2023年11月28日火曜日

20231127 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204922
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204929

ドイツに侵攻したソ連軍は「占領地帯」に入ると、可動資産、工場設備、線路などを根こそぎ奪い取ろうとしたうえ、東ヨーロッパにある他のドイツ領からも代償(ルーマニアの石油、フィンランドの木材、ポーランドの石炭)を提供するよう要求した。

 たしかに、ソ連は戦線でも軍需生産でもドイツを打ち負かした。だが、それは信じられないほど軍需生産だけに力を注ぎ、他の部門をないがしろにしてきたおかげであった。そのため消費財、小売り商品、農産物などの供給は大幅に低下した(もっとも、食料生産の低下はドイツ軍による掠奪が大きな原因であった)。とどのつまり、1945年のソ連は軍事大国ではあったが、経済的には貧しく、アンバランスだったのである。1945年に武器貸与法が廃止さて、さらにその後の政治情勢が変ってアメリカの資金の流入を排除するようになったため、ソ連は1928年の第一次五カ年計画に立ち返り、自国の資源だけで経済成長を達成しようとしたー当時と同じく、生産財(重工業、石炭、電気、セメント)と輸送に重点をおいて消費財や農業生産を軽視し、また軍事支出は戦時より自然に減少するにまかせる政策をとったのである。その結果、当初は難航したものの、重工業に関するかぎり「ささやかながら奇跡的成長」(M・マコーリー)をとげ、1945年から50年にかけて生産高が倍増した。スターリン政権は、国力の屋台骨を立直さなければならないという使命感に燃えていたので、その本来の目的を遂行するには、あるいは国民の生活水準が革命前より下がったままでも、さしたる抵抗を受けなかったし。ただし、ここで指摘しておきたいのは、1922年以降の経済成長と同じく、この工業生産の「回復」の大半は、戦前の生産高に戻ったにすぎないという点である。ウクライナを例にとると、冶金と電力の生産高が1940年の数字に達したのは1950年前後のことである。重ねていうが、この大戦のせいで、ソ連の経済成長は10年ほど前で止まったままだったのだ。長期的にみてそれより深刻だったのは、必要欠くべからざる農業部門がひきつづき不振だったことである。戦時緊急奨励措置が棚上げになり、投資が全面的に不充分だった(しかも投資先を誤った)ため、農業が沈滞し、食糧生産が落ち込んだのである。スターリンは農家が私有農地の耕作を優先することに、死ぬまで激しい反感をもちつづけた。そのためにソ連の農業はいつまでたっても生産性が低く、効率が非常に悪かった。

 その反面、スターリンは戦後社会の軍事的安全保障を高度に維持することには心をくだいた。経済の立て直しが必要だったとすれば驚くまでもないが、あの巨大な赤軍が1945年以降、三分の一に減った。それでも全部で175個師団を擁し、25000台の戦車と19000機の航空機を保有していた。したがって、世界最大の防衛戦力だったわけであるーそれを正当化していたのが(少なくとも、ソ連の立場からすれば)、将来の侵略者を思いとどまらせる必要であり、もっとあけすけにいえば、極東で手に入れた領土はもちろん、ヨーロッパで新たに獲得した衛星国をも抑えつける必要があるという考えだった。だが、たしかに巨大な軍隊ではあったが、師団の多くは基幹要員だけで構成されており、実質的には駐屯部隊であった。さらに1815年以降の厖大なロシア軍と同じ危機に瀕していたー軍事技術の新たな進歩を目前にして、装備の老朽化が進んでいたことである。これに対抗するため、師団を大幅に編成しなおして近代化を進めるだけでなく、国家の経済資源と科学資源が新兵器の開発に向けられるようになった。1947年から48年にかけては強力なジェット戦闘機ミグ15が配備され、アメリカやイギリスを見習って遠距離航空部隊が創設された。また、捕虜にしたドイツの科学者や技術者を使ってさまざまな誘導ミサイルが開発された。さらに、大戦中から原子爆弾の開発を進められていた。そして、ドイツとの戦いでは補助的な役割しかはたさなかった海軍も、新型重巡洋艦や外洋潜水艦が加わって変貌しつつあった。だが、こうした兵器類の大半は二番煎じのもので、ヨーロッパの基準からすれば高性能とはいえなかった。しかし、ソ連が決意の点で遅れをとっていないことには疑いをはさむ余地がなかった。

