2017年1月22日日曜日

20170122 2011年の年始を思い出して・・

2010年年末から2011年年始にかけて鹿児島では記録的な大雪が降りました。

記録によりますと鹿児島市内にて約25㎝程度積もったとのことですので、本格的な積雪が滅多にない鹿児島としては、これは異例、珍事であったといえます。

また、その折も私は帰省せずに実験室に通っておりました。
加えて、たしかこの期間(冬休み)は全館暖房が夕刻までしか機能しないことから、その後の時間は講座研究室の先生の好意によりガス・ストーブを使用させて頂いておりました。

そして年も改まった残雪著しいある日、帰宅しますと昨2010年秋の学会発表(東海地方開催)において優秀発表賞を受賞したとの通知葉書が郵便受けに入っておりました。

この受賞は自身としてまったく予期していないことでしたので大変嬉しかったです。

それとまた同時に、このことはさきに述べた鹿児島での記録的な大雪とは関係がないものと考えます・・(笑)。

とはいえ、この受賞通知を受け取り、そのまま関係各方面の方々にその旨をお知らせするメッセージを作成、送信し、さらに翌日、講座にて周囲の先生方にお伝えしました。

しかし、講座の先輩院生方とは、大抵何らかのカタチでこうした賞を受賞されておりましたので、それは快挙というよりも、どちらかというと「講座での受賞歴の轍を前進させた」といった意味合いの方が強かったように思われます・・。

また、お知らせした先生方の中には「うん、それは良かった。しかし今春の学会は韓国での国際会議と合併開催の予定であるから授賞式は今秋の学会にされるだろうね・・それまで悪いことをしないように気をつけなさい・・。」と親切に忠告してくださる方もいらっしゃいました・・。

ともあれ、その後同月23日には、未だ残雪多い紫尾山に講座の先輩方と登っておりました・・。

この紫尾山とは、ある伝説により内輪にて大変おそれられていたのですが「今回はある程度雪も残っているから大丈夫であろう・・」とのことで登山を試みた次第ですが、その登山路とは想像以上に残雪が多いことから、かえって難儀したことを記憶しております・・(苦笑)。

しかしながら、同時にこれは大変良い経験でした。
何故ならば、はじめての雪山の登山が南国鹿児島であったという方々は、あまり多くないと考えるからです・・(笑)。

このような調子にて2011年はスタートしていた次第ですが、この年は年始から大雪、受賞(の通知)といった平穏ではない滑り出しではありましたが、同時にそれは前年後半から生じていたさまざまな出来事に付随、継続するようなものであったのではないかと思われます・・。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされたのが、現在読んでおりますエルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」第4章「量子力学によりはじめて明らかにされること」の「遷移」についての記述です。

この著作は「まえがき」が大変面白いと思い購入した次第ですが、正直なところ、中には意味がよく分からない部分もあります・・(苦笑)。

しかし、全体として大変興味深いことが記されているのではないかと思いますので、興味がある方は読まれてみては如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

昨年発生した熊本、山陰東部そして福島周辺における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








20170121 最近読んだ著作から、顕教・密教

ここ最近は新たな長編小説などは読んでおりませんが、相変わらず何かしら新しい書籍は読んでおります。
その中で特に面白いと思ったものは森鴎外著「ヰタ・セクスアリス」であり、この著作に描かれていることは、現代社会でのさまざまな出来事を考えるうえにおいても、なかなか興味深く、有意義ではあるまいかと思いました・・。

とはいえ、同時にこの著作とは、おそらく当時の男性に向けて書かれたものであり、また現代においても女性からの共感を得ることは難しいのではないかと思われます・・(笑)。

さて、この著作冒頭部のなかで執筆当時に流行していた自然主義文学のことを「理解し難い」と描いておりましたが、こうした感覚とは後年の批評家、小林秀雄とも共通しているのではないかと思われます・・。

また、同様に、現代の我が国が世界に誇るノーベル文学賞の候補ともなっている某作家の諸著作に対しても、おそらく、それと類似した評価となるのではなかろうか?と思われるのですが如何でしょうか・・?

そして、そのように考えてみますと、今度は、時代毎に世に広く受け入れられている文学、音楽などの文化的事物とは、果たして本当の意味で優れているから受け入れられているのであろうか?あるいは、それらの人気の源泉となっているものとは一体何であろうか?と考えてしまうのです・・。

そして、そこから仏教用語の顕教密教といった概念に思い至るのですが、おそらく、世に広く受け入れられる事物とは、概して顕教的な意味合いが強く、それに対し、広く受け入れられないにしても何かしら深く、普遍的な価値を持つと認められる事物とは、密教的な意味合いが強いのではないでしょうか・・?

さらに、こうしたことは、ある程度文明が発達した社会に概ね普遍的に認められることではないかと思われます・・。

そして、それら(顕教、密教的な事物)とは、同時代、社会において、さまざまな相互作用が為され、そこから新たな文化全般の母胎ともなる時代精神が醸成されるのではないでしょうか?

それ故、双方共に有意義であると同時に、平和裏のみの共存とは実は望むべきものではないのかもしれません・・(苦笑)。

また同時に、双方のうち何れかの要素が社会において勝りすぎても、それは普遍的な価値を持つ文化の創造という観点からは好ましくないとも考えられます・・。

とはいえ、その観点から考えて現代の我が国の社会とは、果たして多少なりとも良い方向に向かっているのでしょうか・・?

こうした問い、疑問とは、これまで多くの著述家、研究者などが考え、それを著してきましたが、近代以降の我が国の場合、どうも夏目漱石著「三四郎」冒頭部での会話、あるいは同著者の「現代日本の開化」などを思い起こしてしまうのです・・。

そういえば本日ハリウッドにて製作された遠藤周作原作「沈黙」の映画作品が公開されたようです・・。

この著作はこれまでに何度か読みましたので、少し楽しみです・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。