2017年3月2日木曜日

20170302 『モノガタリとしての現象』の認識 理系・文系

昨日の投稿記事は投稿翌日では、かつてない程、多くの方に閲覧して頂きました・・。

とはいえ、その内容とは主に書籍からの抜粋引用ではありますが、これまで通り、その選択に特に自信があるわけでもありません・・(苦笑)。

それ故、興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、この記事においても以前と同様、関連していると思われる複数投稿記事を示唆、掲示しましたが、その中でエルヴィン・シュレーディンガー著『生命とは何か』の抜粋引用記事が最も多く読まれたことには大変興味深い印象を受けました。

記事を作成している側からしますと、こうした読み手側からの指摘、示唆とは、とても勉強、刺激になるものであり、また、それが自身が関連記事として示唆、掲示していない、思いもかけない記事であった場合は尚更であると云えます・・。

そしてまた、読み手側からのそうした指摘、示唆といった反応が無ければ、現在まで記事作成を継続することは困難であっただろうと思われるのです。

しかしその一方で、本日の首都圏は終日の降雨であり、気温もあまり上昇しなかったことから、イマイチ意気が上がらないまま、さきほど記事作成を開始した次第でもあるのです・・(苦笑)。

そこで「さて本日作成する記事の主題は何にしようか?」と思いますと「昨日投稿記事と、さきに挙げた『生命とは何か』からの抜粋引用部内容の関連、類似性の指摘などはどうだろうか・・?」と割合自然に思い至るわけです。

そこで、それを出来るだけ端的に述べてみますと、おそらく幾度もの実験を通じて認識された物理現象と、さまざまな文献、資料により認識された歴史的な出来事(現象)の間には、その規模には大きな相異があるものの、主体(観察者)が認識するモノガタリとしての現象とは、それらのモデルが類似する場合もあり、また、それと同時に類似する場合においても、仔細に各々のモノガタリ、現象の構成要素をあらためて認識、検討してみると、そこから思いもよらぬ新しい現象が発見され、そして再度それ(新しい現象、モノガタリ)を包括する、より新しく大きな『モノガタリ』としての現象が考察、創造されるといったところではないでしょうか・・?

また、おそらく理系、文系の何れであれ、学問の進化とは概ね、そのように『三歩進んで二歩下がる』といった感じで為されてきたのではないかと自身は考えるのです・・(笑)。

そしてまた、ここまで述べてきたことも抽象的にはなりますが『モノガタリとしての現象』といえます。

さて、こうして書いておりますと『モノガタリとしての現象』を認識する上においては、あくまでもモノガタリ≒現象でなければならないと考えます。

しかし、当ブログをも含め、現在インターネット上に言語が氾濫し、さらには、さまざまな事が科学技術によって制御される状況においては、半ば必然的に人が自然に認識する現象よりも、外部から半解の状態でやってくるモノガタリの方が多く、その対応に追われ、自然、さまざまな認識、創造も皮相的なものとなってしまうこともあるのではないかと思いましたが、さて如何でしょうか・・?

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。