2017年5月3日水曜日

20170503 思想、哲学と実際の経験・・活きたコトバとは?

A「600記事到達以降も記事作成を継続し、今回の投稿によって15回目の投稿となります。

この調子にて記事作成を継続すれば案外650記事程度までは、あまり苦もなく到達することが出来るのではないかとも思われますが、どうなるものでしょうか・・(笑)。

さて、昨日の投稿記事はあまり多くの閲覧者数を得ることが出来ないのではないかと思われましたが、その予想に反し、割合多くの方々に読んで頂けました・・。

一般的に思想、哲学といったものは、我が国においてはあまり面白いものとされておらず、また、たとえその種子を学生時代に蒔かれたとしても、社会人、実社会において、その興味を失ってしまうことが多いように思われます・・。

これは今もって不思議に思うところであり、また同時に、それが我が国の西欧文化の受容における一面の限界であるのかもしれません・・。

そして、正直なところ、こうした我が国の社会における傾向とは本質的に変わることはないと思われます。

あるいは変わるとしても、それは『角を矯めて牛を殺す』ような結果になると思われますので、案外、このままの方が我が国の場合は良いのではないかとも思われます・・。

とはいえ、自身の場合もまた、ほぼ独学、耳学問に基づくものであって特に思想、哲学といったものを専攻したわけでもありませんので、畢竟この意見もまた、単なる思い込みであるのかもしれませんが・・。

しかし他方、こうして考えてみますと、我が国における思想、哲学といったものの学校、社会での伝達の仕方、つまり教え方にも、また多少は問題があるのではないかとも思われます・・。

とはいえ、こうした思想・哲学といったものの知識あるいはその体系もまた、他の学問と同様、そう簡単に扱うことが出来るようになるものでもなく、むしろ、こうした形而上的なことがらを扱う学問とは、対象となるものの多くが、実体としては存在しないことから、ある程度の期間を要する学習、独学と、実際の経験を加味・化合することによってのみ、何といいますか、そうした思想、哲学のフィルターを通して事物・事象を観ることが可能となり、そして、それを能動的に言語化することが出来るようになるといった性質であるように思われます。

また、さきに述べたこととも関連するかもしれませんが、我が国の実社会においては、そうした思想、哲学のフィルターを通してものごとを観ることは、何故であるかよく分かりませんが(かなり)タブー視されている感がありますので、おそらく、その時点でも、そうした学問に対する興味の芽は概ね摘み取られるのかもしれません・・。

そういえば、このことは山本七平加藤周一もどこかで述べていた記憶があります。

ともあれ、以上のような経緯によって我が国の文系学問分野においては大学にて得た知識・知見と実社会が大きく離れたものとなってしまっているのではないかと思われます・・。

そして、以前にもブログ記事にて書いたと記憶しておりますが、この点において、上記の文系学問一般とは、少なくとも医療介護系などとは、大きく背景にある価値観が異なると評しても良いのではないかと思われます・・。

また、我々日本人とは、伝統的に即物的な世界観、つまりモノとコトバの対応関係が比較的明確な世界については明るいといった傾向があると思われますので、敢えて文系であるからといって、そうした思想、哲学を教える学部、学科を持ちたがる、あるいは当初から教えるのではなく、医療、介護、社会福祉などの実習、経験を要する学習を通じ、自然にそうした思想、哲学に興味を持つような経路、システムに多少改めてみても良いのではないか思うことが少なからずあります・・。

現在になって考えてみますと、自身の場合もまた、そのような感じであったと思われますので・・。

根本的に思想、哲学もまた活きたコトバで語られなければ、それは空虚なカタチだけのものとなってしまい、伝達の力を失います。
そして、活きたコトバによる思想とは、実際の経験から内発的に生じるものではないでしょうか・・?

今回も、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて生じた地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




20170502 我々が日常見て感じているものの本質とは・・?

おかげさまで昨日投稿の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に閲覧して頂けたようです。

そういえば、ベルクソンによると『我々の精神の働きが演奏を行うオーケストラ』そして、『それを指揮する指揮棒が脳』であり、それを『視覚のみ』で認識すると『振られている指揮棒の動き』ということになりますが、我々が脳でものごとを考えるとは、たとえると、そのような状態であるとのことです。

つまり、そこ(脳で考える)には『精神の働きである演奏を行うオーケストラおよび、その演奏されている楽曲とは包含されていない』のですが、それらの要素が、さきに述べたように『精神』そして『記憶』であるとのことです。

つまり精神≒記憶といっても特に間違いではないということになるのです・・。

しかし、我々は常時、過去の全ての記憶が意識上にあるわけではありません

そのような状態とは、かなり異常であることは、ただ、そうした状態を想像してみても、かなり重苦しく、息苦しいものであることにより分かるのではないかと思われます・・。

通常あるいは日常的に我々とは、必要最低限の記憶のみが意識上にあります。

そして、その『記憶の調整』あるいは『記憶を日常への注意へ向ける器官』が、さきの指揮棒にたとえた『』ということになります。

これを換言すると、精神、記憶の顕現を調整する働きを持つ器官が脳といった感じになるものと思われます。

そして、何かしらの原因にて脳の働きが弱くなると、我々の意識上に一気に記憶が顕現することになりますが、それが事故などに遭遇した際によく聞く、走馬灯のように自身の人生を垣間見るといった現象となります。

つまり、記憶、精神とは、何らかのカタチで脳と関連はあるものの必ずしも脳に存在するといったものでもないそうです・・。

そしてハナシは変わりますが、いや、そこから想起されることとして洞窟の比喩として知られているプラトンのイデア論があります。

これは我々が日常的に見たり感じたりしていることは、実は洞窟の奥壁に映し出された本質(イデア)の似像に過ぎなく、その見ている背後には、映し出された実体つまり本質(イデア)があるとのことですが、このプラトンのイデア論に、さきのベルクソンの説を折衷しますと、我々が脳の働きによって見ている現実世界とは、実は本質(イデア)の似像に過ぎなく、その注意されない背後には、実は本質としての膨大な精神、記憶(本質・イデア)が存在しているということになります。

さらにそうしますと、今度はウィトゲンシュタイン著の『論理哲学論考』、コンラッド著の『闇の奥』での記述を想起させますが、その明確な関連性の有無とは不明ではあるものの、やはりそこには何かしらの本質としてのイデアあるいは心理学的に表現すると集合的無意識による像といったものが存在するのではないかと考えさせれますが、さて如何でしょうか・・?

以上のことは、小林秀雄が何処かで述べていたと記憶しておりますが、何れにしても、なかなか興味深いことではないかと思われます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した地震により被災された諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。