2023年6月19日月曜日

20230618 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」pp.560‐562より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」pp.560‐562より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

日本の古墳時代は、大きくとらえるならば、中国の華北と華中の分裂、対立の時代に存続し、髄から唐による統一の時代には、終末期をむかえ、やがて終わりを告げる。日本の古墳時代の成立や存続について、中国の国家からの政治的影響を強くみようとする説もあるが、私は基本的にはその見方は、こと古墳時代については、まったく逆であるとみている。

 ところで「海と陸のあいだの前方後円墳」において、大和や山城と海への交通路について一つの見通しを立てた。それは、簡単にいえば、日本海の要港敦賀津から近江、山城、摂津(北河内も)への交通路を中心にした淀川水系と越にまたがる一つの政治的まとまりで、文献的には”継体勢力の南下”といってもよいし、古墳としては、今城塚や宇治二子塚を重視した。また水運にたずさわる集団として、紀伊勢力と隼人を重視した。このうち紀伊勢力については、紀ノ川の水運と淀川の水運とが類似したものであることが、さらに注目される。 

 また短期間とはいえ、淀川水系と越の中継地として宇治の勢力についても改めて注目した。この時期、いいかえれば、紀ノ川の河口地帯に、左岸では岩橋千塚、とくに井辺八幡山古墳、右岸では大谷古墳などが造営されていて、大きな勢力をほこっているが、「日本書紀」では紀直の遠祖を菟道彦(うじひこ)としていて、その女影媛(むすめかげひめ)と大王家との婚姻関係も伝えている(景行三年条)。時代はともかくとして、宇治を根拠地とした淀川水系と紀伊勢力とのつながりを示すものとして注目される。

 継体勢力に象徴される淀川水系と越との地ーさらに日本海沿岸の各地ーが五世紀後半ごろから急速に発展し、とくに六世紀前半の古墳にはその時期として注目すべきものが造営されだすが、その背景には、東アジアでの高句麗勢力の強大化があるだろう。