2023年2月28日火曜日

20230228 株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋

株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003228626
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003228623

T・E・ローレンス大佐(1888~1935。イギリスの考古学者・軍人・作家)に初めて会ったとき、彼はたまたま夜会服に正装していた。あれは1920年の2月か3月のことだったに違いない。オールソウルズ・カレッジでは賓客接待の夜で、そのさい彼は7年間の特別研究員に任命された。夜会服姿は目に注意が集中するが、ローレンスの目はたちまち私をとらえた。人工の光で見てみてもはっとするほど青い目で、彼は話し相手の目をけっして見ようとはせず、衣服や手足の目録をつくりでもするかのようにちらちらと上下に動かす。私は偶然の客にすぎず、居合わせた少数の人々は顔見知りだった。ローレンスは神学の欽定講座担当教授(オクスフォード・ケンブリッジ両大学、およびスコットランドの大学に設けられた講座。ヘンリー八世の創設。その後の同様な講座担当教授にもいう)とシリアのギリシャ哲学者が初期キリスト教に与えた影響、わけてもガリラヤ湖にほど近いガダラ大学の重要性について話し合っており、使徒ヤコブが書簡のなかでガダラの哲学者の一人(私はムナサルクスだと思う)を引用したと言った。彼はさらに、メレアグロス(紀元前一世紀ごろのシリア出身の詩人・哲学者)や、ギリシャの詞華集に寄稿したシリア系ギリシャ人について話し、彼らの詩の英訳を出版するつもりだと言った。私はここで話に加わり、メレアグロスが一度いささか非ギリシャ的な使い方をした明けの明星のイメージに触れた。ローレンスは私に顔を向け、「さては詩人のロバート・グレーヴスだな?君の本は1917年にエジプトで読んだけど、すごくいいと思ったよ」と言った。

 私はどぎまぎしたが、悪い気はしなかった。彼はさっそく若い詩人について訊きはじめた。最近の詩の事情に疎いのでね、と言うので、私は知るかぎりのことを伝えた。

 ローレンスはエミール・ファイサル(1906?~75)サウディアラビア国王〈1964-75〉の顧問を務めた平和会議を終えてまもないころで、「叡智の七つの柱」の第二稿に手を入れているところだった。特別研究員の地位は、アラビアの反乱の正規の歴史を書くことを条件に彼に与えられたのである。私は午前中の講義の合間に彼の部屋をよく訪れた。しかし彼は夜に仕事をして夜明けに寝るので、11時前や11時半という時間はさけた。彼自身は酒を飲まなかったが、用務員にオーディット・エールの入った銀製ゴブレットを持たせてよく使いによこした。オーディット・エールは大学で醸造されてオーディット・デイ(会計検査日)などに飲まれたところからその名がついた、大麦湯のような口当たりのビールだが強かった。シュレスヴィヒ‐ホルシュタインのアルバート王子が新築された博物館の開館式に招かれてオクスフォード大学に来たことがあり、式のまえにオールソウルズ・カレッジで食事をとったさいオーディット・エールの口当たりのよさに騙されてつい飲みすぎ、午後遅く帰るときにはブラインドを引いた車で駅まで送られるはめになった。ローレンスの戦時中の活動についてはっきりしたことは何も知らない。もっとも兄のフィリップが1915年にカイロの情報局で彼と一緒で、トルコの戦力の分析に当たっていたことはわかっている。反乱に関しては訊いたことがない。彼がその話題を好まないように見えたことが一つ‐ロウエル・トーマス(1892-1981。アメリカの著述家・ジャーナリスト・旅行家。第一次大戦で出会ったT・E・ローレンスについて書いた「アラビアのローレンスと共に」〈1924〉がベストセラーになった。その後長くラジオのニュースキャスターとして活躍〈1930-76〉が現在、「アラビアのローレンス」についてアメリカで講義している‐もう一つは私と彼の間に戦争のことは口にしないという申し合わせがあったためだ。何よりも私たちは戦争の後遺症に苦しんでおり、オクスフォード大学を現実とも思えぬほどの憩いの場として楽しんでいた。だから、フルスキャップにぎっしり書かれた「叡智の七つの柱」の長い原稿は居間のテーブルにいつも積んであったけれども、私は好奇心をおさえた。彼はときおり、戦前にメソポタミアで行った考古学の仕事について話した。しかし、私たちがいちばん論じ合ったのは詩、それも現代詩だった。彼は、詩人と聞けばだれかれの別なく会いたがり、私を通じて知りあった代表的な詩人の中には、シーグフリード・サスーン、エドマンド・ブランデン、メイスフィールド、それから後日のことになるが、トーマス・ハーディ(1840-1928。イギリスの詩人・小説家)らがいた。彼は素直に詩人を羨み、詩人にはなにか理解すれば得るところのある秘密のようなものがある。という思いこみがあった。彼はチャールズ・ダウディ(1843‐1926。イギリスの作家・旅行家。作品に「アラビア砂漠旅行記」など)を崇拝し、第二の父と慕っていたアシュモリアン博物館のホーガス館長を通じて紹介してもらった。彼には詩人を特殊な生き方や考え方の体現者というより、むしろ技術的な言葉の魔術師と考えているようなふしがあったが、私にはこれに反論するだけの知識がなかった。その後何年かたっていくらか分かってきたときには、説得するのは難しいと気がついた。彼にとっては、絵画、彫刻、音楽、詩などは類似した活動で、使われる媒体が違っているだけだ。