 ソ連の力を支えるうえで大きな役割をはたした第三の要因は、スターリンが1930年代後半の国内の秩序維持と絶対服従主義にあらためて重点をおいたことである。これをスターリンのパラノイアが昂じたせいとみるか、独裁を強化するための計算しつくされた動きとみるかーあるいは、その両方があいまった結果とみるかーは、判断の難しいところだった。だが、起った出来事をみれば歴然としている。外国人とつきあいのある者は要注意人物と見なされた。帰還した捕虜は銃殺された。イスラエル国家が建設され、ユダヤ人にとって愛国心の対象ができたために、あらためてユダヤ人排斥の措置がとられるようになった。尊敬を集めていたジューコフ元帥が1946年に陸軍総司令官を解任されるとともに、軍の指導部も規模が縮小された。共産党内部でも規律が強化された。入党も難しくなった。1948年にレニングラードの共産党指導部(スターリンはいつも嫌っていた)が粛清された。文学や芸術ばかりでなく、自然科学、生物学、言語学にいたるまで検閲が厳しくなった。こうした全面的な「絞めつけ」は、当然、前述のように農業の集産化をうながし、冷戦の緊張を高めた。また、自然のなりゆきとして、ソ連の影響が強い東欧諸国でも、同じようにイデオロギーの硬直化と全体主義者による統制が進んだ。対立政党の排除、人民裁判、個人の権利や財産にたいする攻撃などが日常茶飯事となった。こうした国内の状況に加えて、とりわけポーランドと(1948年の)チェコスロヴァキアで民主主義が排斥されたこともまって、ソ連の体制にたいする西側諸国の熱意がどんどん薄らいでいったのである。スターリンが充分に計算したうえでそうした措置をとっていたのかーソ連の指導部は粗雑な論理によって自国民はもとより衛星諸国の国民も西側の思想や富から隔離したいと思っていたーあるいは自らの死を前にしてパラノイアが昂じたせいにすぎないのかは、これまた判断の難しいところである。いずれにせよ「アメリカの支配による平和(パックス・アメリカーナ)」の影響力がまったくおよばないどころか、それに代わる別の道があることを示す広大な地域が存在することになったのである。

 そのソヴィエト帝国の成長は、マッキンダーをはじめとする地政学者の予想を裏づけるものと思われた。すなわち、軍事大国がユーラシア大陸の「中核地域」の資源を支配するようになり、またその国家がさらに「周辺地域」にまで拡大しようとしても、グローバルな勢力の均衡を保とうとする大海洋国家がそれを阻もうとするという予想である。それから二、三年して、アメリカ政府は朝鮮戦争の失敗による動揺もあって、「一つの世界」というかつての理想を完全に捨ててしまった。その代わり、世界を舞台に超大陸が仮借ない戦いを繰り広げるという幻想を抱いた。だが、これはすでに、終戦当時の状況が暗に物語っていたことである。トクヴィルがかつていったように、世界の半分の運命をゆるがす力をもつ国は、アメリカとソ連だけであった。そして、両国ともいわゆる「グローバリズム」という考えにとらわれていた。1946年に、モロトフは「ソ連は世界最強の国の一つである。いまや国際関係をめぐる重大問題はソ連を抜きにしてはなにも決定できない・・・」とまでいったが、これはその前にアメリカがソ連政府を意識してほのめかした言葉にたいするお返しであった。チャーチルとスターリンが東欧諸国をめぐって非公式な協定を結ぶのではないかと思われたとき、アメリカはこういったのである。「この世界戦争では、政治的にも軍事的にも。わが国にとって関心のない問題は文字どおり皆無である」(H・フェイスの引用による)。深刻な利害の衝突は避けられない運命にあったのだ。