だが婦人の地位と人類の進歩は果たして関係があるのであろうか。
    また進歩とは一体、何を意味しているのであろうか。
    では、男女の社会的任務が逆転し、女性が男性的役割を演じて男性的となり、男性が女性的役割を演じて女性的になる、という社会が現出したら、それは進歩なのであろうか。
    「いや、そういうことは生物学的にあり得ない。従って、性差による「差別」の撤廃と両性の平等化が目的なのだ」という世論は当然に出ることと思う。そこで私は、M・ミードが指摘しているニューギニアのかつてのチャンブリ人の男女を紹介してみたいと思う。
    この社会は、ちょうどアメリカ型の逆であって、儀礼的には「レディ・ファースト」ならぬ「ジェントルマン・ファースト」だが、社会の実験はすべて女性が握っている。
    社会の経済的支柱は、女性による漁撈と採集と機織で支えられ、彼女らは「財布のひも」をしっかりと握っている。
    そのくせ形式的・儀礼的には男性に従属していることになっており、男性の中には数人の妻をもっている者もいる。
    一言でいえば、経済的には男性が女性に従属し、形式的・儀礼的には女性が男性に従属している社会なのである。
    その結果、男性は文字通り女性的で、われわれの社会でいう「女々しい」という言葉がぴたりとあてはまる。
    従ってこの社会では「女々しい」を意味する場合「雄々しい」」といわなければならず、「まことに男らしい男」とわれわれの社会でいわれる性格は「まことに女らしい女」といわなければ意味が通じない。
    すなわち男性は、情緒的で嫉妬深く、つまらぬ口論にもくよくよし、陰口、不平、見栄、依頼心といった要素を百%もち、経済的従属を当然のことと考えて、この点には何の疑問ももたない。
    一方女性は、六~七歳のころから、経済的自立のための基本的技術を厳格に教え込まれ、自立して、立派に生活して行けるように仕込まれる。
    従って女性は、支配的・確信的で、厳格な管理者であるが非常に協調性に富み、情緒的不安定は全くない。
    そして堂々と男性の品定めまでする。
    しかし夫を働かして経済的に依存しようなどとは、絶対に考えない。共働きなどというものも存在しない。そして男性にはきわめて寛容で、彼らの競技や舞踏などを、喜んで見物に行く。同時に女性は「女だけのクラブ」をもち、「女のつき合い」とでもいうべき公然の社交機関がある。そして「男と男の友情」のような「女と女の友情」があり、公然たる同性愛もあるが、男性はそのクラブには入れてもらえない。従って「女に媚を売ろう」とする男性は、女に変装し、監視の目をくぐってそのグループに入って「気をひく」。
    これはこの社会の一種の公然の秘密になっている。
    ミードは「(女は男に言い寄らないが)女に変装した男には女も言い寄るさまは、他のいかなる儀式的所作にもまして、チャンブリ人の錯雑とした性の様相を示していると思う。
    表面的には男は、家主・家族の長で、数人の妻を持つことさえあるが、実際の権力と指導権は、女の手にある」と記している。
    結局「男性的」「女性的」といわれる要素の大部分は、後天的に、社会的任務によって決定されるものであり、「女はつくられる」なら「男もつくられる」のであって、それは決して永久不変のものではない。
    一体、彼らの社会は、なぜこうなったのであろうか。歴史のはじまりからそうだったのか。それとも、このチャンブリ人だけ、例外的に生物学的な性が逆転しているのか。
    もちろん、そうではない。この社会も、イギリスの植民地となるまでは厳然たる男性中心の社会であった。男は支配者であり、戦士であり、部族を守り、家族の生命と財産を保護する重要な任務があった。しかしイギリスの統治とともに部族間の戦争が禁止されると、一転して彼らは単なる儀礼的任務しかもたない、社会の「装飾品」となってしまった。
    そのため実質的逆転が生じたのだが、この転換はおそらく二世代ぐらいの短期間に完了したはずである。男性が戦士以外に社会的任務をもたず、その任務が「イギリス占領政策ニューギニア憲法第九条」で一挙に急激になくなったので社会的な存在理由を失い、「装飾品」として存在するだけになってしまったので装飾品としてしか扱われなくなった、これが以上の状態の簡単な図式化である。これを見ると「日本ほど社会の変化がはげしい国はない」という言葉は、修正しなければならないとともに、将来、これくらいの変化がさらに起こっても不思議ではないようにも思われる。同時に、男女の性格差といった、生物学的宿命のように考えられているものが、意外にそうでないこともわかる。かつての、日本男子と大和撫子といったイメージが、もう一世代で完全に逆転したとしても、またその逆方向にさらに再逆転しても、別に驚くべきことではあるまい。しかしそうなった場合、それが果たして進歩といえるのであろうか、日本がチャンブリ型社会になった場合はもちろん、その逆になった場合も、果たして進歩という概念にあてはまることなのであろうか。
    存亡の条件 (講談社学術文庫 394)
    存亡の条件 (講談社学術文庫 394)
    ISBN-10: 4061583948
    ISBN-13: 978-4061583948
    山本七平






















