2022年5月25日水曜日

20220524 株式会社日本評論社刊 中井久夫著「日本の医者」 pp.44-45より抜粋

株式会社日本評論社刊 中井久夫著「日本の医者」
pp.44-45より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4535804249
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4535804241

医学の近代化が、市民革命と時をおなじうして、いや、ときには、まさに革命のまっただなかでおこることは、きわめて注目にあたいする。疾患の正確な現象的記載から、疾患の実態的把握へとすすんだ近代臨床医学の父シドナムは、講壇からうとんぜられた市井の医者だったばかりでなく、イギリス市民革命に兵士として参加した革命の子であった。医学を理論と実践との結合においてはじめて研究・教授した最初の大学たるオランダのライデン大学は、スペインからの独立戦争がそのまま市民革命であったオランダで、その直後に、理想にもえて建設された。そうしてフランス大革命は、それまで中世的・講壇的医学にとじこもり、ヨーロッパでもっともおくれているといわれ、心あるものは医師にならないとまでいわれた王政時代のフランス医学を、一躍、世界最高の、緻密で体系的なものにする。大学での臨床講義からはじまり、それは、実にいみじくも、「ポリクリニーク」(市民の診療所)と名づけられた。大革命とそれにつづく十数年前、フランス医学は真に世界をリードし、近代的な診断学の基礎をうちたて、また統計学を医学に導入する。

 一言にしていえば、封建領主や宮廷貴族は、庶民とはちがった特別の治療・神秘的な、もったいぶった治療をのぞんだと考えられるのに反し、実利的なブルジョアジーは、みせかけやごまかしを拒否し、端的に病気をなおしてくれることを医学に要求したのだ。

 市民革命が流産したり、抑圧されてしまった国でも、特権的な国家機構としての大学が、世界のあたらしいうごきをくみとり、移植し、発展させることは可能である。医学のような限定された領域での近代化は、いったんその実力が証明されたならば、絶対主義的な権力もまた、それをみずからの装備のひとつにくわえることを歓迎する。オランダのライデン大学に呼応してドイツのゲッチンゲン大学が医学の近代的な研究と教授を開始する。ナポレオン戦争後の反動的な神聖同盟時代に、同盟の根城オーストリア帝国のウィーン大学は、フランス医学の成果をひきついで発展させていった。そうして、これらのドイツやオーストリアで、医学は、科学的な病理学や細菌学の上に立つようになる。一見奇妙なことだが、より成熟した市民社会のイギリスやフランスでは、医学は、過度の臨床実践への密着ゆえにか、この時期には、ドイツ医学にくらべて、はっきり一段階たちおくれを示してしまう。たとえば、フランス医学のカリキュラムは1820年ごろから1960年ごろのドゴール政権による改革まで、ほとんど不変であった。一言にしていえば、超臨床的ともいうべきもので、医学部入学時から病院に出て実習し、学科は午後に選択してとるので、解剖学を知らないで内科を学ぶことすらあるのだ。細菌学の父パストゥールが医者ではなかった事実は象徴的である。

 アメリカ医学は最初から近代医学として出発したが、それが植民地風の医学から脱却して独自の巨大な発展をはじめたのは、じつに20世紀になってからであり、基礎医学をドイツから、臨床医学をイギリス、フランスから輸入してその発展ははじまったのだ。これはわが国医学の近代化と前後しての現象であり、形式もまた似ていなくはない。