2022年12月30日金曜日

20221229 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.56-59より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.62-63より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

ロシアが南下政策を推進し、オスマン帝国の黒海沿岸地域を領有し、オスマン帝国内の正教徒の保護権を主張して介入を深め、バルカン半島のスラブ系諸民族に影響力を及ぼしていったのに対して、危機感を募らせた西欧諸国はロシアの拡大を抑制することを意図した介入を行っていく。露土戦争はロシアとトルコだけの問題にとどまらず、国際化したのである。露土戦争によるロシアのオスマン帝国領土の蚕食に対して、西欧列強諸国が、勢力均衡を守るために介入するというのが、「東方問題」の基本構図である。

 1735ー1739年の露土戦争では、黒海周辺でロシアがトルコを戦っているのに乗じて、ハプスブルグ帝国はロシアの側に立ち、オスマン帝国の版図だったバルカン半島のセルビアに侵攻して介入した。これは露土戦争に西欧諸国が介入する先鞭をつけた。

 1774年のキュチュク・カイナルジャ条約では、オスマン帝国がクリミア半島の支配権を手放すだけでなく、ロシア皇帝にオスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護権を与えた。これによって、オスマン帝国内の異教徒・少数派の保護を名目に西欧列強が介入する根拠ができた。

 1853-1856年のクリミア戦争では、ロシアの台頭を恐れた英・仏がオスマン帝国の側に立って参戦する。1877年から翌年にかけての露土戦争でロシアが勝利を収め、1878年のサン・ステファノ条約でバルカン半島の広範囲が、ロシアに割譲されるか、独立・自治を認められて実質的にロシアの勢力圏内に入ることになると、当時台頭していたドイツ帝国の宰相ビスマルクが主張してベルリン会議を開催し、ロシアに割譲された領土の多くをオスマン帝国に返還させた。

 言うまでもなく、英・仏を中心とした西欧の列強は、オスマン帝国の領土を奪うロシアを懲罰するために、また苦境に立たされたオスマン帝国を救おうという正義や善意から介入したわけではない。1814-1815のウィーン会議で形成された、欧州の列強諸国間の勢力均衡を原則として成り立つ欧州の国際秩序を守ることが、介入の目的だった。西欧の列強諸国は、オスマン帝国の権益をめぐって相互に牽制し合い、特にロシアの伸長を抑制して、勢力均衡を維持しようとした。

 オスマン帝国は17世紀までの拡張期には、「強すぎる」ことによってヨーロッパ諸国の脅威となり、問題となっていた。しかしその後、衰退期に入り、台頭するロシアによって領土を奪われていくと、オスマン帝国の「弱さ」こそが問題となった。オスマン帝国が崩壊して、その領土をいずれかの勢力が占有することで強大化し、列強間の勢力均衡が崩れることが問題視され、西欧列強の外交・安全保障上の課題として、「東方問題」が現れてきたのである。