2015年10月19日月曜日

司馬遼太郎著「歴史の中の日本」中央公論社刊pp.232-236より抜粋

徳川将軍家の大奥では、元旦に「おさざれ石」という儀式があった。

御台所は、午前四時に起床する。化粧を終えたあと、廊下に出る。廊下にはすでに毛氈が敷かれており、なかほどにタライが据えられている。そのなかに石が三つ並べられている。やがて御台所がタライの前に着座すると、むこう側にすわった中﨟が一礼し、

「君が代は千代に八千代にさざれ石の」

と、となえる。御台所はそれをうけて、

「いはほとなりて苔のむすまで」

と、下の句をとなえる。そのあと中﨟が御台所の手に水をそそぐ。そういう儀式のあったあと将軍家に年賀を申し述べる。

この元旦儀式は将軍家だけでなく、国持大名の奥にもあったという。そのもとは徳川家の創始ではなく、遠く室町幕府の典礼からひきついでいるのではないかと想像される。

明治二年(1869)、英国から貴賓がきた。それをもてなす場所は御浜御殿(浜離宮)ということに決まり、数人の英語のできる者が接待役になった。

ところで、貴賓が来た場合、奏楽が必要であった。こういう場合の奏楽のことは軍楽隊の雇い教師JW・フェントン(英国人)が面倒を見ていたが、彼は接待役の詰所へゆき、日本の国歌はなんだと聞いた。

薩摩藩士原田宗助も接待役の一人であった。彼はあわてて上司にきくべく軍務官役所へかけつけ、おりから会議中であった藩の川村純義をよびだし、そのわけを話すと、川村は急に怒り出し、「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことがあるか、万事まかすということでオハンたちを接待役にしたのではないか」と怒鳴りつけて会議の席へもどってしまった。川村はのちに海軍大将になった人物である。

接待役の原田宗助は青くなったであろう。ともかく、御浜御殿へ戻って同役に相談した。この同役は乙骨太郎乙である。乙骨は旧幕臣で、徳川家が静岡に移されてからもそれに従い、徳川家立の沼津兵学校で英語を教えていた。その英語の技能を買われて、接待役を命ぜられている。乙骨は旧幕臣だけに大奥のしきたりを多少知っており、ふと「おさざれ石」の儀式を思い出し、こういうのはどうか、と言い、歌詞を口ずさんでみた。薩摩の原田は大いにおどろき「その歌詞ならわしくにの琵琶歌の中にもある」と手をうって賛成し、なにぶん火急のときであるだけにフェントンをよび、原田みずからがそれを琵琶歌のふしでうたってみせた。フェントンはこの奇態なふしまわしにおどろいたらしいが、とにかく多少の手なおしをして楽譜にとり、当日の間にあわせた。

君が代うんぬんというのは類似の歌が「古今集」にもある。また今様にもあれば、筑紫流の筝曲や薩摩琵琶歌にもあるところをみれば、この歌は「めでためでたの若松さま」と同様、古くはその家々のことほぎのためにうたわれていて流布していたものであろう。

国歌「君が代」が誕生するについてのはなしは諸説あり、たとえばフェントンからいわれた軍楽伝習生頴川吉次郎が当時の砲兵隊長大山巌に告げ、大山は同藩の野津鎮雄大迫貞清にはかって薩摩琵琶歌のなかからこの歌詞をえらびフェントンに示したともいい、これが痛切になっている。おそらく火急のおりだからいくつもの系路で人が動いたのであろう。しかしモトのモトは、右の話がどうやら本当らしい。

この原田宗助というひとは、このあと明治四年、東郷平八郎らとともに英国に留学し、造兵技術を学び、最後は海軍造兵総監などになっている。この原田が後輩の沢鑑之丞(のち海軍技術中将)に話し、沢がこれを書き留めている。

「しかしおれのうたったふしとは、だいぶちがっている」

と原田はいったという。たしかに原田がうたってフェントンが譜にとった「初期君が代」はどうも間のびがして威厳がなかった。そういう理由で、政府ではのち海軍雇いのドイツ人エッケルトに相談したり、雅楽の音律を入れたりして改訂した。それが、明治十三年である。

もっともその時分の日本人の多くはこの国歌をきいたこともなかったし、国歌があるということすら知る者もすくなかった。なざならば国歌が実務上必要であったのは遠洋航海として他国を訪問する機会の多い海軍であり、げんに海軍がおもにつかっていた。祝祭日につかうようになったのは明治二十六年からである。

とにかく筆者にとって原田宗助のはなしがおかしかったのは、戊辰戦争からの砲煙がやっとしずまって新都へ諸藩兵があつまったころ、つまり川村純義にとって多忙なとき、そういう相談をもちかけられて「歌ぐらいのことでいちいちオイに相談すっことあるか」と下僚を一喝し、その一喝からこの歌が起源を発しているということである。いまひとつおかしいのはこの歌がもとはといえば徳川家の大奥の儀式の歌であり、旧幕臣である乙骨太郎乙がそれから発想して提案したのに「君が代」起源説の通説では大山巌などが大きく正面に登場して、徳川大奥の元旦儀式や乙骨という要素がまったく消されてしまっているということである。このことは、歴史というものの奇妙さについて、きわめて暗示的な課題を含んでいるように思われる。

歴史の中の日本

  • ISBN-10: 4122021030
  • ISBN-13: 978-4122021037

  • 司馬遼太郎




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