2015年10月1日木曜日

竹山道雄著「昭和の精神史」講談社刊pp.132-137より抜粋

昭和13年ごろに国論は完全に一致した。裏の世論はすっかり終息してしまい、表には聖戦完遂と国家体制革新とあたらしいモラルが声高く華やかに高唱された。(といってもなお、これは一般国民の心からの確信にはならなかった。
国民の気持ちに内的生命がふきこまれたのは、真珠湾のあとしばらくだけだった)
そして、遠くでは相つづくナチスの光栄・・・。
ひさしい混乱をつづけ、客観的な判断の材料を与えられず、異常な緊迫にあがいて、ついに日本人の頭脳は、ある架空の領域の中で奇怪な回転をはじめた。
非現実的な擬制と希望的思考の旋回上昇がはじまった。
うわついた空理空論がゆるぎない現実の力となった。誰も彼もが強い酒に酔ったように、「矢でも鉄砲でももってきやがれ」というふうだった。
あの旋回上昇のからまわりの張本人とも思われる松岡氏が、重光氏につぎのように語ったと、「昭和の動乱」に書いてある。
自分の努力はむなしかった。やがて「南にも北にも、おそらく火がつくであらう。日本は、かやうにして一旦奈落の底に落ちて、然る後でなければ、国民的自覚の上に浮かび上がることはできぬ、と思ふ」。これは意味の深い話である。
昭和12・3年ころから以降の雑誌類を読みかえすと、つくづく思想家とか評論家とかいうものは、そのときによってどうにでも理窟をつける愚かしいものだという感を禁じえない。

いまカーテンの内の国々について、「言論の自由はある。
ただしある枠の中で」と説明されているが、あのころには日本でも人々はそういう自由を満喫していた。
そしてこの枠も、ほとんど自分で作ったようなものだった。
あのような説を唱えた人々はみな自発的にいいだしたので、日本ではそう言わねばならぬという強制はなく、黙っていてもすんだ。
しかし、あの説はついに世論として圧倒的な力をえることになった。しかし、その人たちこそ、はたしてそれほど心から賛同していたのだったろうか?
多くの人々は、この心にいだいていた不平をいだきながら勢いよく協力していた。いまその人々は、この心にいだいていた不平の文をもって弁明としている。
 現在のポーランドのインテリについて読んだことがあるが、それがあのころの日本とそっくりなのにおどろいた。
それらの論文は残っていていま読むことができる。
便乗もあり、心からの信念のものもあり、尾崎氏のように逆の目的をひそめたものもあり、また現在行われている戦争に正しい目的と性格を与えようと努力したものもあった。
まことに目をみはるようなことも多いが、それは別のはなしである。ただいかに指導的インテリ(ほとんどすべての指導的インテリがあれを唱えた)と軍人との意見が合致して、ついに国が思想的に一元化したかの例として、つぎに二つだけをあげる。

三木清(昭和145月の「中央公論」)
・・必要なことは愛国心が革新の情熱と結びつくことである。・・・愛国心は諸君のモラルの基礎でなければならない、だが愛国心は何よりもわが民族の使命の自覚となって現はれなければならない・・・学問を我々の使命に結び付けるといふことは学問を単に有用性に従属させるといふことではない。わが民族の使命は世界史的意義の有するものとして単なる有用性を遥かに越えたものでなければならない筈である。

同じ雑誌に、土肥原将軍は同じ趣旨をもってもっとはげしい口調で説いて、自由主義観念を打破せよと教えている。

・・東亜協同体、これは今日吾々の理念である。だがそれは今次事変を戦ってゐる吾々の情熱的戦闘心と一致する、偉大にして高邁なる理念であり、端的な信念である。吾々が既成の世界秩序を打破して、新文明史的な進歩的な新東亜を建設するには、この情熱的な戦闘心と偉大にして高邁なる理念と端的な信念を常に実践して、今日それらには全く欠如してゐるが、一つの世界観によって武装してゐる旧思想と戦はねばならない。・・・旧時代、旧思想と戦って、新しき時代、新しき思想を建設するわれわれは、行動原理及びその性格と推進力を、吾々の民族的なもの、国家的なもの、歴史的なものの中に求めらければならない。・・現在は解体と建設の中から新しい道徳的領域を確立せねばならないのである。かかる新しい世代にとって、新しい世代の実践から遊離した真理の存在は許されない。

等々、これらの類のものは無数である。
このころは、超国家主義者の土肥原将軍も、国を長期消耗戦から敗北へと導こうとしていた尾崎秀実も、同じことを唱えていた。これで日本の思想的目標は定まった。
全国の山野に練成場が設けられて、みそぎがはじまった。
対米宣戦が布告されたときには「これで天の岩戸がひらけた」といったりした。
このとき人々は、今まで引きまわされた迷路の中から、はじめてはっきりとした目標を見たと思ったのだった。
あのころの「神がかり」は実に異様なものだった。戦争中に新兵器がしきりに要望されたとき、さる大新聞に「瘋癲病院の患者の着想を利用せよ」と書いてあった。

グルー
大使が記している。
私にとって、知性をそなえた日本人がどの程度までに知性的不正直を犯すことができるか、またどの程度にまであてがわれているプロパガンダから正直な結論に達するかは、常に未解決問題である。日本人は事実を知ることを許されていないのだから、この点は割引して考うべきかも知れないが、長い年月自由主義を標榜してきた早稲田大学の総長ともあろう理知的で学究的な人が、どうして次のようなたわごとを書くことができるのか、いささか了解に苦しむ。
「過日の近衛声明に力説されたように、現闘争における日本の目的は、些々たる領土的獲得ではない。
これはむしろ中国の独立を防衛し、中国の主権を尊重し通、東亜の新秩序を建設せんとするにある。
この堂々たる使命を達成せんとして、日本は歴史上最大の戦争を敢えてせざるをえなかった。
世界のいずくにかかる崇高なる理想をもって戦われる戦争の実例が見出されるか?これこそ正しく聖戦と呼ばるべきである。」

この総長はべつに嘘をついていたわけではなかった。彼はただあの当時に国を風靡していた社会的知覚にしたがっていたのである。
「裸の王様」を見た人は、個人としては「王様は裸である」というにちがいない。
しかし社会人としては社会的知覚にしたがって「王様は着物を着ている」という。
個人の知覚とは離れた社会的集合的知覚が厳然とした事実としてあって、社会人としての目には着物を着た王様が見えているのである。
「やあ、あの王様は裸でいる!」と叫んだ少年は、まだ社会的知覚をもっていなかったのである。
そして日本人は、おそらくドイツの学問の影響であろうか(いまのドイツの学問はもうそれをしないが)、いつからか事実から出発して考えることをやめて、むしろある体系にあてはめて事実を判断する習性をえたので、それがこういう傾向をよけいに助長したように思われる。
そして、この事実から離れた架空の映像の中での絶叫は、現在までつづいている。
ISBN-10: 4061586963
ISBN-13: 978-4061586963




ベルクソン著坂田徳男・三輪正・池辺義教・飯田照明・池長澄訳「哲学的直観ほか」中央公論新社刊pp.65-69より抜粋

近代の科学は単一でもなく単純でもない。
近代科学がけっきょくは明瞭と認められる観念に基づいているということは私も承認する。

しかしそれらも深奥な観念である場合は、使用されるにしたがって次第に明晰となったのであって、しかもそれらの観念はそうした明晰の大部分を、もろもろの事実と、そしてその適応とが、逆に観念へ反応した光に負っているのであり、してみるとすべて概念の明晰は、その概念を有利に操作しうるという、ひとたび得られた確実性以外の何ものでもないと言ってよい

それらの観念のうちにも、最初は朦朧としており、すべて科学へ受け入れられた概念と容易に調和せず、いな不条理に近いもののように思えたものも少なくなかったに違いない。

これは科学が、相互に精密に適合するよう予定された概念を順序正しくはめ込んでいくという手続きを踏むものでないことを意味している

深遠な多産的な観念は、いずれも実在の流れとのそれだけの数の密接な接触なのであって、かならずしも同一の点へ集中してくるものではない。
しかしそれらの観念を宿す概念は、たえず摩滅し合い互いの稜角を丸め合って、何とかして整合な状態へ落ちつこうとするものである。

他方、近代人の形而上学は、和解しえない対立へ究極しなければならぬといったような極端な解決から成り立ってはいない。

二律背反の定立と反定立とを、同時に同一の地盤の上で承認する手段が一つも存在しないとすれば、形而上学はたしかにそういうものとなるであろう。

しかし、直観の努力によって具体的実在の内部へ自己を置くことこそ、まさしく哲学的思考なのであり、カントの批判は外部からその実在を眺めて、定立と反定立という対立する見地を得たのであった。

灰色をかつて見た経験がなければ、私は黒と白とがどう浸透し合うかを想像しえないだろう。

しかしいったん灰色を見ていれば、灰色を白の見地と黒の見地とから考察しうるうえんが容易に理解される。

直観に根底をもった学説は、まさしくその直感的であるのに応じて、容易にカントの批判を脱するのである。
定説へ凝固し去った死んだ形而上学をかえりみずに、哲学者の胸に生きている形而上学だけを考えるなら、形而上学の全部はそのような学説なのである。

学派と学派の間に、言いかえると、要するに少数の大思想家たちの周囲に形づくられた弟子たちの団体の間に見られる意見の相違は、たしかに顕著なものがある。

しかし大思想家たち自身の間の相違は、それほどいちじるしいものであろうか。

そこでは単純で鮮明な何ものかが、体系の間の意見の相違を支配している。

繰り返して言うと、それは同じ海底の底へおろされた測深錘が、それぞれにはなはだ異なった物質を海面へすくい上げてはくるが、深浅の度は異にしても、とにかくいずれもが同じ大洋の底へ触れたという手応えが感知されるのに似ている。

弟子たちが問題とするのは、いつもすくい上げられたその物質なのであって、そこに働くものは分析の機能である。

また師匠も、自己がもたらしたものを式述し、展開し、抽象的観念へ翻訳するかぎりでは、もういわば自己自身の弟子になっているのである。

しかし分析を出発させ、それ自身は分析の背後へ隠れてしまう単純な動作は、分析的能力とはまったく異なった能力から発する。このものこそまさしく、その定義から言って直観なのである。

結語

この直観の能力が何ら神秘的なものでないことを、私は結末に注意しておこう。


たとえば文学上の制作を試みて成功したことのある人ならだれでも知っているように、主題はながく研究され、材料はすべて収集され、手控えはすべて取られていても、いよいよ制作そのものへ着手するにはまだ何ものかが必要であって、主題の核心へ一気に身を移し、それに追随していけばおのずから筆が進んでいくような衝動力をできるだけ深く探すためには、しばしば苦しい努力をしなければならぬが、その努力こそ必要なのである。

この衝動力がひとたび受け取られると、心は軌道の上に滑り出さされ、そこにはすでに集めた材料や、その他なお多数の細目がふたたび見出されるのであり、この衝動力が発展し分析されるのに使う言葉を枚挙しようとすれば、窮るところがないであろう。

進めば進むほど言葉はたくさん発見され、いっさいが言い尽くされた境にけっして達しないが、しかも背後に感ぜられる衝動力をとらえようとして突然うしろをふりかえってみると、その姿はすでに跡形もない。

それというのも、この衝動力は物であったのではなくて、運動への励ましであったのであり、無限に拡大しうるものでありながら、単純そのものだからである。

形而上学的直観もそうした種類のものであるとみえる。

この場合は、実証的科学によって、わけても精神の自己反省によって集められた観察や経験の全体が、文学的制作品を構成するときの文書や手控えに相当している。
というのは、実在について直観を得ることは、実在のもっとも内的な部分との精神的共感を得ることであるが、それはまず実在の表面的なもろもろの現われとながく親しんで、実在の信頼を得ていなくてはならないからである。
しかも問題は、単に顕著な事実を同化するということだけではない。

巨大な量の事実を集積し、いっしょに溶解して、その結果、観察者たちが知らず識らずにその観察の底にたくわえている先入観念や早熟な観念のいっさいを、その溶解のなかで互いにたしかに中和させるほどでなくてはならぬ。

このようにしてのみ、既知の事実から素材のありのままの性質が現れてくるのである。

自我が自我と直接に接触するという単純な、とくに好都合な場合をまえに例として用いたが、そういう場合ですらも、非常にたくさんの心理的分析の全体を、互いに結合し比較してみたことのない人には、最後の、判明な直観の努力は不可能であろう。

近代哲学の巨匠たちは当時の科学の素材のいっさいを同化していた人たちであったのであり、半世紀前から形而上学がいくぶん衰えを見せたのは、あまりにも分化した実証的科学と接触するうえに異常な困難を今日の哲学者が覚えたことが、主要な原因となっている。

しかし、(素材となる)実質的知識をかさねなくては形而上学的直観に達しえられないとは言っても、その直観はそうした知識の要約とか綜合とは全然別のものである。

ちょうど運動の衝動力が動体の通過した道とは別であり、ばねの緊張が時計のなかの目に見える運動と異なっているのと同じように、形而上学的直観も、実質的知識の要約や綜合とは異なったものである。この意味で、形而上学は経験の一般化とは何の共通点もない。しかも形而上学は成全的経験experience integraleと定義されてよいであろう。

哲学的直観ほか



  • ・ISBN-10: 4121600355
  • ・ISBN-13: 978-4121600356





飯田照明

池長澄