2017年7月28日金曜日

20170727 自覚がないまま辿り着いた700記事 土器・青銅・鉄器を結ぶもの『炎』

一般的な世界史の区分において石器時代(打製・磨製)・青銅器時代に次いで鉄器時代となるわけですが、当初人類が用いたとされる金属である青銅の使用とは、紀元前3500年頃メソポタミア(両河地方)にはじまり、その後紀元前1500年頃にヒッタイト(現在のトルコあたり)にて鉄器の使用が普及し、それが経時的に世界各地に分散・伝播していきました。

さて、我が国とは、そうした伝播経路の辺縁に位置していたことから、双方金属の伝播・普及とは、発祥の地に比べるとかなり遅く、おそらく紀元前後あたりに双方同時に朝鮮半島を経由して齎されたとされています(さまざまな意見がありますが)。

また、伝来当初より我が国における双方金属の使用法とは、その用途によって異なり、祭祀などに用いる祭器(銅鐸銅矛銅戈銅剣銅鏡)である場合、青銅が多く用いられ、武器・農具などの実用的な道具に関しては鉄が多く用いられました。

とはいえ、当時の金属、特に鉄とは、かなり貴重なものであり、当初それらは魏志倭人伝にも記されている通り朝鮮半島南部にて求められ、国内において各種道具に加工されていました。

それ故、初期の古墳(4世紀頃)においては、材料としての段階である鉄板状(鉄鋌)のものが、被葬者の権威、財を示す副葬品として北部九州~畿内の古墳においてに多く出土しています。

その後、6世紀頃になると、国内においても製鉄技術が半島経由にて渡来・確立され、その道具としての使用は以前に比べ、さらに一般的なものとなっていきました。

この鉄を農具として使用することにより、これまでよりも深く、広く土を耕すことが可能となり、また武器として用いた場合、よりその殺傷能力は向上し、それを装備したクニは更なる版図の拡大を為し得たものと考えられます。

以上のことから、初期の畿内ヤマト王権が日本各地(主に西日本)における支配権の確立を企てた一つの大きな目的とは、半島から齎される材料としての鉄ルートの確保であったとも考えられています。

そのため一昨日投稿分の記事にて書いた『畿内ヤマト王権の大動脈としての瀬戸内海』とは、ある程度妥当なものと評することが出来るのです・・。

とはいえ、この時期に各地域が培った製鉄・鉄加工技術とは、その後の時代に継承され、古来より刀剣等の鉄器にて名高い西日本地域の多くとは、おそらく、その歴史的背景にこうした事情が存在しているのではないかと考えられます。

さらに、各種鉄器の加工においては高温の炎・火力が必要であり、我が国の場合、多くの場合、それは木炭を用いていた。

そうした場合、温暖湿潤にて木炭作成のための森林伐採後の再生力が高い自然環境を具備した地域の方が好適地であると云え、おそらく出雲・吉備(島根・岡山)などは、それら条件を備えた地域であったと云い得ます。

さらに、この高温の炎・火力を得る技術とは、各種金属以前の原初的なセラミックスである土器(アース・セラミックス)の作成においても、極めて重要なものであり、あるいはこうした土器の時代より続く、技術の蓄積があったからこそ、後の青銅そして製鉄・鉄器加工の段階においても、それら技術体系の受容および更なる進化発展を成し遂げることが出来たのではないかと思われます・・。

・・さて、ここまで書いており、今回の記事投稿によって総投稿記事数が700に到達することを思い出しました・・。

あまり実感のようなものはありませんが、今後ももうしばらく記事作成を継続しようと思います。

今回も、そしてこれまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

そして昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域の生活諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。』