2016年9月3日土曜日

20160903 岩波書店刊 金関丈夫著 「発掘から推理する」pp.1ー5より抜粋引用

「前線で戦死した巫女ーヤジリがささった頭骨」
「昭和25年(1950)の秋、長崎県平戸島の根獅子という所で発見された、弥生時代中期のはじめころの女性人骨は、頭骨のてっぺんに、銅の鏃がつきささっていた。
上から見ると、その折れ口が、長さ6.5ミリ、幅3ミリの、緑色の長い菱形を作り、その尖は頭骨の内面に達して、そこに小さな孔をのこしている。
レントゲンで透写すると、骨の中に埋もれているのは、鏃のさきの部分で、三角形に写り、その形や折れ口の形から、矢の全形もほぼわかった。
また、同じような銅鏃は、壱岐や北九州の弥生時代の遺跡から、他にも出土していることがわかった。
しかし、このように人骨につきささったままで、銅鏃が発見されたのは、これがはじめてだった。その時代には貴重品だったろうと想像されていた銅鏃が、このように実戦に使われていたことも、これでわかる。骨から推定すると、成年の女性で、上アゴの左右の犬歯、下アゴの切歯の全部が若いときに抜かれたあとがある。同じ所から出た他の人骨にも同様の抜歯のあとがあるから、風習的なものだということがわかる。この風習は縄文時代からあるが、日本の先史時代では、これが今まで知られているうちで、最も新しい時代の風習的抜歯である。鏃がささって損傷された部分には、頭骨の表面にも、わずかながら生前の変化があり、おそらく負傷後十数日は生きていたらしく、またおそらく、この傷のために起った、脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したと思われる。しかし、女性がこのように鏃で負傷したということ、つまり、女性が戦場の前線にでたということは、どう解釈したらいいだろうか。いろいろの推理は成り立つが、しかし最もありそうな、そして最も興味ある推理は、この女性がこの地の小さい集団の中での統率者であり、いわば女酋長だっただろう、戦争ともなれば、全集団の先頭に立って敵に向っただろうという想像である。しかし、そのとき彼女が持ってでたのは、けっして刀や槍ー少なくとも実用目的のーではなかった。何であったかはわからないが、霊力あらたかな呪いの道具であったに違いない。武力よりもまず呪力で、戦争を有利に導こうというのが、当時一般の戦法であったのだろう。これは今からほぼ二千年前の、平戸島の内部で起った、地方的な小さな事変の犠牲者であるが、こうした呪力をもつ女酋長が、大集団を統治した例は「魏志」の倭人伝にあるヤマト国を支配した、有名な女王のヒミコや、その娘のイヨがある。
ヒミコは鬼道に従事するもの、すなわちマジシアンだと書かれている、これは三世紀のはじめごろの日本の国情を伝えた記録である。また、これに近いころ、女性の身で水軍を統率して、朝鮮に出兵したと伝えられる神功皇后の例にも、その匂いがある。皇后もそうした霊力をもつ女性として記録されている。「崇神紀」にはタケハニヤスビコの叛乱のとき、巫女であったその妻アタヒメが、一部の軍を率いて、帝京(みやこ)を襲わんとするが、大阪で戦死したことがみえる。また、神功皇后のころにも、またその前に景行天皇が九州を征伐したときにも、女土蜘蛛が九州各地、ことに肥前にはたくさんいたことが、「風土記」などにみえている。女土蜘蛛というのも、やはりこうした巫術でもって、部民を統率していた女酋長とみていい。これらの例からみると、それより少し以前の、肥前の平戸島に、こうした女酋長がいて、政治もやり、戦争も指導したということは、きわめてあり得ることである。しかし、それにしても、彼女らは戦場で自ら傷つくほどの、第一線の活躍をしたかどうか。だが、これにも例がある。琉球というところは、今でもそうした巫女の勢力が幾らかのこっている所だが、そこでは古い諺に「ウナグヤ、イクサノ、サキハイ(女や戦の先駆)というのがある。また現に明の弘治十三年(1500)、八重山のアカハチ(赤蜂)が叛いたとき、その討伐軍には、久米島祝女キミハエ(君南風)という者が従軍して功を建てた有名な例がある。この戦争では叛軍のほうでもたくさんの巫女が戦死している。近年複製出版された寛元二年(1244)の漂流記「漂到琉球国記」には、この漂流船の乗員と一戦を交えようとして、小舟を艤して出動する琉球軍の活動がいきいきと描かれているが、弓や刀や盾を持った琉球戦士の中に、ただ一人、額に日蔭のかつらをつけ呪具とおぼしき飾りつきの矛をもった女性の、先頭とはいえないが、最も近景の舟上に立つ者が描かれている。この絵ははなはだ写実的で、祝女従軍の光景はこれで遺憾なくわかる。
銅鏃を頭に受けた平戸の女性は、このようにして戦った巫女の女酋長であったと推理する。」
発掘より推理する
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