20230227 株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」 pp.154‐158より抜粋

株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」
pp.154‐158より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062884283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062884280

白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われていることであるが(石母田正「日本の古代国家」)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのだろう。

 それでは、国内的な目的、対内的な目的というのは、いかなるものだったのであろうか。

 第一の可能性として、中大兄が派兵に踏み切った段階というのは、百済の遺臣鬼室福信たちが唐の進駐軍に対して叛乱を起こし、各地で勝利を収めてした時期であった。その時点で百済遺臣は倭国に使者を遣わして、援軍の派兵を要請してきたのである。

 その際、使者は絶対に客観的な事実を言うわけはない。自分たちはすでに大勝利を収めていて、あたかも、もう少しで唐軍を半島から駆逐することができるとでもいうようなことを言ったことは、おそらく間違いあるまい。したがって、中大兄と鎌足は、そのような誇張された情報に乗ってしまったことになろう。実際に、福信たちは緒戦においては勝利がつづいていたわけであるし、使者の情報が誇張を含んだものであると判断したとしても、あながち虚偽の情報でもあるまいと判断し、倭国からの援軍が合流すれば、ほんとうに最終的な勝利を得ることができると考えたとしても、不思議ではない。現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては、本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあったという可能性もあった、ということを考えるべきであろう。

 第二の可能性として、もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい。当時の兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、もしかしたら唐には負けるかもしれない、ということは、明敏な中大兄のこと、心のどこかに予想していた可能性は高かろう。

 しかしそれでもなお、負けた場合に、唐が倭国に攻めてくるとは想定せずに、国内はこれによって統一されるであろうということを、中大兄と鎌足は考えたのではあるまいか。中大兄にとっては、中央集権国家を作りたい、だけど支配者層はバラバラである、地方豪族は言うことを聞かない、というような時に、ここで対外戦争を起こしてみたら、国内が統一できるだろう、という思いを持っていたのではないか。

 その際、外国でおこなう戦争だったのであるから、敗残兵が大量に帰還してくれば、国内の人びとにも、さすがに大きな損害があったことは察知できたはずである。しかしながら、それだけの情報しかないのであるから、国内向けには、こっちは大きな損害を受けたけれども、向こうにはもっと甚大な損害を与えたのだと言い張っても、誰も見ていないのであるから、わからないのである。

 さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても(実際にはそうだったのであるが)、「大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄王子」という図式を、倭国内で主張することは可能である。つまり、中大兄たちの起こした対唐・新羅戦争というのは、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的だったのであり、それによって倭国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成を、より効果的におこなうことを期したものであるという側面があった可能性を考えたい。

 あるいは、もっと深刻な可能性として、倭国の敗北が国内で周知の事実となってしまった場合でもない、中大兄は自らの国内改革の好機ととらえていたのではないかと考えている。

 あたかもこれから、唐・新羅連合軍が倭国に来襲してくるという危機感を国内に煽り、戦争で負けた、これから両国が倭国に攻めてくるぞ、それに立ち向って我らが祖国を守るためには、このままの体制ではいけない、国内の権力を集中して軍事国家を作り、国防に専念しなければいけない、軍国体制を作るためには、これまでとは異なる権力集中が必要である、国内の全権力を自分に与えろ、と主張しようとしていたのではないであろうか。

 じつはこのパターンが、もっとも強力な軍事国家を作ることができるのであり、中大兄にとっては、この戦争は、まさに「渡りに舟」のチャンスと認識していたことになる。

 最後に一つだけ、とんでもない可能性も提示しておきたい。従来から説かれているところであるが、白村江の戦に参加したのは、倭国の豪族軍と国造に率いられた国造軍の連合体であった(鬼頭清明「白村江」)。中央集権国家の建設をめざしていた中大兄にとって、もっとも深刻な障碍となっていたのは、まさに自己の既得権益ばかりを主張し、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族層だったはずである。中央集権国家の建設というのは、取りも直さず豪族層の伝統的な権益(私地私民)を剥奪することに他ならないのである。

 中大兄と鎌足にしてみれば、乙巳の変依頼、自分たちの改革に対して障碍となってきていた、そしてつぎなる改革に際しても、邪魔な存在となる可能性の高かった豪族層を、対唐・新羅戦争に投入し、それらの障碍を取り除くことができる(いわゆる「裁兵」である)とでも考えたのではないであろうか。

 事実、白村江の戦から九年後に起こっている壬申の乱においては、白村江の戦に参加した豪族の名は、ほとんど見られない。

 中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度、地方にまで浸透していったのである。

 以上、さまざまな可能性を考えてみた。これらのうち、どれがもっとも中大兄の思惑に近かったのか、それとも、中大兄自身がいくつかの可能性をシュミレートしていたのか、今となっては知る由もないが、いずれにせよ、白村江の戦は、必ずしも無謀な戦争だったのではないし、勝敗をまったく度外視していたわけでもないことは、明らかであると思う。

 なおかつ、負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった、という側面を強調したい。しかもそれは、対外的な目的よりも、国内的な要因によって起こしたということを指摘しておきたい。

 これは戦争という国家の権力発動の持つ、非常にして明晰な論理の発現だったのである。あれほどの大敗北だったからこそ、それが先鋭に浮かび上がったということなのであろう。そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる。