2022年4月23日土曜日

20220423 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.346-350より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」pp.346-350より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

彼はまた、ホワイトハウスを電話に出させるためにあらゆるチャンスを利用した。アメリカのジャーナリストと交流し、彼らを首相別邸のチェッカーズに招くようになった。

 アメリカではラジオの聴取者が増える一方だったので、彼は臆面もなくアメリカの聴衆に向けて演説を行うようになった。有名な1940年6月4日には次のように直接的な訴えで演説を終えている

 ヨーロッパの大部分、伝統ある国の多くがゲシュタポなどナチス支配の嫌悪すべき組織の手に落ちました。あるいは落ちんとしています。しかし私たちは萎れてはなりません。負けてはなりません。最後まで戦い抜きます。私たちはフランスで闘います。海上で、洋上で戦います。高まる信念と強靭さをもって空中で戦います。海辺で戦います。上陸地で戦います。野で戦い、街路で戦います。丘で戦います。けっして屈服しません。そしてもしも、私は一瞬たちともそうなるとは信じませんが、イギリス全土、あるいは大部分が服従を強いられたり、飢えたりしたならば、イギリス艦隊によって武装され、護られた海のかなたのわれわれの帝国が闘争を続けるでしょう。神のお導きにより、新世界が全力で旧世界を救い、解放するために足を踏み出してくれるまで。

 神に祈っている点に注目していただきたい。今でもそうだが、神は当時のアメリカ政治においてイギリスよりもかなり大きな役割を果たしていたのである。彼は7月のオラン演説のクライマックスと同じ方式を使った。自分の行動についての判断を「アメリカ合衆国に」委ねたのである。

 ゆっくりとではあるが、チャーチルの試みは成果を出しつつあった。しかしそれは困難な道のりであり、対価も大きかった。第一に、駆逐艦と基地の取引があった。イギリスは50隻の退役駆逐艦と引き換えにトリニダード、バミューダ、そしてニューファウンドランドの基地をアメリカに引き渡したのだ。古いバスタブのような駆逐艦は浮かせるのも一苦労で、1940年末までに使用可能になったのはわずか9隻だった。

 次にアメリカは何がしかの武器を売ることに同意した。しかし中立法に基づき、イギリスは即座の現金払いを要求された。1941年3月、アメリカの巡洋艦がイギリスの最後のなけなしの金塊50トンを受け取るためにケープタウンに派遣された。借金のかたに薄型テレビを押収する管財人のようなものだった。アメリカにあったイギリス企業は最安値で売却された。イギリスが自分たちは実質破産しているのだと抗議し始めると、アメリカ政府はイギリスの真の支払い能力を調べにかかった。まるで年老いた生活保護費の受給者が財産隠しをしていると咎める社会保障局のようだった。

 将来の支払いを見込んで続けられた武器貸与については、チャーチルは「史上最も高潔な行為」と表向きは言っていたかもしれない。しかし内輪では、イギリスはアメリカに皮をむかれ、骨まで鞭うたれていると言っていた。武器貸与の条件として、アメリカはイギリスの海上貿易に干渉することを言い張り、イギリスが大いに必要としていたコンビーフをアルゼンチンから輸入することを停止させた。

 武器貸与法は、終戦後もイギリスが自国の商業航空政策を運用する権利を妨げ続けた。この損得抜きの高潔なはずのアメリカ政府の行為に対して、イギリスはなんと2006年12月31日にやっと支払いを終えた。その日、当時財務省の経済担当副大臣だったエド・ボールズ氏が8330万ドル、4250万ポンド相当の最後の小切手とアメリカ財務省に対する感謝の手紙を書いた。戦時債務の支払いに関して、これほどまでに卑屈な几帳面さを示した国がほかにあっただろうか。

 アメリカは第二次世界大戦の初期の段階でイギリスが大量の現金を吸い上げ、その流動性のおかげで最終的に大不況から脱出でいたのだという見方もある。アメリカの戦争マシーンを始動するクランクの役割を果たしたのはイギリスの金だった。ところが、アメリカにとって申し分ない条件だったにもかかわらず、1941年の初め頃、アメリカの政治家の多くは、この合意はイギリスにとって寛大過ぎると考えた。結局、法案は下院で260対165の票決で可決されたが、イギリスに法外な金額で救命胴衣をくれてやることを拒否したこれら165人の議員たちは一体何を考えていたのだろうか。彼らは旧世界が沈むのを見たかったのだろうか。実際、そういうことを一瞬考えた者もいただろう。

 チャーチルはその手のアメリカ人たちを味方に引き入れなければならなかった。ところがその年の終わりには、これら同じアメリカの国会議員たちをチャーチルは手なずけていた。1941年12月のクリスマスの翌日、彼らは議場を埋め尽くした。チャーチルが演説をするために立ち上がる前から、全上院議員、下院議員が歓呼の声を上げてやまなかった。何が彼らの気持ちを変えたのだろうか。