    山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.35-40より抜粋

    山本七平著「存亡の条件」講談社刊pp.13-16より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    前章の最初に記したように、チャンブリ人の社会は、イギリスの影響を受けて一変した。
    だが、いうまでもなくイギリスは、チャンブリ人の社会における男女の役割を一変させようとして、その政治的影響力を行使したのではない。
    従ってその変化は、イギリスも予期しない一種の波及的効果だったといえる。
    こういった波及的効果は、異なった二文化の接触の際必ず起こるものだが、それらの多くは、社会の機構がチャンブリ人のごとく単純明確でないため、だれにでも明確にわかる表面的現象にならず、逆に、内攻してしまう。

    前述のように、戦後の平和憲法の一部は、チャンブリ人への、イギリスによる部族間の戦争禁止と似た面がある。
    もちろんアメリカの意図は日本の精神面・物質面における完全な武装解除であり、それ以外に彼らは何も意図していなかったと思われるが、それが、彼らには考えも及ばなかった波及的効果を全日本に与えたところで不思議ではない。
    もちろん同じ現象は、もっと複雑な形で明治にもあった。
    そしてその波及的効果はさまざまに作用し合って、チャンブリ人の社会に見られるとはまた形の違った一種の倒錯を生んだ。
    これは政治的・社会的倒錯と呼ばれるものかも知れない。
    その焦点は後述するように「現人神天皇制」があるわけだが、それらに進む前に、二つの文化の接触による二重基準から身動きができなくなって滅亡した一例の、今に残る詳細な記録の一部を紹介しよう。

    それは二〇〇〇年前のユダヤ民族の滅亡であり、それを記したのは、フラウティウス・ヨセフスという一ユダヤ人である。

    では「民族の滅亡」とは何なのであろうか。
    人間が消えることではあるまい。
    多くの、滅亡した民族の生物学的子孫は、他の民族の中に今も生きている。
    歴史としての聖書」の著者ケラーは、民族を、全人類という巨大なオーケストラの中の各メンバーと規定し、民族が滅びるとは「有史以来つづいている人類の文化という一大交響曲の中から、その民族という楽器の音が消えること」だという意味のことを言っている。
    そう言えるかもしれない。
    確かに人間は残るが、民族としては、沈黙して消えてしまうのだから―。

    では、民族は、どうして滅びるのであろう。
    「敗戦で民族が滅びることはない」という言葉は、今では自明のことであろう。
    これは太平洋戦争によって獲得した貴重な認識の一つである。
    ではなぜ民族は滅びるのか。
    さまざまなケースがあり、いろいろな診断が可能であろう。そこで私はここに、史上稀に見る詳細さをもつ、ある民族の志望診断書を提示し、われわれの自己診断に一助としたいと思う。

    「われわれの都はかつて繁栄の極に達したのち、最も深い災いの淵に転落した・・・。私の考えでは世界が始まって以来のいかなる悲運もユダヤ人のそれとは到底比較にならない・・・。しかもその責任をいかなる外国人にも求めるわけにはいかないからこそ、悲しみを押えられないのだ・・。」(ヨセフス「ユダヤ戦記」Ⅰ(3))

    自国・自民族の滅亡を、まるで「臨終に立ち会った臨床医」のような態度で書き記したファラウティウス・ヨセフスという不思議な人物は、紀元三七~三八年ごろ―イエスが十字架に架けられた七、八年後?―にエルサレムに生まれ、紀元一〇二~〇三年ごろローマで死んだ。
    その生涯自体が一つの「小説」といいたいほど数奇なものだが、その要約は後に回し、彼の残した実に稀有な著作について少し記そう。
    なぜ稀有といえるのか。
    通常滅ぼされたものは記録を残さない。
    歴史はほとんどすべて勝者の手で記される。
    確かに勝者が敗者を言及し、また敗者が勝者の不当をなじる悲痛な叫びをあげることはあっても、前述のように臨終に立ち会った臨床医の目」で、自民族いわば自らの死の「死亡診断書」を記したものはいない。
    確かに傍観者の記録ではあるであろう。
    しかし、傍観者は、その病人を救おうと悪戦苦闘した臨床医ではない。

