2023年11月15日水曜日

20231114 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」 pp.438-441より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」
pp.438-441より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

イギリスは可能な範囲内で最良の意図と動機をもって、第一次世界大戦中に一連の約束をした。しかし戦争が終わってみると、これらの約束は互いに矛盾し、現実と折り合いをつけることが困難であることが露呈した。約束した当時、イギリスは極端な苦難のなかにあり、ドイツの潜水艦作戦によって国民を飢餓に陥れるリスクさえあった、と言えば多少は大目に見てもらえるだろうか。

 イギリスの約束は三つあった。第一は1915年のマクマホン=フセイン書簡のかたちをとった、アラブ人に対するものだ。これはイギリスの在エジプト高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンからのハシミテ家のフセイン王へのかなり迎合的な一連の書簡である。フセインは、預言者ムハンマドの直系を自任する家柄に属する、あごひげを生やした老いた名士だった。両者間の書簡の内容の大筋は、イギリス政府は、パレスチナからイラク、そしてペルシャとの境界までを擁する新しい大アラブ国家を全面的に支持する。そしてその国の王座にはフセインと彼の一族が就くというものだった。イギリスの望みは、この約束によってアラブ人に、当時ドイツと同盟関係にあったトルコへの反抗をけしかけることだった。実際に反トルコ暴動が起こったという意味では、これらの書簡には効果があった。映画「アラビアのロレンス」で伝説化され、その重要性がむやみに誇張された出来事だが、戦略的としては無意味に等しかった。

 第二の約束は、西部戦線でおびただしい数の犠牲者に苦しんでいたフランスに対するものだった。これは、戦争が終わった暁にフランスが手にするであろう栄光の土地をニンジンとしてぶらさげるという作戦だった。こうして1916年の密約、サイクス・ピコ協定に基づき、フランスはシリアからイラク北部まで伸び、バグダッドを含む地域を勢力圏として得ることになった。ついでながら、この細長い地域は2014年、イラクとシリアのイスラム国(ISIS)の狂信者が宣言したカリフが統治する帝国とも多少重なるところがある。フランスに対するこの秘密の約束がアラブ人に対するより公の約束とどうやって折り合いをつけたのかはまったくはっきりしない。率直に言えば、そもそも折り合いがついたのかどうかもわからない。

 第三の、そして最も悲喜劇的で支離滅裂な約束が、いわゆるバルフォア宣言である。これは実際には、外相A・J・バルフォアからのユダヤ系貴族院議員ロスチャイルド卿宛ての1917年11月2日付の書簡で、次のような官僚的技巧を駆使した傑作ともいえるくだりを含んでいる。
 
 イギリス政府は、パレスチナに現存する非ユダヤ人の市民的、宗教的権利、あるいはパレスチナ以外の国に暮らすユダヤ人が享受する権利や政治的地位が侵害されないことを明確に了解したうえで、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設立について好意的見解を有し、その目的の実現を促進するために最大限の努力をする。

 別の言い方をすれば、イギリス政府はユダヤ人が一つのケーキを食べることを好意的に眺めるが、それは非ユダヤ人がその同じケーキを同時に食べる権利を損なわないことえお条件としてということだった。

 この奇怪な宣言の後押しをしたのは何だったのだろうか? 一つには理想主義だった。19世紀のロシアにおける卑劣なユダヤ人虐殺以来、ユダヤ人に安住の地を与えようという運動が起りつつあった。イギリス政府は、ウガンダに土地を見つけることさえ考えたこともあったが、最も有力な候補地は旧約聖書の地であるパレスチナだった。パレスチナはまだ比較的に人口が希薄だった。バルフォアは「人のいない土地を土地の無い人に与えよう」という合唱にイギリスの公式のお墨付きを与えただけの話なのである。

 バルフォアはより実利的な考えに動かされていたのかもしれない。第一次世界大戦中、ユダヤ人の心情はドイツに傾きかねないという不安が強かった。戦争前のロシアにおける反ユダヤ主義に報復するにはそれが一番効果的だったからだ。チャーチルがのちに認めたように、バルフォア宣言には部分的にはユダヤ人、とくにアメリカのユダヤ人の支援を得ようとする意図もあった。その一方で、イギリス帝国部隊が大きく依存していた数百万人のイスラム教徒(とくにインドの)をつなぎとめておくという、矛盾した狙いがあり、この宣言の明白な混乱はそこから引き起こされたのである。
 これら三つの約束を同時に目てみると明らかなことがある。イギリスは一頭のラクダを三度売ったのだ。
 これこそチャーチルが処理しなければならない混乱だった。そして1921年3月、彼は重要な関係者全員をカイロの豪華ホテル、セミラミスに呼び寄せた。ここももちろん当時の大英帝国の非公式な一部だった。