 そう、パールハーバーでちょっとしたことが起きたのである。日本による奇襲があったのだ。その数日後、ヒトラーがアメリカに宣戦を布告するという常軌を逸した決定をした。これらのことがようやくアメリカの議員たちをしてイギリスと一体感を持つに至らせるのに役立ったのかもしれない。

20220422 歴史の通説が相転移的に変わるような出来事があることについて

おかげさまで昨日の投稿記事の閲覧者数は思いのほかに伸びていました。こちらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、後になり、当記事を読み返してみますと、即興にて作成し、主題も途中で変わっていたりはするのですが、そこで述べていた自意識の相・層に流れている、あるコトバの流れを文章化することが重要との趣旨については、少なくとも間違いではないように思われます。

また、この意識の中でのコトバの流れには、いくつかの相・層があり、当ブログのような公表を前提とする文章なども、いわば、そうした相・層に流れている一つであると云え、そして、それを文章化してブログ記事とすることが、多くの場合、面倒に感じるところであるのですが、ここを何と云いますか、記事のクオリティーよりも、とりあえず作成することに重点を置いて作成してみますと、如上のような書き出しとなります。

しかし、実際斯様に記事作成を始めてみますと、これまでに逡巡しながら作成した諸記事と比べても、あまり大きな差異を感じることはありませんので、今後しばらくの間、出来る限り拙速を許容するスタンスにて進めてみようと思います。

さて、昨日の投稿記事にて述べた、現在読み進めている著作ですが、その後も少し進み、銅矛、銅鐸そして銅剣、銅戈などの青銅器について述べた章へと至りましたが、このあたりの記述からは、既知の知見が更新されて、興味深く読み進めていますが、それでも、当著作が刊行された2020年初旬(執筆されたのはさらに以前)においても、この西日本を主とした、これら各種青銅製祭器の出土分布の様相については、かねてより私が知るものから、あまり大きな変化はないようでした。

この我が国における各種青銅器の出土状況は、記紀などにある記述との関連性などが考察されて、ヤマト朝廷成立以前の社会の様子について検討されることが多くあり、とりわけ「古事記」にある出雲神話について、かつて「出雲」という地域は、大変に強く、近畿のヤマト朝廷とも(西日本での)覇権を争っていたとされるが、かつての、この地域の強大さを示す遺物、遺跡等があまり見出されなかったことから、それはあくまでも神話だけのハナシ、設定であるとも考えられていましたが、それが1984年の出雲市での荒神谷遺跡(国内最大規模、358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土)そして1996年、同県雲南市にて加茂岩倉遺跡(一箇所からの出土としては最多である39個の銅鐸が出土)が発見されたことにより、我が国が地域毎にて独特の青銅製祭器を盛んに用いていた弥生時代中期以降における、出雲地域の重要性、そしてまた「古事記」記載内容への、ある種、史実への妥当性が検証されたことになりました。

つまり、この島根県の2遺跡の発見により、弥生時代末期の我が国社会の様相への認識が大きく変わったと云えるのですが、出土された遺物等に基づき研究される考古学などの分野では、おそらく、この2遺跡の発見といった、いわば「大事件」が生じると、それまでの学問上の通説が大きく変わるということがあるようです。

以前、私がこの出来事を森浩一氏の著作を通じて知ってから、これら遺跡の発見以前に書かれた、本邦青銅製祭器の出土状況および、当時の社会様相についてを扱った書籍を図書館であたってみたところ、いくつかの書きぶりのパターンがあり、そのなかには「古事記」では出雲についての記述が多くあるものの、実際の出雲地域の重要性については疑問視する見解も複数ありましたが、他方で、当ブログにて以前に引用記事とした金関丈夫氏による我が国の青銅器文化について述べた記述は、和歌山のメッサオークワ ガーデンパーク内の書店での立ち読みの際に見つけ「おお!この2遺跡の発見以前に、このような、その後にも通用する見解を述べていた方がいたのか・・。」と、いたく感心した記憶があります。

ちなみに和歌山で思い出し、また以前に当ブログにて述べましたが、前述の銅鐸39個が出土した加茂岩倉遺跡にて出土した四つの銅鐸と、和歌山市のJR和歌山駅東口近くの太田黒田遺跡にて出土した銅鐸は、同一の鋳型にて作成されたものであることが分かっており、それらの関係性や来歴が気になるところですが、こうしたことは、未だ文字の使用が一般的ではなかった時代のことであることから、突飛な仮説や憶測に結び付きやすい易いと思われがちですが、実際の出土遺物に基づいた研究によって、こうしたことが明らかになることは、やはり、それなりに面白く、興味深いことであるように思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部


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ISBN978-4-263-46420-5

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