2017年10月17日火曜日

20171017 777記事への到達 感情の精神による変換・・文章作成の要諦?

書くことを忘れていましたが昨日の記事投稿により、総投稿記事数が777に到達しました・・(笑)。

これは特に区切りの良い数字ではありませんが、その一方でこの数値とは、幸運といった意味合い・ニュアンスをも感じさせるため、わずかではありますが嬉しく思います。

しかしながら、今現在自身の身辺において、特に幸運と評し得る出来事は生じておりませんので、こうしたものは迷信の類いであるのか、あるいはまた、いましばらく待ち続けるべきものであるのかもしれません・・。

ともあれ、ここまで(どうにか)到達出来たことにより、次の区切りの良い目標である800記事への到達もまた現実味を帯びてきます。

具体的には、
現在の調子(1日1記事)にて記事作成を継続することにより、来月初旬に800記事への到達が見込むことが可能となります。

未ださきのハナシではありますが、もしもここへ至ったならば、概ね2年半にわたるブログ記事作成の継続により到達したことになります。

それは決して非凡なことではありませんが、同時にあくまでも自身としては初めての経験でもあることから、どうにかそこまでは到達したいとも考えています。

とはいえ、たとえそこに至った場合においても、これまでの区切りの良い記事数への到達の際、くわえて、それが近いものであればあるほど、徐々に達成感が希薄になっていったと感じられたことから、おそらく次の800記事への到達に至った場合も、そうした種類の感情とは、これまで以上に感じることが難しくなっているものと予測します・・(苦笑)。

しかし、そうであるからといって記事作成を止めようとも考えておらず、むしろ達成感といった高揚を齎す要素を出来る限り排除した状態にて800記事にまで到達された場合、如何なる想念が生じる、視野が開かれるのかとは、少なくとも自身としては興味深いことであると考えるのです・・(笑)。

もちろん、であるからといって達成感もしくは内発的な高揚感自体が悪いものと認識しているわけではなく、そうした感情が欠如した状態が継続すると精神そのものが干乾び、また文章作成といった行為も極めて困難になると思われます。

そして、おそらくそうした一種の感情の抑制、制御もしくは精神によるその変換の過程が文章作成における一つの要諦ではあるまいかと考えているのですが、そのように考え続けていますと、今度は不思議なことに自身が口語にて話すことがさらに下手になったように感じられるのです・・(苦笑)。

この感覚を信じて良いのか分かりませんが、こうした(話し言葉と書き言葉)のバランスにはなかなか難しいものがあるのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

そして引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。






























20171016 読書から思った『温故知新』について・・

本日の首都圏は昨日より引き続き天気が好転せず、また気温もあまり上がらずに本格的に秋らしい降雨気味の一日となりました・・。
また、街中、電車内などにおいて見かけた人々も、つい一週間程前に比べますと厚着である方々が明らかに多かったのではないかと思われます。

こうして秋の深まりが感じられるなか、先日より再読しているジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』上巻を電車移動時にて読み進めている最中、不図思い起こされた著作は、以前投稿のブログ記事にて少し触れましたが、宮崎市定によるアジア史関連のものでした。

そして帰宅後にあらためて宮崎市定の著作の一つを開いてみますと、その文体とは和訳されたジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』と異なるものの、記述内容に関しては双方共に(少なからず)関連し合うのではないかと思われました。

もとより以上のことは私見ではありますが、興味を持たれた方々は是非、宮崎市定の著作を読まれて検証されることをおススメします・・(笑)。
(*先ずは『中国文明論集』がおススメです。)

また、宮崎市定に加え金関丈夫、南方熊楠といった方々の著作もまた読んでみますと、なかなかの知的興奮といったものが得られるのではないかとも思われます・・(笑)。
(*マンガでしたら『猫楠』の御一読をおススメします。)

また、それに加え、昨今多くの書店にて名著、話題の著作として扱われる『銃・病原菌・鉄』と(自身としては)勝るとも劣らない、興味深い知見が散りばめられた、織り込まれた優れた著作が、かつての我が国においては少なからず存在し、また、そうした著作を著すことが出来る研究者、著述家が存在していたことを認識することは、我が国が古来より連綿と培ってきた歴史文化に対する、より深くからの敬意、信頼につながるであろうし、また同時に現在の我が国社会に対する一つの警鐘にもなるのではないかと思われるのです・・
(ノーベル賞受賞の数などで一国の研究、学問水準を評価することは一つの評価基準ではあるかもしれませんが、その背後にある構造をより多くの人々が自分なりにコトバを以て認識することが重要ではないかと思われるのです・・。)。

そして、こうした考え、視座とは、感覚的ではありますが、どちらかというと科学技術よりも、人文社会科学分野における、ある程度(自分なりに考えた)精確な知見を積重ね体系化することにより、割合自然に認識し得るのではないかと思われます。

しかし一方にて、これまで幾度か当ブログ記事にて書いていますが、良い悪いの評価は抜きにして、我が国社会とは、こうした種類の認識が(著しく)乏しい、苦手であるように思われるのです・・。

その理由については諸説あるものの、決定的なものは未だ分かりませんが、これもまた我が国が古くから得意とする異文化などに対する受容性、柔軟性の影の側面ではないかと思われるのです・・。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害によって被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

また、引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。