2017年7月16日日曜日

20170715 『わかる』およびその過程について・・

A「時折『君は歴史や文学についてわかっているのか?』といった意味のことを尋ねられることがありますが、このように問われますと『わかっています!』と万全の自信をもって返答することはできません。

しかし、考えてみますと、この『わかっている』というが、いささか、くせ者のようであり、こうしたものとは、各自各様に意見・好みといったものがあり、本質的に理系学問分野におけるような『定量化された要素の相対的な比較』といったものに還元できない性質があると考えます・・。

とはいえ、こうした場合においても、自身の思うことを正直に述べるのが相手に対する礼儀であると考えますので、自身はそのように返答している次第です。

また、他方で、歴史に関連するのかもしれませんが、たとえばある種の雨乞い祭祀、出土した銅鐸、古墳の石室あるいはそこに描かれている、刻まれている文様・絵画に関しては、そのおおまかな時代、地域もしくは意匠の背景に関しては(そこまで)的外れでない見解を述べることが出来るのではないかとも考えます・・。

これは実際の見分・書籍からの情報に基づいておりますが『まあ、大体そのようなものだろう』といった知識の体系を保持していることを自覚しているからであり、現在考えてみますと、そこに至るまでの過程とは、それなりに時間を要し且つ面倒であったと評し得ます。

しかし、そのように考えてみますと、これはさきに書いた雨乞い祭祀・銅鐸・古墳など以外の分野においても、自身がある程度専門的な内容を述べることが出来る背景には、そうした過程があることが、あらためて認識されてきます。

加えて、そうした、ある程度専門的な内容を話す場合においては、適当なことを云いますと、即座にバレてしまうのは、どの分野でも同じではないでしょうか・・?

とはいえ、であるからといって、私はそれらを『わかっている』とは考えておりません。

そして、それに関してもまた、医歯薬理工系を専攻とされる(た)方々とて同様ではないかと考えますが、如何でしょうか?

ともあれ、その『わかった』について今しばらく考えて、思い返してみますと、ある程度の経験・知識が集積された後、一度そこから『離れる』ことが、さらに一段階先の『わかる』うえで重要なのではないかと思われます・・。

これは未だ感覚的なことではありますが、そちらの方が、忘却とも昇華・消化?ともつかない状態、新たな気持ちにて、その対象に接することになり、さらには、さきの無意識化された経験・知識によって進捗も早くなり、結果的に一段階先の『わかる』に達することが出来るのではないかと思われます。

また、
こうしたことを『たとえ』を用いて表現しますと『砂場の砂山遊びにて、その高さを高くするためには一度頂上を叩き、平坦にする必要があること』あるいは歌の歌詞にあった『三歩進んで二歩下がる』といったようなことではないかと思われます・・(笑)。

これは効率的には良くはないのかもしれませんが、同時に人間の生理的には、こちらの方が無理がなく、適しているのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

*昨日投稿分の記事も比較的多くの閲覧者数を得ることができました(50近く)。

昨年より昨今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった自然災害により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。』