    前述のように、彼は、自民族の滅亡を「その責任をいかなる外国人に求めることもできない滅亡、すなわち一種の民族の自殺乃至は自らの招来した当然の帰結と見ても、不当にローマ軍に蹂躙された一小国の悲劇とは見なかった。
    戦争による敗滅は一種の清算もしくは火葬にすぎず、それ以前に、民族はすでに破産し、死屍化していたと彼は見たわけである。

    では一体何が一民族を破滅させ、以後二〇〇〇年の流浪と迫害を招来させたのであろうか。
    そこには何か「滅亡の原則」のようなものがあって、その原則通りにすれば、いかなる民族も同じような道を歩むのであろうか。
    私が彼の著作と同時代の関連史料から探ってみたいのはこの臨床医が見たその「滅亡の原則」であり、同時に、彼の「診断書」を正しいとすれば、われわれもその「原則」通りに同じ道程を歩んでいるのではないか、という問題である。

    ヨセフスには、「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」「自伝」「アビオン反乱」の著作がある。このうち、最も貴重なものは「戦記」だが、これはいわば略称で彼自身は「ユダヤ人の戦について」と呼んだのだが、同時代はこれを「ペリ・ハローセオース」と呼んでいる。
    「ハローセオース」という語は、ヨセフスの用語では、敗戦・破滅・滅亡の意味であり、従ってこの呼び名を字義通りに訳せば「滅亡について」になる。
    これが同時代の読者の受け取り方だが、こういう受け取り方をされたのは、ヨセフスの心底に「なぜ、一民族が滅亡するのか」という問題意識が常にあり、それをしらずしらずのうちにも読者が看取したからであろう。
    そしてそれを看取した者には、この書の奥には確かに「滅亡の原則」が意識されており、本書はそれの論証のように見えてくる。
    それが、著者の表向きの意向とは別に「滅亡について」という書名を、読者がつけてしまった理由であろう。

    その点、本書は、その民族に生き残る意志があるなら、最高の警告書であり、そこに表れた事例は、典型的な「反面教師像」である。
    そしてこの書が、実に長い間、西欧の教養人の必読書であったことは忘れてはなるまい。
    もちろん彼らは、この書を新約聖書の最も信頼できる同時代史として読んだのであろうが―しかし同時にそれは二〇〇〇年近く「こうすれば滅びる、こうすれば滅びる」と彼らに囁きつづけて来たはずである。

    だが奇妙なことに、西欧化が口にされつづけた日本で、この伝統的な著作は、明治以来完全に無視されてきた。
    無理もない。
    というのは、明治のはじめから現代まで、日本において圧倒的なのは「興国史談」と「経国美談」だったからである。
    明治のはじめにはその範は専ら西欧であり、やがてアジアに移り、戦後アメリカからソヴィエトに移って、またアジアにもどったという変化はあっても、それは筋と登場人物と舞台の設定は違っても内容は実質的には常に同じという「講談本」「通俗小説」の如くに、同じであった。
    いろいろ問題になった中国報道やベトナム報道も、これを「興国史談」「経国美談」に書きかえられた通俗実話小説、すなわち明治以来の延長線上にあるものと見れば少しも不思議ではない。
    ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は確かに古典として翻訳出版されたが、これはあくまでも、はるか後代の一知識人の分析であっても、その滅亡の渦中にあったものの生々しい臨床医的記録ではない。
    しかしそれですら、日本の読者には歓迎されなかった。
    そしてこの「興国史談」「経国美談」の一世紀にわたる伝統は、ジャーナリズムまでその型にはめてしまい「さあ、興国側のまねをしよう」「その側に立とう」という形になり、さらに、次の「興国」を先取りしようという形にさえなっている。―そしてそのことも、実は「滅亡の定理」の一つだということも気づかずに。




  • ISBN-10: 4061583948
  • ISBN-13: 978-4061583948

  • 山本七平


    ニコ生トークセッション「愚民社会」大塚英志×宮台真司